第2話 まだ見ぬ世界へ
大聖堂を出ると、階段の下で赤髪の少女が待っていた。先ほど笑いをこらえていたエルシーだ。その足元には、大きな旅行鞄が置かれている。
「エル。何だ、その荷物」
「見れば分かるでしょ。旅の準備」
エルシーは明るく笑い、鞄の取っ手を持ち上げた。
「私も行くから」
「どうして?」
「お目付け役」
「誰の?」
「黒猫を連れて叙任の儀式に出るような人の」
アレンの肩で、ミルがゆっくりとエルシーを見る。額の紋様が淡く明滅した。
「その子、たぶん猫じゃないからね」
「かわいいだろ?」
「そこは否定してないわよ」
彼女は、歴史や出来事を言葉として後世へ伝える、語り部の一族に生まれた。
その父は、王国に残る伝承や名家の記録を聞き集めるため、たびたびアレンの屋敷を訪れていた。幼いエルシーも父に連れられ、そこで同い年のアレンと出会った。名門の跡取りと、語り部の娘。
本来なら身分に隔たりのある二人だったが、アレンは初めて会った日から彼女を「エル」と呼んだ。エルシーは何度も正式な名前で呼ぶよう注意した。それでもアレンが呼び方を改めなかったため、いつしか訂正することを諦めた。
それ以来、二人は幼馴染として育ってきた。
「家の人には話したのか?」
「話したよ。お父さんからも、語り部なら人から聞くだけじゃなく、自分の目で見てこいって」
アレンは鞄を見下ろす。
「何をそんなに持ってきたんだ?」
「着替えと薬と保存食。それから毛布、火打ち石、地図、方位磁針」
「ずいぶん多いな」
「あなたが持ってこなさそうなものを、一通りね」
アレンは自分の腰にある剣と、小さな荷袋を見る。
「ちゃんと準備してきたぞ」
「その中には何が入ってるの?」
「ミルの餌」
エルシーは黙って空を仰いだ。
「やっぱり、ついていくことにして正解だったわ」
アレンが困っている者を見ると放っておけないことも、誰かを助けることに夢中になると自分のことを忘れてしまうことも、エルシーはよく知っている。だから、この大きな鞄の中には、自分の荷物だけが入っているわけではなかった。
その晩。自室へ戻ったエルシーは、机の上に革張りの手帳を開いた。蝋燭の火に照らされた白い頁へ、今日の日付を書き込む。
――アレンの叙任を願う儀式が行われた。
――儀式の途中、アレンの外套から突然ミルが現れた。
そこまで書いたところで、エルシーの口元がわずかに緩んだ。今日の出来事を書き終えるとペンを置き、乾くのを待って手帳を閉じてから眠りに落ちた。
翌朝。王都の鐘が鳴る。重い門が開き、その向こうに一本の道が伸びていた。
アレンはミルを肩に乗せ、エルシーの大きな鞄を半ば強引に受け取ると、門の外へ歩き出した。エルシーもその隣へ並ぶ。朝の光の中、二人と一匹の影が、まだ見ぬ土地へ続く道の上へ長く伸びていた。
街道をしばらく進んだころ、アレンが振り返った。
「目的の村までは、あとどれくらいだ?」
エルシーは地図を広げる。
「順調に進めば三日ってとこかしらね。途中の宿場町で一泊して、明日は森の手前にある村へ向かう予定よ」
「順調に進めば、ね」
「なに?」
「まったく、何もなければいいんだけど」
「俺は何も起こしてないぞ」
「前にも似たようなことがあったじゃない。ほら昔、迷子の犬を追いかけて隣町まで行ったことがあったわよね」
「あれは、ちゃんと飼い主のところに帰した」
「あなたまで迷子になったけどね」
「帰れたから問題ない」
「迎えに行ったのは私よ」
エルシーが呆れたように言うと、アレンはしばらく考え込んだ。
「じゃあ、今回も何かあったら頼む」
「まったくもう」
エルシーは呆れたように息をついた。やがて街道を行き交う人の数が減り、周囲には風に揺れる草原だけが残った。太陽が頭上に差しかかろうとしたころ、ミルが不意に身体を起こした。
額の紋様が、かすかに明滅する。
「どうした?」
アレンが足を止める。ミルは街道の先ではなく、右手にある草むらを見つめていた。エルシーも足を止め、耳を澄ませる。
風が草を揺らす音に交じって、かすかな声が聞こえた。
「誰かいるのか?」
返事はない。アレンは背負っていた鞄を地面へ下ろし、草むらの中へ入っていく。
「待って、アレン。一人で行かないで」
エルシーもその後を追った。草をかき分けた先は、街道より一段低い斜面になっていた。その下で、一台の荷馬車が横倒しになっている。片方の車輪が外れ、積まれていた木箱が辺りに散乱していた。
荷馬車のそばには、足を押さえて座り込む老人と、その身体へしがみつく少年がいた。
「大丈夫か?」
アレンが斜面を駆け下りる。老人は驚いたように顔を上げた。
「た、助けてくれ。車輪を戻そうとしたんだが、荷台に足を挟まれてしまって……」
アレンは老人の足元を確かめた。荷台の一部が倒れ、その下に右足が挟まっている。幸い出血は少ないが、一人の力で抜け出すのは難しそうだった。
「今、持ち上げる。エルはこの人の足を頼む」
「分かったわ。無理に動かさないでね」
エルシーは老人の隣へ膝をつき、鞄から布と薬を取り出した。アレンは倒れた荷台に両手をかける。
「お、おい。いくらなんでも一人では――」
老人が止めるより先に、アレンは荷台を持ち上げた。木材がきしみ、アレンの靴が柔らかな地面へ沈む。
「今だ!」
エルシーは老人の身体を支えながら、挟まれていた足を引き抜いた。アレンがゆっくりと荷台を下ろす。老人の足首は赤く腫れていたが、骨は折れていないようだった。
「少し痛むけれど、安静にしていれば歩けるようになると思うわ」
エルシーは患部へ薬を塗り、布を巻いていく。
「ありがとうございます」
老人にしがみついていた少年が、深く頭を下げた。その声は震えていた。ミルが少年の前まで歩いていき、じっと顔を見上げる。
少年はおそるおそる手を伸ばした。ミルは逃げずに、頭を差し出すように目を細めた。
「猫……?」
「そうだ」
アレンが答える。
「たぶん違うわよ」
エルシーがすぐに付け加えた。ミルの額と尻尾に浮かぶ輪を見た後、少年の顔に少し笑顔が戻った。アレンは散らばった荷物を集め、外れた車輪を荷馬車へ取り付け始めた。
エルシーも木箱を一つずつ運んでいく。
「アレン」
「どうした?」
「これで今日中に宿場町へ着けなくなったわ」
「そうだな」
「野宿になるかもしれないわよ」
「毛布は持ってきてるだろ?」
「誰のおかげだと思ってるの?」
「エルのおかげだな。ありがとう」
あまりにも素直に言われ、エルシーは言葉を止めた。
「はぁ、どういたしまして」
二人が荷馬車を直し終えたころには、太陽は西へ傾き始めていた。老人は何度も頭を下げた。
「本当に助かった。私はこの子を連れて、王都へ向かう途中だったんだ」
「王都へ?」
エルシーが尋ねる。老人の表情が曇った。
「私たちが暮らしていた村で、妙なことが続いていてな。家畜が消え、夜になると森から獣とも人ともつかない声が聞こえる。先月には、村の若者が一人、行方不明になった」
アレンとエルシーは顔を見合わせた。
「村の名前は?」
アレンが懐から書状を取り出す。老人が告げた村の名前は、アレンたちが向かっている場所と同じだった。
「教会から来た騎士が、悪魔の仕業だと言っていた。村に残るのは危険だ。だから、せめて孫だけでも王都へ連れていこうと思ったんだ」
老人は少年の肩を抱き寄せた。少年の手は、まだミルの頭に触れている。
「悪魔を見たのか?」
「いや。私は見ていない。ただ、森の中で黒い影を見た者がいる。それに、家畜小屋には大きな爪痕が残っていたそうだ」
「ほかには?」
「ほか?」
「家畜小屋は壊されていたのか? 鍵は? 足跡は残ってなかったのか?」
老人は戸惑った顔をした。
「そこまでは……。皆、悪魔がやったのだろうと」
アレンは書状を見下ろす。そこにも「魔物、あるいは悪魔による被害の可能性」と記されているだけで、正体を見た者がいるとは書かれていなかった。
「予定を変える」
アレンは書状を畳んだ。
「今から村へ向かおう」
エルシーは空を見上げた。
「着くころには暗くなるわよ」
「でも、何が起きているか分からないまま、村には人が残ってる」
アレンの答えを聞いて、エルシーは小さく息を吐いた。反対しても無駄だと知っている顔だった。
「分かったわ。ただし、日が完全に沈む前に森を抜けること。それから、危険を感じたら一人で飛び出さないこと」
「分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
「今のうちに、荷物へ縄を足しておくべきかしら」
「何に使うんだ?」
「あなたをつないでおくのよ」
アレンは冗談だと思って笑った。エルシーは半分ほど本気だった。老人と少年を街道まで送り届けると、二人は来た道を外れ、北へ続く細い道へ入った。
先ほどまで静かだったミルが、アレンの肩の上で何度も後ろを振り返っている。額の紋様が、一定の間隔で淡く光っていた。やがて太陽が山の向こうへ沈み始める。
森を抜けた先に、小さな村が見えた。
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