第1話 すべてが始まった日
騎士の叙任を願う儀式に黒猫を連れてきた者は、王国の長い歴史の中でもアレンだけだった。もっとも、本人に連れてきたつもりはない。
王都の大聖堂。白い石で造られた広間には朝の光が差し込み、正面に立つ女神像を照らしていた。その中央で、アレンは片膝をついている。
見守るのは、王国の騎士や聖職者、そして名門と呼ばれる家々の者たち。小さな咳払いさえ響き渡りそうな静寂の中で、司祭が儀礼用の長剣を掲げた。刃の両面には、女神への祈りと天使たちの歴史が刻まれている。
「アレン――。汝は女神の教えに従い、正しき歴史と秩序を守ることを誓うか」
「誓います」
迷いのない声が聖堂に響く。司祭は剣をアレンの右肩へ置いた。続いて左肩へ移そうとした、そのときだった。
アレンの外套の中で、何かが動いた。司祭の手が止まる。参列者たちの視線が集まる中、黒い塊がアレンの胸元から顔を出した。
手のひらほどの大きさをした、黒猫のような生き物だった。額には円環状の紋様があり、尻尾の先には宙に浮かぶ光の輪。身体には不釣り合いなほどぼろぼろのマントを羽織り、首からはダイヤ型のペンダントを下げている。
誰がどう見たって普通じゃない。その生き物は周囲を見回すと、アレンの肩へよじ登った。尻尾の輪が、満足そうに淡く光る。
「……アレン」
司祭が低い声で名前を呼ぶ。
「はい」
「その生き物は何だ」
アレンは肩に乗った黒猫を見る。黒猫もアレンを見る。
「ミルです」
「名前を聞いているのではない」
「猫です」
聖堂内がざわめいた。最後列に立っていた赤髪の少女だけが、口元を押さえて笑いをこらえている。このときミルの目が、ほんの一瞬だけ彼女へ向けられた。
司祭は額へ手を当てた。
「額と尻尾が光っているが」
「昔からです」
「マントを着ているように見える」
「似合っているでしょう」
「そういう話ではない」
ミルは司祭から顔を背け、アレンの肩で丸くなった。話を続ける気はないらしい。
「この儀式がどういう意味を持つのか、君も分かっているのだろう」
「分かっています」
「なら、なぜ連れてきた」
「置いてきたつもりでした」
聖堂の入口は閉ざされ、太い閂も掛けられている。どこから入ってきたのか、アレンにも分からなかった。
「外へ出してきなさい」
「でも、知らない場所に一人で置いていくのはかわいそうです」
「ここまで一人で入ってきた生き物だぞ」
「緊張しているかもしれません」
司祭はミルを見る。ミルは目を閉じ、完全にくつろいでいた。
「そのようには見えないが」
「強がっているんです」
最後列から、小さく噴き出す声が聞こえた。アレンが振り返ると、赤髪の少女は何事もなかったように視線をそらした。
ミルと出会ったのは、アレンが十歳のころだった。剣の稽古から戻る途中、屋敷の裏にある森で、かすかな物音を聞いた。音を追って入った古い礼拝堂の中で、ミルは壊れた女神像の足元にうずくまっていた。
黒い毛は雨と泥に濡れ、マントもひどく破れていた。今は光を放っている額と尻尾の輪も、そのときは消えかけた火のように弱々しく明滅していた。アレンは持っていた昼食のパンを半分に割り、その前へ置いた。
しかし、黒い生き物は警戒したまま動かなかった。そこでアレンは、残りの半分を先に自分の口へと入れた。しばらくして、黒い生き物はおそるおそるパンへ近づき、小さな口で食べ始めた。
その日は礼拝堂へ残して帰った。だが翌朝、目を覚ますと、その生き物はアレンの枕元で丸くなっていた。今思えば、そのときも窓には鍵が掛かっていた。
屋敷の者に外へ出されても、翌日には戻ってきた。それを何度か繰り返すうちに、誰も追い出そうとはしなくなった。
家の者たちは口々に尋ねた。それは何という生き物なのか。なぜ身体に紋様があるのか。どこでそのマントやペンダントを手に入れたのか。アレンの答えは、今と同じだった。
「猫だと思う。かわいいだろ?」
結局、誰一人として納得しなかった。それでも、以来ミルは一度もアレンのそばを離れていない。
「家族を外へ出したまま、自分だけ儀式を受けることはできません」
アレンが言う。司祭はしばらく黙っていた。やがて深いため息をつき、剣を持ち直す。
「まあいい。儀式の間、おとなしくさせておきなさい」
「ありがとうございます」
ミルが片目を開く。司祭と目を合わせると、再び顔を伏せた。
「……続けるぞ」
儀式は、それから間もなく終わった。ただし、アレンがその場で正式な騎士に叙任されたわけではない。王国の騎士となるには、最後に一つ、実地の試練を果たす必要がある。
大聖堂の奥にある小部屋で、司祭は一通の書状をアレンへ差し出した。
「北西の辺境にあるリュネ村で、被害が続いている」
書状には、家畜が襲われたこと、村の若者が行方不明になったこと、夜ごと森から獣の声が聞こえることが記されていた。
「現場には、大きな爪痕が残されていた。魔物による被害と見て間違いないだろう」
「本来なら地方騎士団が対処する。しかし、被害はまだ小さい。お前の叙任の試練としては適切だ」
「まだ小さい?」
アレンは書状から顔を上げた。
「死人は出ていない、という意味だ」
「なら、出る前に向かいます」
アレンは書状を折りたたみ、懐へ収めた。
「旅の準備もせずに行くつもりか」
アレンは少し考える。水と剣はある。しかし、食料も地図もない。
「……明日の朝にします」
「そうしなさい」
司祭は何か言おうとしたが、結局、小さく息を吐いただけだった。
大聖堂を出ると、朝から続いていた雲が晴れ、石畳に光が差していた。階段の下では、先ほど笑いをこらえていた赤髪の少女が待っている。足元には、大きな旅行鞄が置かれていた。




