第0話 みんな死んじゃったの?
突如として、光の槍が幼い少女の体を貫いた。
「魔王様!」
地面に、黄金の飾りが落ちる。
「「ア、レン……」」
瞬く間に、周囲は光に包まれていった。
◇◇◇
「魔王は、悪い人だったの?」
少女の問いに、老婆はすぐには答えなかった。暖炉の火が、ぱちりとはぜる。老婆の膝には、一冊の古い本が開かれていた。表紙に題名はなく、角は擦り切れ、何度も読み返されたページだけが薄く波打っている。
印刷された本ではない。すべて、手で書かれたものだった。そこに描かれているのは、光を背負った天使と、その足元に倒れる黒い魔物たちだった。
「本にはそう書いてあるね」
「じゃあ、やっぱり悪い人だったんだ」
少女は納得したように頷くと、絵の中の魔王を指でなぞった。頭には大きな角。背中には黒い翼。金色の目は怒りに満ち、手には血に濡れた剣を持っている。いかにも悪そうな見た目である。
「昔、悪魔たちは世界を支配し、多くの人々を苦しめていました。そこへ女神様に導かれた天使たちが現れ、長い戦いの末に悪魔を退けました――」
少女は聞き慣れた物語の続きを口にする。学校でも、教会でも、町の祭りでも語られる話だ。
天使は正義で、悪魔は悪。
女神は世界を救い、その光によって今の平和がもたらされた。
「おばあちゃんも、子供のころに聞いた?」
「ああ。何度もね」
「その前のおばあちゃんも?」
「聞いていたよ。そのまた前も、きっと」
「じゃあ、本当なんだね」
少女の無邪気な言葉に、老婆は目を細めた。その指が、魔王の描かれたページの端に触れる。そこには、無理やり引きちぎられたような跡が残っていた。
「物語というものはね、語る人がいなくなれば消えてしまう。けれど、語り続けられたからといって、すべてが真実になるわけでもないんだよ」
「どういうこと?」
「誰かが、最初の一言を決めるということさ」
老婆は本を閉じた。表紙の埃が舞い、暖炉の光の中へ溶けていく。
「たとえば、この物語を『恐ろしい魔王が現れた』ところから始めれば、魔王は悪者になる」
「うん」
「でも、もしその前にも何かがあったとしたら?」
少女は首を傾げた。老婆は答えを教えなかった。代わりに、閉じた本の上へ手を置く。その手の甲には、遠い昔についたらしい細い傷が残っていた。
「これは、魔王を倒した英雄たちの物語だ」
炎が揺れ、老婆の顔を影が覆う。
「そして、一度すべてが終わったあとの物語でもある」
「おわったあと?」
「そうさ。魔王も、勇者も、その仲間たちも。この物語に出てくる者はみんな、一度死んでいるんだよ」
少女は目を丸くした。
「みんな死んじゃったのに、どうしてお話が続くの?」
「続いたんじゃない。もう一度、始まったんだ」
老婆は窓の外へ目を向けた。夜は深く、雪が音もなく降り積もっていく。
「けれどね、誰もそれを覚えていない。魔王も、勇者も、自分が一度死んだことなんて知らないまま、同じ朝を迎えて、同じ道を歩きはじめた」
「誰も?」
「ああ」
老婆は少しだけ言葉を切った。
「……誰一人、ね」
それから、再び本を開く。今度は、天使でも魔王でもない、一人の少年が描かれたページだった。
「これ、その男の子のお話?」
「そうだ」
老婆は少女の頭を撫でた。
「読めば分かるさ」
少女は毛布を抱え込み、身を乗り出した。老婆は最初の一行へ指を置く。節くれだった指が、文字の上をゆっくりと滑っていく。




