第11話 二人と一匹
ルナを乗せた馬車が見えなくなっても、アレンはしばらく大聖堂の前に立っていた。
「そろそろ行こっか」
エルシーに声をかけられ、ようやく通りへ目を戻す。
「ああ」
二人は並んで歩き出した。アレンの肩では、ミルが流れていく街並みを眺めている。
「なんだか久しぶりな気もするわね。こうして二人で過ごすの」
「確かに最近忙しかったしな」
エルシーが不思議そうにアレンを見つめた。
「何だよ」
「ミルもいるから、二人と一匹だって言うのかと思ってた」
アレンは肩のミルを一度見た。
「いやさ。こうしてエルと二人で並んで歩いてると、なんか懐かしくなっちゃって」
「アレンも?」
「ああ。昔もよく、こうやって歩いたよな」
「歩いたというより、アレンの寄り道についていってあげてたの」
「エルだって楽しんでたじゃないか」
「放っておいたら、どこまで行くか分からなかったからでしょ」
「でも、最後までついてきた」
「昔からお節介だったの。誰かさんと同じでね」
朝の王都には、店を開ける音が響いていた。通りの両側で木製の鎧戸が押し上げられ、露店には新しい布が張られていく。そのとき、焼きたてのパンの香りが風に乗って流れてきた。
「いい匂い」
エルシーが足を緩め、通りの先にあるパン屋へ目を向ける。アレンの肩では、ミルが鼻先をわずかに動かしていた。
「二人ともお腹がすいたのか?」
「私は朝ご飯を食べてないだけ」
「分かったよ。何か食べていこう」
三人はパン屋へ向かった。店先には焼き上がったばかりの丸パンと、蜂蜜を塗った小さな焼き菓子が並んでいる。アレンは焼き菓子を一つだけ買った。
「自分の分は?」
「これはエルの分だぞ」
「どうして私に?」
「昔から好きだっただろ」
アレンはそう言って、焼き菓子を差し出した。エルシーは受け取らず、じっとアレンの顔を見つめる。
「何だよ」
「覚えてたんだ」
「忘れるようなことか?」
「アレンは食べ物のことばかり覚えてるから」
「エルが蜂蜜のところだけ最後に食べるのも覚えてるぞ」
「それは忘れていいの」
エルシーは焼き菓子を受け取った。表面に塗られた蜂蜜が、朝の光を受けて艶やかに光っている。
「半分食べる?」
「いいのか?」
「最初から、そのつもりで一つしか買わなかったんじゃないの?」
「いや、金が足りなかった」
エルシーの笑顔が止まった。
「昨日、買い物をしたからな」
「少しは考えて使いなさい」
そう言いながらも、エルシーは焼き菓子を半分に割った。大きさを見比べ、わずかに大きい方をアレンへ差し出す。
「こっちでいいのか?」
「私はそんなに食べないから」
アレンが受け取ろうと手を伸ばす。その間へ、ミルの顔が割り込んだ。アレンの手が止まる。
ミルは焼き菓子を見つめ、次にエルシーを見た。
「ミルも食べたいのか?」
アレンが小さくちぎって差し出すと、ミルは匂いを嗅いだだけで顔を背けた。
「食べないの?」
エルシーが尋ねても、ミルはアレンの肩へ戻り、通りの向こうを眺めている。
「もしかして、嫉妬した?」
ミルは何の反応も見せなかった。
「違うんじゃないか?」
「どうかな」
エルシーは焼き菓子を口へ運びながら、ミルを横目で見た。言葉どおり、蜂蜜の多い部分だけは最後まで残していた。朝食を終えた二人は、王都の南側へ向かった。
大通りを外れると、人通りは少なくなる。石造りの家々の間を細い水路が流れ、その上に古い橋が架かっていた。
「こっちへ来るのも久しぶりだね」
エルシーが橋の欄干へ手を置く。水路の先には、小さな丘が見えていた。二人が幼いころ、よく遊んでいた場所だった。
丘の上には一本の大きな木が立っている。枝から吊るされた板切れは、かつて二人が作った遊具の名残だった。縄は傷み、板は片側へ傾いている。
「まだ残ってたんだな」
アレンが縄へ触れる。
「乗ったら切れるかな?」
「試すなよ」
「アレンなら試すと思ったのに」
「俺を何だと思ってるんだ」
「壊れそうなものほど触りたがる人」
アレンは縄から手を離した。エルシーは木の根元へ腰を下ろす。アレンもその隣に座った。
ミルは肩から降りると、二人の間にできたわずかな隙間へ身体を収めた。
「ミル、今日はどうしたんだ?」
アレンが尋ねる。ミルは前脚を揃えたまま、丘の下に広がる王都を見ていた。
「そこが気に入ったのかな」
エルシーが少しだけアレンの方へ寄る。ミルはその場で一度伸びをすると、今度はアレンの膝へ移った。長い尻尾だけが、二人の間へ残されている。
「やっぱり邪魔してるんじゃない?」
エルシーが笑う。
「たまたまだろ」
アレンがミルの背を撫でると、その身体は膝の上で丸くなった。
「もしかして、嫉妬した?」
ミルは目を閉じたまま動かない。
「心配しなくても、アレンを取ったりしないよ」
「今の言い方だと、ミルが俺のことを好きみたいだな」
「違うの?」
「どうなんだ?」
アレンが尋ねても、ミルは眠るように顔を伏せた。
「猫に聞いても分からないか」
「それくらいが、ちょうどいいのかもね」
風が吹き、頭上の葉が音を立てた。丘の下に広がる王都には、大聖堂の尖塔が見える。白い女神像は、遠くからでも朝の光を受けて輝いていた。
エルシーはしばらくその姿を眺めたあと、腰の手帳へ触れた。
「アレンは、騎士になれなかったらどうするの?」
「急にどうした?」
「今回の件で、教会がどう判断するか分からないでしょう」
アレンも大聖堂へ目を向ける。
「魔族を逃がして、勝手に廃坑へ入った。調査でヴァイスの話が間違いだと判断されたら、叙任の話もなくなるかもしれない」
「そうかもな」
「怖くないの?」
「騎士にはなりたい。でも、あのときヴァイスへ剣を向けていたら、たぶん後悔してた」
アレンは膝の上にいるミルの背を撫でた。
「少女を助けたのはあいつだ。それを知ってるのに、悪魔だからって斬るのは違うと思う」
「それで騎士になれなくても?」
「そのときは、別の方法を考える」
迷いのない答えだった。エルシーは腰から手帳を取り出す。何かを書こうとして開いたものの、白いページを見たまま筆を止めた。
「書かないのか?」
「今はいい」
「どうして?」
「忘れないと思うから」
手帳を閉じたエルシーは、木の幹へ背中を預けた。
「私がついてこなかったら、アレンは一人でも旅に出てた?」
「ああ」
「即答なんだ」
「困ってる人がいるって聞いたからな」
「少しくらい迷ってくれてもいいのに」
エルシーは不満そうに頬を膨らませた。
「でも、一人だったらガイルの足跡には気づかなかった」
「私がいたから?」
「エルがいたからだ」
アレンはまっすぐに答えた。
「廃坑の記録も、俺一人じゃ残せなかった。ルナとも出会えなかったかもしれない」
「そこまで言われると、ついてきた甲斐があったかな」
「エルがいてくれてよかったよ」
一瞬、風の音だけが二人の間を通り抜けた。エルシーが何かを言おうと、わずかに口を開く。その前に、アレンの膝で丸くなっていたミルが身体を起こした。
金色の目が、エルシーを見つめている。
「どうしたの?」
エルシーが手を差し出す。ミルはその手へ鼻先を近づけたあと、もう一度アレンの膝で丸くなった。
「今日は落ち着かないな」
アレンが背を撫でても、ミルは目を閉じたままだった。
「昔から俺のそばにいるから、嫌われてはいないと思う」
「そういうところだけは自信があるんだ」
「エルだって、ずっと一緒にいるだろ」
エルシーの視線が、ふっと足元へ落ちた。
「……そうだね」
「ミルより長いな」
「比べる相手が猫なのは、少し複雑だけどね」
昼を過ぎても、二人はしばらく丘の上で過ごした。その間、懐かしい話をした。幼いころ、アレンが木から落ちて腕を折ったこと。
エルシーが初めて書いた物語を、アレンだけが最後まで読んだこと。本当に、いろいろ。
「そういえば、あの物語の結末をまだ聞いてないぞ」
「何の?」
「姫を助けに行った騎士が、魔物の城に着いたところで終わってたやつ」
「あれは未完成なの」
「続きは?」
「もう書かないよ。子供のころの話だもの」
「気になるんだけどな」
「じゃあ、いつか考えておく」
「約束だぞ」
「覚えていたらね」
「俺は覚えてるからな」
「食べ物のこと以外も覚えられるんだ」
「俺を何だと思ってるんだよ」
日が傾き始めたころ、二人は丘を下りた。歩き疲れたのか、ミルは再びアレンの肩で丸くなっている。帰り道の途中、エルシーの歩調が少し遅くなった。
アレンもそれに合わせて足を緩める。
「どうした?」
「何でもないよ」
「疲れたなら休むか?」
「そうじゃなくて……今日は、少し懐かしかったなって」
エルシーは前を向いたまま答えた。
「旅に出る前へ戻ったみたいだった」
「まだ旅に出てから、それほど経ってないぞ」
「いろいろありすぎたの」
「そうだな」
「でも、前と同じじゃない」
エルシーは腰の手帳へ手を添えた。
「なんだか、知らなくていいことまで知っちゃったみたい」
アレンは少しだけ考え、頷いた。
「だったら、また俺たちで戻って来よう」
「どこへ?」
「ここに」
アレンは後ろに見える丘を指さした。
「ルナも連れてこよう。ヴァイスも、また会ったら誘えばいい」
「断られそうだけど」
「そのときは何度でも誘う」
「アレンらしいね」
エルシーが笑う。その肩がアレンの腕へ、ほんの一瞬だけ触れた。アレンは気づいていないのか、そのまま同じ歩調で歩き続ける。
肩の上では、ミルが薄く目を開け、すぐにまた閉じた。三人が大聖堂近くの宿へ戻るころには、王都の空が夕焼けに染まっていた。穏やかな風が、二人と一匹を包んだ。




