10.親
「ただいま」
家に到着すると、香ばしい香りが鼻腔をくすぐった。
「おかえり」
「ただいま」
キッチンの方へ行くと、今日は母が珍しく早くに帰宅していた。
「今日はパート終わるの早かったんだな」
「えぇ。そうねぇ」
調理をしながら、ながら会話を繰り広げる母の返事はどこか軽い。
「……今日、父さんの帰りは?」
「んー? そろそろ帰ってくるんじゃない」
「そっか」
俺は一つ咳払いをした。
「実は、また相談したいことがあるんだ」
「……またぁ?」
さっきまで生返事だった母の声が、わかりやすくうんざりげだった。
「ただでさえ、この前の妊娠報告で疲弊したってのに。まだあたし達を追い込む気? これもうマザーハラスメント。マザハラよ」
「変な造語を作るな」
俺は思わず突っ込んだ。
「ああ、いや……相談する立場なのに、偉そうな口を聞いてごめん」
「……ふう。気にしないで。それで、相談って何?」
「……」
「何。お父さんもいないと駄目な感じ?」
「そういう……わけでもないような、あるような」
「何よ、曖昧ね」
……まあ、母だけでも大丈夫、か。
「実は……今日、白石と今後のことを話し合ったんだ」
「今後のこと?」
「そう。……子供が出来るにあたって、どこに住むかって話だ」
「……どこって」
「それで……マンションの契約をしようと思ったのだが、内見の予約の時点で断られてしまってな。途方に暮れていたんだ」
「……なるほどねぇ」
母は俯き、一旦調理をする手を止めた。
「晃、一ついい?」
「何」
「あんた、この家を出ていくつもりだったの?」
心底意外そうに母は尋ねてきた。
「ああ。……だって、迷惑だろう?」
「迷惑?」
「……子育てを始めたら、夜泣きだったりなんだったり、毎日が騒がしくなるじゃあないか。確かに、この前は子育てのサポートをしてほしいとは言ったが、二人に迷惑をかけたいと思っているわけじゃないんだ」
「晃、あんた、なんだか誤解をしているみたいだけどさ」
母は呆れたため息を吐いた。
「あたし達、あんた達の子育てのサポートが迷惑だなんて一度でも言った?」
「……言ってない」
「でしょ。なんでだと思う。迷惑じゃないからよ」
なんでだと思う、と言いながら、先に答えを教えてくれた。
「……晃、あんたはいつも一人で突っ走りすぎ」
「そうだろうか」
「そうよ。……物件を探してみて費用が嵩むこととかに気付いて、内心焦ったりしたんじゃないの」
「まあ、アルバイトは必要だとは思っていた」
「ほら見なさい。……つまりさ、何が言いたいかってさ」
母は俺の肩をポンと叩いた。
「不動産屋なんか行く必要ない。子供が生まれた後も、三人でこの家に住みなさいよ」
……母ははにかんだ。
そんな母のはにかみを見ている内に、俺は自分の視野が狭くなっていたことに気付かされた。
……普通に考えればそうだ。
まず、物件を探そうとする前に……親に相談するべきだったんだ。
子育てにかかる費用は膨大だ。
その上、俺達は大学進学も目指している。
費用も、時間も……将来、目指すものを得るためには、自分達だけの力ではどうにもならない現実には、少し前には気付いていたはずなのに。
……子供が産まれた後も、この家に住む。
両親に庇護してもらう。
一児の父親として、親離れできない状況は恥ずかしい。
しかし、その羞恥から逃げ出すために、白石や子供に悲しい思いをさせるのは間違っている。
「……駄目だ」
理屈ではわかった。
しかし、俺は首を横に振った。
「なんでよ」
「……つまりさ、母さんの要望を聞くと、白石をウチに住まわせるってことだろう?」
「そうね。婚姻届は出せていないとはいえ、あなた達事実婚なわけだし」
「……だから、ちゃんと話さないと」
「ん?」
「白石の親に……彼女をくださいって、話さないと」
母は……目を丸くしていた。
「そうね」
しかし、少しして肩を竦めてみせた。
「男としてのけじめ、ね」
「ああ」
俺は頷いた後、白石家への挨拶をどんな感じにするかを考えて……一つの仮説に行き着いた。
「なあ、母さん」
「何?」
「もし……白石家がさ。……俺と白石の同棲を認めない、という場合は一旦無視して。俺が、彼女の家に住め、とそう迫ってきたら……母さんはどうする?」
「……そうねぇ」
母は顎に手を当てて、しばらく唸った。
「……どうもしない」
しばらくして母が導いた答えは……。
「あんたに任せる。最終的に、あんたの人生を決めるのはあたし達じゃないからね」
……一見すると、放任主義、ともとれるそんなものだった。
しかし……俺は、これまでの人生で一番、母への深い感謝を覚えた。
未成年でまだ学生の息子を他人の家に住まわせる。
その最終決議を、当事者本人に委ねる。
……未成年であるからこそ、保護者の立場で、その選択を選ぶことは難しい。
未成年の犯したミスは、最終的に保護者のミスということになるからだ。
……そういう未成年という足かせが、人生を決める大事な局面で足を引っ張ることは、ここ数日で散々味わったからか。余計にそう思えて仕方がない。
だからこそ、母のしてくれた選択は……。
俺を一人の大人として認めてくれている、とも取れるもので、俺は嬉しかったのだ。
「……ありがとう」
「いいえ。それじゃあ、今週末、白石さんの家に三人で行きましょう。それで、今後のあなた達の生活拠点について、話し合いましょう」
「……うん」
こうして、俺は週末の予定を……不動産屋物件の内見から、白石家の訪問へと変更した。
そして、白石家で俺達の将来を語り合い……。
……おおよそ二週間後。
「……あの、今日からよろしくお願いします」
白石は俺の実家での生活をスタートさせた。
2章終了です
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