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第5話:名前の雨

朝からずっと、同じ雨の匂いがしていた。


店は現れたのに、灯りがなかなか点かなかった。


木目に触れると、初めて触ったみたいに冷たかった。





止まない雨だった。


粒の太さも、落ちる間合いも、朝から変わらない。石畳を黒く濡らしたまま、それ以上暗くならず、それ以上光りもしない。春の細さでも、夏の叩きでも、秋の冷えでも、冬の煙りでもない。どれでもない、どこにも傾かない雨だった。


曇りガラスの向こうで、広場の形だけが、ぼんやりと残っている。


わたしは布を畳む手を止め、灯りのほうをもう一度見上げた。天井の油ランプは、いつもなら扉が開く前にほんのりと芯を持つ。今日は、わたしがカウンターに立ってから、ずいぶん経ってから、ようやく細く点った。


点いても、部屋の奥までは届かない。


棚の上のほうは、薄い闇のまま残っていた。


胸の上のほうで、息が浅く溜まる。





今日は、客が来ない。


ひとり、ふたり、と広場を横切る人影はあるけれど、扉の前で止まる気配はなかった。傘の向きが、店の板を見ないまま通り過ぎていく。住人は普段、この場所を忘れて歩く。今日は、その忘れ方が、いつもより深い。


店が客を選ぶのか、雨が選ばせないのか、わたしにはわからない。ただ、店もまた、扉の匂いを強く外へ押し出していない。蜂蜜も、焙煎の気配も、湯気の甘さも、いつもより低い位置に沈んでいる。


わたしは湯を沸かし、自分のカップにだけ注ぐ。


いつもなら、湯の音に店の棚が応える。葉が一枚、ひとりでに落ちてくる。今日は棚が黙っていた。わたしは自分で麦の葉を選んで、自分で小皿に置いた。湯を注ぐのも、沈めるのも、すべて指で決めた。


いつもの朝より、指の関節が、よく動いているのがわかった。





厨房の奥のほうを、一度だけ見た。


見るつもりはなかった。ただ、茶器を取りに入ったとき、視線が、いつもより長く奥の柱に留まった。柱の向こうに、あの扉がある。厨房を毎日通るのに、わたしも一度も開けたことのない、奥の扉。


昨日、灰色のマントの人が帰ったあと、わたしの首筋の裏に残ったあの匂いが、今朝はまだ消えていない。


麦と、インク。


扉の向こうから昨日はじめて漏れてきた匂いは、今日はもう漏れていなかった。漏れていないのに、鼻のずっと奥のほうで、まだ細く続いている気がする。記憶というには輪郭がなくて、気のせいというには、指の底が覚えすぎている。


――確かめたい、と思ってしまった。


昨日の自分が残した言葉だ。今日は、その言葉の続きが、まだ出てこない。


出てこないまま、カウンターに戻った。





昼を過ぎても、雨は同じ間合いで降っていた。


広場の人影はまばらで、扉の前には、誰も立たなかった。わたしは何度か、茶器を拭き、また拭き直した。拭いた分だけ、木目の冷たさが手のひらに移る。ぬるみが戻らない。冷たいというより、熱を持たない、という温度だった。


時折、カップが、ひとりでに鳴るかと耳をすます。


鳴らない。


店は今日、仕草を休んでいた。迎えもしない、拒みもしない、守りもしない。扉の蝶番も、昼のあいだ、一度も音を立てなかった。こんな日は、店員になってから、はじめてだった。


沈黙はいつもある。けれど今日の沈黙は、いつもの沈黙より、さらに一段、沈んでいた。


その沈黙の底で、奥の扉だけが、わたしの背中のほうに立っていた。見ないように、気にしないように、と思うたびに、かえって意識の真ん中に戻ってくる。


朝、扉のほうへ背を向けて立ったわたしの肩は、昼を過ぎる頃には、扉のほうへ少しだけ捻れていた。気づいてから、まっすぐに戻した。戻した肩が、また少し捻れる。何度戻しても同じだった。





灯りが一段、低くなった。


夕方と呼ぶには早い時間に、油ランプの芯が自分で短くなった。店は閉店の支度をしているのではなかった。ただ、今日の灯りは、これ以上伸びないと決めたようだった。


わたしは、茶器を棚へ戻しにいった。


戻しにいった帰り道で、扉の前に、それはあった。


石造りの床の、扉のちょうど真下に、一通の封書が置かれていた。


蝶番は鳴らなかった。扉は開かなかった。わたしも、厨房の奥までは入っていなかった。誰が置いたのか、どこから来たのか、わからない。ただ、置かれていた。


雨に濡れていないのが、いちばん不思議だった。





わたしは、封書の前でしばらく立っていた。


封は、古い蝋で留められていた。指で押せば崩れそうな、乾ききった蝋。紙は粗い植物繊維で、端が少し黄ばんでいる。宛名は、表にあった。


羽ペンで書かれた、細い筆跡だった。女の手だと、指の入り方でわかった。昨日、盆のほうを握った女の指の角度が、この文字の角度と似ていた。気のせいかもしれない。気のせいではないかもしれない。


宛名には、わたしの知らない名前が書かれていた。


――メリエへ。


読んでから、息が一度、止まった。


止めたのではない。勝手に止まった。胸でも、喉でも、鼻の奥でもない、もっと下のほう、骨のあたりで、何かがひとつ、ことりと鳴った。石畳に小さな石が落ちるような、鈍い音だった。


その名前を、わたしは口に出さなかった。


出せなかったのではなく、出さなかった。出してしまえば、それがいちど、自分の外へ出てしまう気がした。出たものを、もう一度拾い直すのが怖かった。


ただ、指の底が、その三文字を知っていた。


雨の日の、低い声の中で、その名前は何度も呼ばれていた気がした。呼ばれたのはわたしだった気がした。確かな記憶には、届かない。届かないのに、骨のあたりが、昨日よりもう一歩だけ、知っていた。


わたしは、封書を開けなかった。


宛名だけを、長いあいだ見ていた。開けてしまえば、書かれている何かが、名前の形を決めてしまう。決めてしまえば、名前以外の輪郭も、一緒に決まる。今日の自分を、昨日までの誰かに、塗り替えてしまう。


塗り替えたくなかった。


名前が、わたしのものかもしれないということだけで、今日はもう、十分だった。





封書を、両手でそっと持ち上げた。


扉に、初めて手をかけた。


厨房の奥の扉ではない。入り口の、広場に面した、いつもの扉だった。いや――入り口の扉に手をかけるついでに、視線だけが、厨房の奥のほうへ流れた。奥の扉は、今日も閉じていた。


手のひらが、扉の木目に吸いついた。


いつもの、客を見送るときの蝶番の長さを、指が思い出していた。押せば開く。開けば、雨の広場へ一歩出られる。封書を持ったまま、広場を横切って、あの灰色のマントの人を探しに出ることもできる。探さなくても、扉の向こうには、昨日までとは違う一歩が置いてある。


指が、木目の上でほんの少し震えた。


それから、わたしは指を離した。


扉の前で、一歩だけ、背を向けた。


背を向けたつもりで、まだ肩が扉のほうへ捻れていた。捻れたまま、もう一歩、カウンターのほうへ戻った。戻るたびに、肩がまっすぐになった。三歩目で、背中にようやく、扉がきちんと立った。


開けなかった。開けない、と決めたのではなかった。ただ、今日の自分が、開けるほうの一歩を選ばなかった。それだけのことだった。


封書を、カウンターの上に、宛名を下にして置いた。


宛名は、木目の側を向いた。





カウンターの内側に戻り、エプロンの結び目に手をかけた。


朝、適当に結んだきりだった紐を、わたしはいちど解いて、結び直した。自分の腰の太さに合わせて、結び目の位置を、いつもの場所に置いた。解いているあいだ、店は黙って見ていた。結び終えたとき、カウンターの木目が、手のひらの下で、ほんのわずかに温んだ。


棚から、カップをひとつ下ろした。


縁を布で拭いた。拭くのは、朝から数えて四度目か、五度目だった。前の四度とは、指の力が違った。拭いたあとのカップを、いつもの位置に置いた。隣に、もうひとつ並べた。今日は客が来ないとわかっていた。それでも、並べた。


天井の油ランプを、もう一度仰いだ。


芯は、まだ低いままだった。わたしは椅子に乗り、自分の手で、芯を少しだけ伸ばした。店は、それを止めなかった。伸ばした灯りが、店の奥まで、ほんの半歩だけ届くようになった。


奥の柱の向こうに、扉の輪郭が、ほんの少しだけ、浮かんだ。


浮かんだのを、わたしは見た。見て、それから、視線を手元へ戻した。





カウンターの木目が、手のひらの下で、温まっていた。


奥のほうが、いつもより一段、深く。ほかの場所よりも、ほんの少しだけ、温かい。店が一日じゅう休んでいた仕草の、最後に出した一滴の応答だった。ほかの仕草はいらない。それだけで足りる、という応答だった。


そして、その一段深い木目のすぐ向こう――厨房のさらに奥のほうから、今日はほんの細く、麦と、インクの匂いが立った気がした。振り返れば届くのかもしれないと思った。けれど、振り返らなかった。まだそこにあるのだと、背中の側でわかる。それで、今日は足りた。


わたしは、カウンターの上の封書に、もう一度、手を重ねた。


宛名は、まだ木目のほうを向いていた。


開けるのは、今日ではない。明日でもないかもしれない。次の雨の日に、灰色のマントがもう一度扉を押すかどうかも、わからない。ただ、今日、この名前が、わたしのいる側に届いていた。届いた名前が、わたしをどこかへ連れていくのではなく、わたしのいる場所の木目に、ことりと置かれていた。


自分のカップに、麦の湯を注いだ。


湯気が、顔に当たる。鏡のように映ろうとする自分の輪郭を、今日は少しだけ覗き込んだ。映らない。それでいい。輪郭は、鏡ではなく、手の中の木目と、芯を伸ばした灯りと、宛名の重みで、今日は決まっている。


わたしは、湯を一口すすった。


蜂蜜と、麦の香ばしさ。いつもの匂い。昨日までと同じ、店の匂い。けれど、それを受け取っている自分が、昨日とは少し違う。違うと、はっきり言えるほどではない。ほんの半歩ぶん、立っている場所の木目が、違って感じられる。





窓の外で、雨は、まだ止まなかった。


朝と同じ粒、同じ間合い、同じ匂い。変わらない雨が、変わらないまま、夕方を越えていく。いつもなら雨が止んで、店が消えて、わたしは次の雨の日を待つ。今日は、待つことすら、手のひらの下に畳まれていた。


雨の日、その店は世界に現れる。


木目に置かれたわたしの指は、今日はもう、迷わなかった。


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