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第4話:灰色のマントの女

冬の雨は、匂いを隠す。


なのにその人の匂いだけは、扉の向こうからはっきり届いた。


知らないはずなのに、骨の底で、先に息が止まった。





冬の雨だった。


粒が細かく、音が少ない。石畳は黒く濡れて、跳ねない。白く煙る水煙が広場をゆっくり渡っていく。吐く息が目に見える日で、曇りガラスの向こうが、いつもより遠い。


春の雨のように光らず、夏の夕立のように叩かず、秋の冷雨のように石を冷やすだけでもない。冬の雨は、街の匂いを押し出さず、上から薄く蓋をしていく雨だ。泥も苔も鉄も、白い膜の下に沈んでいく。


いつもなら扉の前で立っている匂いが、今日は遠い。広場を歩く人の汗も、花屋の葉陰の水も、八百屋の根菜の土も、みんな一段薄い。


鎮めるのでも、叩くのでも、洗うのでもない。――隠す雨だった。


わたしは拭いていたカップを置いて、息をひとつ吸い直した。胸の上のほうに、いつもの湯と蜂蜜の気配が低く落ちる。冬の店は、外の匂いが薄いぶんだけ、中の匂いが色濃く立つ。





扉の向こうで、匂いがひとつだけ、白い膜を破って近づいてきた。


雨に晒された布。古い紙。それから、白い花。


冬に花の匂いは珍しい。野の花ではなく、乾いた花でもなく、もっと淡い、紙に閉じたような白さの匂い。名前を言い当てる前に、首筋の裏がひとつ、ひくりと縮んだ。


(……近い)


何が近いのか、わからないまま、指先が先に湯の支度を始めていた。湯はまだ沸ききっていない。店の棚で、乾いた葉が選ばれるでもなく、選ばれないでもなく、音もなく並んでいる。今日の一杯を、店はまだ決めかねているように見えた。


蝶番が、一度、ためらうように軋んだ。いつもの迎え入れの長さでも、秋の日の切り詰めた長さでもない。少しだけ止まって、それから、息を置いたような軋み方だった。


わたしはカウンターの内側で立ち上がった。立ち上がった、という自覚より先に、掌が木目に吸いついていた。カウンターの木目は冷たくも、ぬるくもなかった。どう応えていいか、店自身が決めかねているような温度だった。


扉が、ゆっくり押された。





入ってきたのは、灰色のマントを羽織った女だった。


背はわたしより少し高い。フードを目深に被っていて、顔は半分ほどしか見えない。マントの裾から、雨の粒が粘く落ちている。羊毛の匂いの奥に、雨晒しの布の重い匂いがある。旅の人の匂い。


けれど、それだけではなかった。


マントがひらくと、内側からもうひとつ、薄い匂いが立った。古い紙。書棚の奥に長く置かれた紙の、ざらついた乾き。それから、白い花。たぶん、栞にして挟んできたものだ。乾ききってはいない。冬の湿りを含んで、ほんの少し、まだ生きている。


そして、その奥に、もうひとつ。


わたしは、その匂いを、言葉の手前で取り落としそうになった。


――わたしに、似ている。


雨に濡れた紙の匂い。薄い石鹸の気配。淡いカモミールではなく、もっと削がれた、名前のない草の気配。わたし自身のいちばん下にある匂いに、ほんの一滴、重なる匂いだった。


指先が、カップの縁から滑った。握り直す。こめかみの奥で、何かが、ぐ、と鈍く押された。


女は入り口で立ち止まり、店の中をゆっくり見渡した。見渡したのは卓でもカウンターでもなく、奥――わたしが毎日通っているはずの厨房の、そのさらに奥のほうに、視線が落ちた気がした。ほんの一拍。それからフードの縁を少しだけ持ち上げた。





「雨宿りを、お願いできますでしょうか」


静かな声だった。低めの標準語。崩れのない丁寧語。


「……どうぞ」


「ありがとうございます」


女はマントの裾を軽く払い、扉のいちばん近くではなく、窓際の一人席へ自分から向かった。迷いがなかった。初めての店に入る人の足取りではなかった。


わたしは布を差し出した。


「よろしければ、お拭きになりますか」


「助かります」


女は布を受け取り、フードを払って、髪と肩の水を取った。髪は長く、色は薄い灰だった。白髪ではなく、もともと淡い色の髪。横顔の線は、思っていたより若い。けれど、どこかで長く旅をしてきた人の疲れが、肩の下がり方に低く溜まっていた。


席につくと、椅子は低く、長い軋みを一度あげた。いつもの迎えの軋みに近い。けれど、最後の半分だけ、ほんの少し引っかかった。店は、この客をどこに置くか、まだ決めきれていない。


カウンターに戻ると、湯はようやく沸いていた。棚で、葉が選ばれた。いつもの麦でも、柑橘でも、苦い薬草でもない。透き通った、色のつかない葉。わたしも初めて見る葉だった。細く、乾いて、匂いがほとんどない。湯を注いでも、湯気に色は乗らなかった。


温度もいつもより低かった。指先で確かめると、熱くない。ぬるくもない。ちょうど、息を吸っても火傷をしない温度。店は、この客に、熱を差し出さないことを選んでいた。


わたしは盆に載せて運ぶ。


「どうぞ」


「……ありがとうございます」


女はカップを覗き込んだ。立ちのぼるものは細く、色がない。


「透きとおっていますね」


「はい」


「こういうものを、出してくださる店もあるのですね」


「……今日は、そのようです」


丁寧語が、いつもより硬く出た。喉のあたりで、声がわずかに上ずっている。隠そうとして、隠しきれなかった。女は気づかないふりをしたのか、気づかなかったのか、短く頷いて、一口すすった。





「ある場所を、探しています」


女は、カップ越しに目を伏せたまま言った。


「はい」


「……昔、ここに似た匂いの子が、いた気がするのです」


胸の上のほうが、ぴくりと縮んだ。息が浅くなりかけて、止めた。動揺を言葉にしてはいけないと、身体のどこかが先に知っていた。


「……似た、匂いの子」


「ええ。雨に濡れた紙のような、薄い草のような。うまく言えませんが」


女は少し笑った。笑ったというより、困った顔を笑みでくるんだような、遠い表情だった。


「その子は、まだ小さくて」


「……」


「わたしは、その子の名前を、長く呼んでいないのですよ」


わたしは、盆を胸の前で握り直した。指の骨が、盆の縁に当たる。痛くはない。ただ、そこに力が入っていることだけが、自分でわかった。


「……お探しの方は」


言いかけて、続きが出なかった。続きを出してはいけない気がした。


女は顔を上げなかった。


「わかりません。見つからないかもしれません。見つけて、何を話すかも、決めていないのです」


「そう、ですか」


「ええ。――かもしれません、ばかりで、恥ずかしい」


女は、淡くそう言って、もう一口すすった。





その時だった。


厨房の奥のほうから、細い、違う匂いが流れた。


麦。それから、インク。


焙煎した麦の香ばしさに、墨壺の底のような、古いインクの匂いが混ざっている。店のいつもの匂いではなかった。カウンターの背に回って初めて届く、もっと奥からの匂いだった。厨房の、さらに奥にある扉。毎日横を通っているのに、一度も開けたことのない、あの扉の向こう。


その匂いが、今、わたしの鼻に届いている。


指先が冷えた。


冷えたと思った瞬間、別の感覚が、順番なく走った。


――誰かの手に、手を引かれた感触。大人の手、だった。指の節が太くて、掌が乾いていた。


――雨の日の、低い声。言葉の形はわからない。ただ、雨の音に重なった声だった。


――名前を、呼ばれた気配。自分の名前を、誰かが呼んだ。呼ばれたのは、わたしだった気がする。


どれも、輪郭がない。夢の底のほうで揺れているようで、指を伸ばすと、すぐ白い膜の向こうへ逃げてしまう。確かな記憶ではなかった。確かな記憶には、届かなかった。


けれど、届かなかったのに、耳の奥が、きり、と鳴った。


盆の縁を握った指が、白くなっていた。


女は、顔を上げていた。フードの縁越しに、わたしのほうを見ていた。見ていたというより、わたしの背後の厨房のほうへ、視線が通り抜けていた気がした。


「……」


女は、何か言いかけた。


唇が、ひとつぶん開いた。息が、声になる手前まで来ていた。


けれど、女は、その唇を閉じた。


閉じて、少しだけ俯いた。


わたしは、その間のなかにいた。何も言えなかった。聞けなかった。聞いてしまえば、確かめてしまうことになる気がした。確かめたら、戻れない気がした。





湯気が、色のないまま、細く立っていた。


店の棚で、乾いた葉がもう一枚、音もなく落ちた。小皿の縁で止まる。女の手前へは、運ばれなかった。店は、おかわりを出さなかった。いつもなら差し出す二杯目が、今日は差し出されない。


(……店も、これ以上は)


手のひらの下のカウンターが、冷たくなっていた。冷雨の日の冷たさとは違う、もっと薄い、白い冷たさだった。踏み込むな、と言うのではない。踏み込ませない、のでもない。ただ、今ここで、これ以上の匂いを運ばない、という静かな沈黙だった。


女はカップを両手で包んで、しばらくそうしていた。色のつかない湯を、両手で温めているようにも見えた。


それから、ひとつだけ、短く息を吐いた。


「……長居をしました」


「いいえ」


「もう少しだけ、いても、よろしいですか」


「……はい」


女は、もう一度、ゆっくりカップのほうへ目を落とした。何も言わなかった。わたしも、何も言わなかった。雨の音だけが曇りガラスの向こうで続いていた。


ただ、その沈黙のあいだに、わたしの内側で、ひとつだけ、動いたものがあった。





女が帰るとき、雨はまだ続いていた。


「ごちそうさまでした」


「お気をつけて」


「……また、雨の日に」


それは、客のほうから返す挨拶ではなかった。普段はわたしがする側の言葉だった。女はマントの裾を整え、フードを被り直し、扉へ向かった。扉の前で、一度だけ振り返った。


「あの」


「はい」


「……いえ」


女は言い直さなかった。それ以上、何も言わずに、静かに頭を下げた。蝶番が、迎えのときと同じ、息を置いたような軋みで、扉を閉じた。


灰色のマントが、白い水煙のほうへ吸い込まれていく。雨晒しの布と、古い紙と、白い花の匂いが、少しずつ遠ざかる。わたしに似ていたあの一滴の匂いは、最後まで薄れなかった。石畳の向こうへ歩いていっても、わたしの首筋の裏に、冷たく残った。





席を拭きに行くと、卓の上のカップは、もうほとんど冷めていた。


色のないはずの湯に、匂いのない葉が、カップの底で、まだ薄く揺れていた。わたしはその葉を、捨てる気になれずに、小皿へ移した。


カウンターに戻り、自分のカップに、いつもの麦の湯を注いだ。香ばしい蜂蜜の気配が、鼻のいちばん上に戻ってくる。いつもの匂い。わたしのいつもの、店の匂い。


それでも、耳の奥のきり、が、消えなかった。


厨房の奥のほうを、わたしは見なかった。見なかったのに、あの匂いだけが、喉の奥で、まだ細く続いている気がした。麦と、インク。扉の向こうの、初めて届いた匂い。


――わたしは、あの匂いを、知っている。


確かな記憶には、届かない。届かないのに、指の底のほうで、知っている気がする。大人の手の乾き。雨の日の声の低さ。名前を呼ばれた、その声の形。どれも、夢のようで、夢ではない。


女が言いかけてやめた言葉の、その唇のひらき方だけが、目の奥に残っていた。


(聞けばよかったのかもしれない)


(聞かないでよかったのかもしれない)


どちらも、本当だった。どちらも、わからなかった。ただ、首筋の裏に冷たく残ったあの匂いが、ひとつだけ、わたしに言わせようとしている言葉があった。


――確かめたい、と思ってしまった。


言葉にすると、耳の奥のきりが、ひとつ強くなった。それはずっと、わたしが避けてきた欲求だった。匂いの主に名前を与え、心の中で呼び、それで足りていた。名前を知らなくても、輪郭が届けば、わたしには足りていた。


今日は、足りなかった。


窓の外で、冬の雨が、まだ白く煙っている。匂いを隠す雨は、まだしばらく止まない。次の雨の日、灰色のマントがもう一度扉を押すのか、それとも押さないのか、わたしにはわからなかった。


ただ、厨房の奥の扉が、今日、はじめてわたしに一歩分近づいた気がした。


閉店の灯りを落とすとき、カウンターの木目は、まだ白く冷たかった。


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