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第2話:潮と甘い手紙

夕立の匂いは、いつも少し乱暴だ。


焼けた石と、遠い雷と、人々の慌てた汗。夏の夕立は、世界を鎮める前に、いちど乱暴に掴んでいく。


扉の向こうから、潮と、砂糖菓子の甘さが近づいてきた。





夏の夕立は短い。短いぶん、強い。


窓の外では、さっきまで白く燃えていた石畳から、湯気が立ちのぼっている。水が落ちる端から跳ねて、広場の真ん中を雲のように歩いていく。曇りガラス越しでも、地面が息をしているのがわかる。


雨の匂いが、まだ鎮まりきっていない。こういう雨は、世界を洗うというより、叩いてしまう。


茶器を拭く手を止めて、わたしは顔を上げた。


潮。それから、砂糖菓子の甘さ。――遠くの海と、舶来の乾いた菓子。二つのあいだに、ちくりと煙草の残り香が挟まっている。


店の入り口に、まだ、影はない。


(海の人が、来る)


胸の奥が、ひゅ、と細く鳴った。扉が開く前に輪郭が届く。この感触は、何度あっても飽きない。わたしの数少ない快楽のひとつだ。――ほどけた、と喉のあたりで呟いて、すぐ湯気の音に掻き消した。


木のカウンターが、手のひらの下でぬるく温み直す。店が、わたしの気配を引き受けて、扉の用意をしている。


蝶番が、短く、二度。


扉が押された。





入ってきたのは、背の高い、まだ若い青年だった。


麻の上着の肩に、夕立の粒がまとわりついている。頭を下げるより先に、片手で髪の水を払った。その仕草で、潮の匂いがいっそう立つ。海に近いところで、長い時間を過ごしてきた人の匂いだ。タールを染ませた繊維の、ぐ、と重い匂い。


わたしは布を差し出した。


「よかったら、どうぞ」


「――ああ、助かる。いきなりだったな」


「ええ。夏の雨は、急ぎます」


「店の人、だよな。こんなところに店があったか」


青年は、戸惑いより先に笑った。人懐こい笑い方をする人だ。けれど、笑ったあとで目だけが一拍おくれる。口が軽くて、言葉にしていない部分を残す人の顔。


そういう遅れは、嫌いじゃない。すぐに触れてはいけないものがある人の顔を、わたしは見逃しにくい。


雨音のせいにするには、青年の視線は扉の板を二度なぞった。けれど問い直さなかった。


窓際のテーブルへ案内すると、椅子が低めに軋んで青年の体を受けた。


カウンターに戻ると、湯気はもう立ち上がっていた。今日の一杯の見当が、鼻より先に目でわかる。濃い琥珀。ほろ苦い茶。添えてあるのは、薄く削いだ柑橘の皮だ。どこから来たのか、棚の端から、乾いた皮が一枚、ひとりでに落ちて小皿に乗った。


わたしは盆に載せて運ぶ。


「どうぞ」


「……悪いな。注文してないのに」


「ここは、そういう店です」


青年は湯気を吸い込んで、少し目を細めた。柑橘の皮と、ほろ苦さの奥に、麦を煎った匂いがうっすら混じっている。店は、甘いものを持っている人に、甘すぎないものを出す。


「すごいな。甘いもの、ちょうど食いたかった」


「甘いもの、隠し持ってますね」


「……なんでわかるんだ」


「匂いで」


青年は笑って、上着の内側から小さな紙包みを取り出した。油紙に包まれた、薄い乾菓子。砂糖と小麦と、ほんの少しの生姜。舶来のものだと、匂いで知れる。


「妹の土産でね。船で持って帰ると、しけるんだ。……しけたまま、渡しそびれてるんだけどな」





青年は、茶を一口すすってから、上着の内ポケットをさらに探った。


出てきたのは、四つに折りたたまれた紙。端のほうが、海風で白茶けている。封はしていない。書こうとして、書けずに畳んでしまった、という折り方をしている。


「妹に、手紙を書こうとしてるんだけどな」


「……」


「書けねえんだ。いや、言葉が出ねえってのかな。港に戻るたび、書こう書こうと思って、もう半年、この紙を持ってる」


青年は、白茶けた紙を指先で撫でた。煙草の残り香が、指のほうから立つ。


わたしは、言葉を探さなかった。こういうとき、言葉は湯気より重くて、届かないことがある。代わりに、湯気のほうを見た。ほろ苦さと、柑橘の皮。麦の温度。青年の肩から、ぐ、と強張りが抜けていくのが、匂いで分かる。潮の塩気が、少しずつ砂糖菓子の甘さに傾いていく。


「――匂いから、辿ってみるのはどうですか」


言ってから、踏み込みすぎた気がして、口を閉じた。ほんの一言分だけ、わたしは前に出すぎた。


けれど青年は顔を上げなかった。茶の湯気のほうを見たままだった。


「匂い、か」


「はい。言葉は、あとからで」


「……あいつ、生姜の砂糖菓子が好きなんだ。港で初めて食わせた日、子どもみたいな顔してさ」


青年の声の厚みが、そこで一段、ほどけた。茶の湯気越しに、肩の線が下がる。わたしは、手紙のほうを見ないようにして、カウンターに戻った。


店の棚で、柑橘の皮がもう一枚、小さな音を立てて動いた。乾菓子の紙包みのそばへ、落ちる。偶然のようで、そうでない。


青年は、白茶けた紙を広げて、短く何かを書き始めた。筆の走る音は、湯気よりも小さい。書き終えるまでに、茶は半分になっていた。


書き終えた紙を、青年は丁寧に折り直し、内ポケットへ戻した。内容は見なかった。見てはいけない気がした。





雨は、まだ強い。けれど、叩き方の角が取れている。世界の表面が、ようやく鎮まり始めた音だ。


青年は立ち上がった。


「悪いな、長居して」


「いいえ」


「あんた、年いくつだ」


「……内緒です」


「そっか」


青年は笑って、上着の襟を立てた。扉に手をかけて、一度振り返る。


「なあ」


「はい」


「あんたの匂いも、どこかで嗅いだ気がするんだよな」


返せる言葉を、わたしは持っていなかった。


「……どこ、でしょう」


「わかんねえ。海の、どこかかもしれん」


青年は、それ以上追わなかった。蝶番が、送り出すときの長さで長く軋んだ。扉の向こうで、夕立の最後の一粒が、石畳をひとつだけ鳴らした。





青年が出ていったあとの席を、わたしは拭いた。


潮、タールロープ、乾菓子、煙草の残り香。混ざっているのに喧嘩していない匂い。――「潮の人」。心の中で、そう呼んでみた。抽斗に、また一枚。


けれど今日は、その抽斗よりも先に、喉のあたりが動いた。


――わたしの匂いを、知っている人がいる。


海の、どこかで。


否定できなかった。肯定もできなかった。ただ、そのことばだけが、首筋の裏に、ぬるく貼りついて離れない。


わたしは自分のカップに、茶のおかわりを注ぐ。柑橘の皮を、同じように一枚、浮かべる。湯気が顔に当たる。鏡のようにそこに映ろうとする自分の輪郭を、今日はあえて覗き込まなかった。


窓の外で、夕立が終わろうとしている。


石畳の湯気が、細く、立ちのぼって、消えていく。雨が止めば、店も消える。今日はそれでいい。


ただ、首筋に貼りついたその一言だけは、雨が止んでも、きっと消えない。


世界は静かになったのに、わたしの感覚だけが、まだ少し遅れている。次に来る匂いは、たぶん、いつもより深く刺さる。


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