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第1話:雨が鎮めるもの

晴れの日、その店は世界に存在しない。


雨が降り始めると、広場の角に、石造りの小さな建物が現れる。


扉の横には褪せた字で「雨天営業」。わたしはその店の、店員。雇ってくれたのは、店だった。


わたしは、匂いに敏感すぎる。晴れた日の街は、人の汗と、焼けたパンと、馬車の油と、昨日の誰かの足跡――そのどれもが、鼻の奥で一斉に騒ぐ。生きているだけで、息が浅くなる。


だから雨の日が好きだ。水が全部を洗って、世界の匂いが鎮まる。そういう日にあてもなく歩いていて、ある日、ふと、知らない香りに呼ばれた。蜂蜜、焙煎した豆、それから、言葉にできない古い紙のようなもの。辿った先にあったのが、この店だ。


扉を押すより先に、灯りが点く。カウンターには、カップがひとつ、ふたつと、ひとりでに並ぶ。わたしの出番は、まだない。


「おはよう」


返事はない。店は、言葉を持たない。けれど木目が、手のひらの下でほんのりと温んでいる。蝶番が、気持ちよさそうに一度だけ軋む。わたしの挨拶は、そういう仕草で受け取られる。


店には意思がある。わたしには、匂いがわかる。それだけで、たぶん釣り合っている。





今日の雨は春の雨だ。


細く、長く、石畳を明るく濡らす雨。泥の匂いを立たせず、苔の匂いだけをやさしく押し出す。曇りガラスの窓越しに、広場が薄く光って見える。


茶器を布で拭いていると、扉の向こうの空気が、すうっと変わった。


膠の匂い。それに、亜麻仁油。古い紙。そして乾いた薔薇――花瓶の花ではなくて、栞にされて何年も挟まれていたほうの薔薇。


わたしは拭いていたカップを置く。


(紙を扱う人だ。それも、新しい紙ではなく、古い紙)


扉を開ける前に、客の輪郭が先に届く。この瞬間はいつも、鼻の奥が一度だけ、ふっと軽くなる。晴れの日には決して得られない贈り物だと思う。


蝶番がもう一度、今度は長めに軋んだ。扉が、わたしの手を待たずに内側へ引かれる。


入ってきたのは、白髪を低く結った老婆だった。背は小さく、肩には雨粒がまだ光っている。手に抱えているのは、布に包まれた四角いもの。匂いの真ん中は、やはりそこから来ていた。


「濡れてしまってねえ」


老婆は、布の上からそれを一度だけ撫でた。


「かまわないわ。拭くから、外套をどうぞ」


「ああ、すまないね」


わたしは布を受け取って、窓際の一人席へ案内する。木の椅子が、ほんの少しだけ音を立てて老婆の重みに応えた。いつもより浅い軋み。客に合わせて、店は腰の位置を変える。


カウンターに戻ると、湯の気配はもう立ち上がっていた。蜂蜜の甘さと、麦を香ばしく煎った匂い。今日の一杯は、老婆のほうから決まったらしい。


わたしは盆に載せて運ぶ。


「どうぞ」


「……あら」


老婆は湯気を吸い込んで、目を細めた。


「懐かしい匂いだ」


「そう、ですか」


「いえね、孫に本を仕立て直してやろうと思ってるのだけれど」


老婆は、包みを膝の上にそっと置く。


「紙の匂いがね、変わってしまったの。もとは、父の書いた本でね。それを孫に渡したくて、綴じを直して、表紙もすげかえて。そうしたらもう、父のときの匂いじゃ、なくなってしまって」


「……膠の匂い、ですね。少し新しい」


「よくわかるねえ」


老婆は笑わずに頷いた。感心した顔というより、話を聞いてもらえる相手にようやく会えた顔だった。


そういう顔は、雨の日の客によくある。わたしはたぶん、それを見つけるのが少しだけ早い。


「同じ本なのに、同じ本じゃないみたいで。孫に渡してしまったら、父の残した本は、もうこの世からなくなるんじゃないかと、ふと思ってねえ」


わたしは、言葉を探して、見つけられなかった。


代わりに鼻の奥で、なにかが、ふっと揺れた。





――匂いが変わって、泣いたことがある。


そういう気がした、というだけのこと。いつ、どこで、誰の匂いだったのかはわからない。ただ、今の老婆の言葉と同じ形をした悲しみが、わたしのどこかにも一度あった気がする。


「……わたしも」


言いかけて、喉のあたりで言葉がつかえた。こういうとき、年上の人の前では、自分の声が急に頼りなくなる。


老婆は急かさない。湯気のほうを見ている。


「わたしも、昔、匂いが変わって、泣いた気がします。いつだったかは、覚えていないんですけど」


口にしてから、自分の声の頼りなさに気づいた。丁寧語のはずなのに、どこかほどけている。普段ならもう少しきれいに言える。老婆の前だと、うまく繕えない。


老婆は、湯気を一口すすった。


「……ああ」


それだけだった。


そのあと、老婆はもう一口すすって、ちいさく頷いた。


「昔と同じではないねえ」


「はい」


「でも、渡せる。ちゃんと」


老婆は、自分に言い聞かせるように繰り返した。膝の上の包みを、もう一度、今度は少しだけ強く撫でた。


わたしは、老婆の横顔から、紙の匂いがまた立ちのぼるのを感じた。膠の新しさの下に、ずっと奥にある、父親の本の匂い。まだ消えていない。表紙を替えても、綴じ直しても、そこにはある。


そのことを説明する言葉をわたしは持たなかったので、ただ湯をおかわりに注いだ。





老婆が帰るころ、雨は音を細めていた。


扉を開けると、石畳の光り方が変わっている。もう水の粒が跳ねない。雨はまだ降っているけれど、止もうとしている雨の匂いだ。世界の鎮めが、そろそろ終わる。


「ごちそうさま」


「お気をつけて」


「また、雨の日に」


老婆は包みを両手で抱え、傘をさして広場の奥へ消えていった。蝶番が、見送るときの長さでもう一度軋む。


カウンターに戻り、わたしは老婆の座っていた席を拭く。匂いはまだ残っている。膠、亜麻仁油、古紙、乾いた薔薇。


――「紙の人」だ。


心の中で、そう呼んでみた。名前を知らなくても、職業を聞かなくても、そう呼べば、あの人のかたちがいつでも戻ってくる気がした。新しい匂いがひとつ、わたしの抽斗に増えた。


わたしは残った湯を自分のカップに注ぐ。


蜂蜜と、麦の香ばしさ。


湯気が顔に当たる。鏡のように、そこに自分が映る気がして、わたしは覗き込んだ。もちろん、輪郭なんて映らない。ただ、湯気越しに、厨房の奥の扉が見えた。厨房までは毎日入るのに、その先の扉にだけは、わたしもまだ一度も入ったことがない。今日も、静かに閉じている。


視線を湯気に戻す。


人のことなら、扉が開く前から少しはわかる。紙の人、と呼ぶくらいには。


なのに、自分のことになると、輪郭はすぐ湯気の向こうへ逃げてしまう。


(わたしは今、どんな匂いがしているんだろう)


答えは出なかった。自分の匂いだけは、どうしても、うまく嗅げない。


窓の外で、雨が、ほんの一粒ぶん、途切れた。


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