第64話:怪物の本音
凄まじい爆音と共に完全に崩落した最深部の出口通路は、何トンもの質量を持つ巨大な瓦礫の山によって、無慈悲に閉ざされていた。
主要な支柱をすべて失った工場は、もはや自重を支えることすらできず、頭上から絶え間なく石畳や鉄骨の雨を降らせている。
地下の旧式魔導炉はすでに臨界点を完全に突破していた。狂った怪物の心臓そのものの脈動が、床下の亀裂から目を灼くような赤熱光を噴き上げさせ、工場内を視界不良になるほどの白い魔導蒸気で満たしていく。
数分と持たずにすべてが木端微塵に吹き飛ぶ、文字通りの檻だった。
その崩落した瓦礫の直下、濃密な粉塵が立ち込める中心で、アッシュは地面に倒れ伏していた。
「ガハッ……、けほっ……!」
口から溢れ出る鮮血が、熱せられた石畳の上でジュッと音を立てて蒸発していく。
魔力は一滴すら残っておらず、全身の筋肉は繊維の一本一本が千切れ飛んだかのようだった。指先一つ、まともに動かせない。骨折した肋骨が呼吸のたびに肺を突き刺し、視界は急速に暗闇へと染まりかけていた。
完全に、死に体だった。
立とうにも、もう肉体がその命令を一切受け付けない。
そんなアッシュの目の前で、崩れ落ちた巨大な鉄骨を、ただの邪魔な小枝のように片手で撥ね退けて、魔導将軍がゆっくりと歩み出てくる。
漆黒の雷を纏った大剣を静かに引きずり、半壊した仮面の奥で黄金の瞳を獰猛に細めていた。
将軍は理解していた。
目の前で虫の息になっている人間の小倅が、最初から「勝つため」ではなく、「自分をここに閉じ込めて道連れにするため」だけに、その命を端金のように投げ打ったのだと。
「……見事な執念だな、小僧」
将軍の地を這うような低い声には、もはや苛立ちすらなく、絶対的な強者としての冷酷な処刑の響きだけがあった。
「だが、檻ごと我を圧殺せんとするならば、貴様自身の命もここで確実に潰える。その覚悟、偽りではなかろうな」
アッシュはピクリとも動かない身体のまま、ただ、血塗れの顔で静かに笑った。
答えるだけの声はもう出ない。だが、その薄く開けられた瞳の奥にある意志だけは、迫り来る死への恐怖に一分たりとも揺らいではいなかった。
ここで自分が死ねば、外にいる仲間たちは確実に助かる。
じーちゃんの言葉通り、やるべきことを、最善を尽くしてやりきった。
アッシュは、怪物の足音を耳の奥で聞きながら、自らの死を完全に受け入れ、静かに目を閉じた。
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一方、その頃。
激しく自壊を始めている工場外周の連絡通路では、ルカたちが負傷した兵たちを肩に担ぎながら、必死の面持ちで離脱を続けていた。
背後から追いかけてくる凄まじい熱風と、鼓膜を震わせる連続爆音。
ニーナは、今日初めて救出したばかりの、まだまともに話したこともないハイエルフの少女――ルナをその小さな背中に背負ったまま、崩落を続ける瓦礫地帯を死に物狂いで駆け抜けていた。
だが。
その背中で、ルナの小さな身体が小刻みに、激しく震え始めた。
「……ぁ……、う……」
ルナの周囲から、制御を失った碧い魔力が陽炎のように漏れ出す。
苦しそうに自らの胸を小さな手で押さえながら、ルナは涙の滲む瞳で、今しがた走り抜けてきた工場の奥をじっと見つめていた。
アッシュが「助けたい」と強く願う真っ直ぐな思いが、マナを通じて、ルナの心へ焼き付くように流れ込んできていた。
「……あの、ひと……」
ルナの掠れた呟きに、前を走っていたニーナがハッとして足を止めた。
「ルナ……?」
背中を振り返ると、ルナの瞳から大粒の涙がとめどなく零れ落ち、ニーナの肩を濡らしていた。ルナは、大人たちの緊迫した叫び声から、あの場所に残った少年の名を必死に拾い上げ、震える声で口にした。
「アッシュ……って、いうの……? あの一人、残ったひと……あんなに、たすけたいって、おもってくれてるのに……死ぬつもり、だよ……!」
その瞬間、ニーナの身体が芯から凍り付いた。
周囲の爆音が、一瞬にして遠のいていくような感覚。その様子を見たロザリアが、自身の傷口を押さえながら即座に鋭い悲鳴のような声を上げた。
「止まりなさいニーナ!! 今さら戻ってもどうにもならないわ、全員巻き込まれて全滅するだけよ!!」
満身創痍のラグナもまた、血塗れの顔を歪めて大声で怒鳴りつける。
「馬鹿野郎! あいつがどんな気持ちで残ったと思ってんだ! 俺たちを絶対に逃がすために、一人であそこに残ったんだぞ!」
仲間たちの制止の声。それは合理的であり、アッシュの覚悟を無駄にしないための正しい判断だった。
だが、ルナから告げられたアッシュの「思い」が、ニーナの胸の奥底に鋭く突き刺さる。
置いていく。その言葉が引き金となり、ニーナの脳裏に、嵐の前夜にセーフハウスで交わしたあの会話が、痛烈なほどの鮮烈さで蘇ってきた。
『あんたが笑って大陸を渡る。その結末以外、あたしは認めない。だから、あんたの命だけは、絶対に勝手に捨てさせないから。……でも最悪の時は、あたしが無理矢理にでもあんたを引きずって逃げるわよ。いいわね?』
アッシュがいないなら、あたしが西へ行く意味なんてひとつもない。
アッシュを置いて、自分だけ生き残る旅なんて――糞食らえだ。
(ふざけないでよ……!)
ニーナは、白くなるほど唇を強く噛み締めた。
あいつはまた一人で全部を背負い込んで、あそこで勝手に命を捨てようとしている。自分たちを逃がすためだけに、当たり前みたいに残ったのだ。
あいつが笑って大陸を渡る結末以外、絶対に認めない。
悔しさと、恐怖と、それ以上に沸き起こる激しい拒絶の感情に、拳が小刻みに震える。
胸を焦がすように激しく鳴り響く心臓の鼓動。
その瞬間、理性を縛っていた最後の何かが、完全に弾け飛んだ。
「……嫌」
その呟きに、ロザリアが気づく。
ニーナは、感情の昂ぶりで震える声のまま、しかしアッシュの決意を真っ向から踏みつぶすような覚悟で言い放った。
「私が絶対に連れて帰る」
ルカが眼鏡の奥の険しい瞳で一歩前へ出、ニーナの正面に立ちはだかる。
「ニーナ、本気で言っているのですか。合理的に考えて、あそこへ戻れば生存確率は――」
「本気」
ルカの言葉を遮る、遮二無二な即答だった。
ニーナの美しい碧眼には、もう一分の迷いも、揺らぎも残っていなかった。
「あいつはまた一人で全部背負って、勝手に死ぬ気よ。……だったら、前に言った通りにしてやるわ。私があいつの命を、無理矢理にでも引きずって連れ戻す!」
激しい爆風と熱風が吹き荒れる工場を見据えながら、ニーナは大切なパートナーの命を繋ぎ止めるために、静かに、しかし強く言い放った。
「絶対に、あそこで死なせたりしない……!」
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「……貴様のような矮小な存在が、ここまで我を止めた」
低い声が白い蒸気の中へ響く。
そこには侮蔑だけではない、僅かな評価も混じっていた。
「力も、才能も、格も足りぬ。だが、その執念だけは見事だった。己の命を端金のように投げ打ち、我をこの檻へ縫い止めんとするその一念……それだけは、認めぬわけにはいかんな」
アッシュは答えない。
喉の奥で血が絡み、ただ呼吸を繰り返すだけで意識が消し飛びそうになるほど、限界を迎えていた。血塗れの顔のまま、薄く開けた瞳で、静かに将軍を見つめ返すことしかできなかった。
そんなアッシュへ、将軍は急ぐ風でもなく、淡々と言葉を続ける。
「貴様らは、我々を侵略者と呼ぶのだろうな」
ドクン――!!
炉心が狂ったように脈動し、足元の石畳が大きく跳ね上がる。
「だが、それは違う。無知なる者が歴史を都合よく解釈し、自らの平穏を守るために紡いだ被害妄想に過ぎん」
将軍の黄金の瞳が、赤熱した蒸気の奥で静かに細められた。
「この世界は、本来一つだった。海によって隔てられることも、種族によって土地を奪い合うこともない、完全なる大地だったのだ」
「五柱の神が支配する、一つの世界だった。争いも、境界も、本来は存在しなかった」
「それを、愚かな四神どもが恐怖に駆られ、世界を引き裂いた。調和を乱し、人族の神を排斥し、この世界を不完全な四つの断片へと分断したのだ」
崩落する天井。赤熱する床。崩れ落ちる工場の中で、将軍の声だけが異様な静けさを保っていた。
「中央大陸は牢獄ではない。かつて四神の呪縛によって奪われた、世界の中心……」
「再び世界を統べるための玉座だ」
「我々アイゼン連邦は、人族の神の意志を継ぎ、この歪んだ世界を再統合する。分断された偽りの平和を拒絶し、世界の真の姿を取り戻すのだ」
「――リユニオンによってな」
その言葉と共に、将軍の背後で漆黒の魔力が陽炎のように揺らめいた。その圧倒的な威圧感が、周囲の魔導蒸気すらも押し潰していく。
「北の技術も……南の生命力も……東の魔力も……西の高次エネルギーも」
「すべては統合されるべき力だ。分断されたままでは、それぞれの力は衰退し、やがて消え失せる。種族ごとに分断され、閉じた世界で停滞するなど愚かしい。それは緩やかな死と同じだ」
「力は、一つに集約されねばならん。力が散っているから世界は腐る。上に立つ者は、一つでいい」
将軍はゆっくりと大剣を持ち上げる。漆黒の雷が、その巨大な刃の周囲をバチバチと凶暴に駆け巡る。
「その中心に立つのが、人族だ」
「我らは選ばれた支配者だ。この使命を果たすためならば、いかなる犠牲も、いかなる泥を被ることも厭わん」
「故にこれは侵略ではない」
黄金の瞳が、冷たくアッシュを見下ろす。その眼差しには、哀れみすらも存在しなかった。ただ害虫を駆除するかのような、無機質な殺意だけがあった。
「聖戦だ」
「世界を、本来あるべき姿へ戻すためのな」
ドクン――!!!
炉心がさらに大きく脈動した。
激しい振動が走り、白い蒸気が吹き荒れ、赤熱光が空間全体を真っ赤に染め上げる。天井の崩落スピードはさらに増し、足元の亀裂からはマグマのような魔力残滓が噴出し始めていた。
「そしてハイエルフは、その再統合の鍵となる」
「次元境界を越える莫大な魔力共鳴……。四神が世界を切り離した際に施した、強力な封印を解除するための鍵」
「アンノウン・コアを地上へ引きずり下ろすための触媒……」
「ハイエルフは、そのために必要だ。あの大いなる力は、世界の理を書き換えるための道具に過ぎん」
「一人の少女の人生など、世界の再統合という大業の前には、砂粒ほどの価値もない」
アッシュは意識が遠のきかける霞む視界の中、その姿を強く睨み返した。
頭が回らない。
身体も動かない。
それでも。
将軍が淡々と語ったその言葉、ルナをただの道具として扱い、その存在を否定する意志――それだけは、どうしても許せなかった。
血で濡れた唇が、僅かに動く。
「……知ら、ねぇよ……」
掠れた声。
しかし、その響きには明確な拒絶の意志が乗っていた。
将軍の眉が僅かに動く。
「……?」
「世界とか……統合とか……、お前らの勝手な、都合なんて……」
呼吸のたび、肺が潰れそうに軋む。口の端から新たな鮮血が垂れ落ちる。
それでもアッシュは、震える声を絞り出した。
「そんなもんのために……」
「ルナを泣かせてんじゃ、ねぇよ……!」
自壊を続ける工場の爆音の中で、二人の間に奇妙な沈黙が落ちた。
将軍は静かにアッシュを見下ろし――
この小僧とは、いかなる言葉を交わそうとも、決して相容れることはないと理解した。
次の瞬間、黄金の瞳に冷たい殺意を宿した。
「……ならば終わりだ、小僧」
漆黒の雷が迸る。
大剣が、処刑のためゆっくりと振り上げられた。アッシュの首筋を狙い、容赦のない刃が虚空を裂こうとした。
その瞬間だった。
――ガァァァァァンッ!!!!
凄まじい破壊音と共に、アッシュの後方で崩落していた巨大な瓦礫の山が、外側から爆発したかのように派手に吹き飛んだ。
将軍が即座に振り返る。
白い蒸気の向こう。
崩れた通路の先に、二つの影が立っていた。
「……っ」
アッシュの薄れかけた瞳が、驚愕に僅かに見開かれる。
そこにいたのは。
肩で激しく息をしながらアッシュを怒りの眼差しで睨むニーナと、その隣で、あり得ないほどの密度の碧い魔力を暴走させるルナの姿だった。
「アッシュ!!」
ニーナが叫ぶ。
その鋭い声が、工場の爆音を突き抜けてアッシュの耳に届いた。
その声に、アッシュの意識の輪郭が微かに引き戻される。
「……なん、で……」
掠れた声。
お前たちは逃げたはずだ。なぜここに戻ってきた――と、アッシュの瞳が激しく揺れる。
ニーナは怒りに震える顔で叫び返した。
「なんでじゃないわよ!!」
全てを掻き消すほどの声だった。その碧眼には、涙が滲みつつも、絶対に引かない意志が満ちていた。
「あんたまた勝手に死ぬ気だったでしょ!!」
ルナの周囲で、碧い光が激しく明滅する。
将軍の黄金の瞳が初めて鋭く細められた。
空気が、完全におかしい。
炉心の鼓動が、狂ったように跳ね上がる。
将軍の魔力が、それに呼応して空間を歪ませ、ルナの碧い光が、その歪みに引きずられるように暴れ始めていた。
性質の異なる三つの強大なエネルギーが、狭い檻の中で異常共鳴を起こし始めていた。ルナの感情の昂ぶりに呼応するように、碧い光が周囲の魔導蒸気を押し流していく。
ドクン――!!!!
工場全体が上方向へと激しく跳ね上がる。
床下の亀裂が一気に拡大し、赤熱光が噴水のように天井に向かって噴き上がった。空間の崩壊スピードが臨界点を突破する。
将軍の表情から、初めて明確に余裕が消える。
「……馬鹿な。触媒であるハイエルフの魔力が、この規模の旧式炉心と直接同調を始めただと……!?」
ルナは苦しそうに小さな胸を手で押さえながら、それでも、涙に濡れた瞳で真っ直ぐにアッシュを見つめていた。
「ごめんなさい……でも、止まらない……! アッシュが、たすけたいって、おもってくれたから……身体が、勝手に、動いちゃって……!」
碧い魔力が激しく暴走する。それは工場を破壊する炉心のエネルギーをさらに狂わせ、空間そのものが目に見えて軋み始める。
将軍は即座に、ルナの確保ではなく、この空間からの脱出へと行動を切り替えた。これ以上の共鳴に巻き込まれれば、いかに魔導将軍といえど無事では済まない。
「貴様ら――!」
だが。
将軍へ目もくれず、アッシュへと一直線に駆け寄った。
「立ちなさい!!」
アッシュの細い腕を、両手で強引に引き上げる。
しかし、アッシュの身体は、もう限界を超えていた。骨折した肋骨と千切れかけた筋肉は悲鳴を上げ、膝がガクガクと崩れて、再び床へと倒れかけそうになる。
「……置いてけ……」
掠れた声。
「いいから……お前らだけ、逃げろ……。今なら、まだ……間に合う……」
ニーナの表情が、その自己犠牲の言葉に対する激しい怒りで歪んだ。
「うるさいッ!!」
彼女はアッシュの言葉を完全に突っぱねると、その細い腕を、自分の肩へと無理矢理に回した。
「今さら格好つけてんじゃないわよ!!」
崩落が加速する。
熱風が吹き荒れる。
それでもニーナは、アッシュの身体を絶対に離さなかった。
「あんたが何言おうが関係ない!!」
大粒の涙を碧い瞳に滲ませながら、ニーナは喉が裂けんばかりに叫ぶ。
「私は、絶対にあんたを連れて帰るって決めたの!!」




