第63話:崩壊炉心(後編)
半壊から完全なる崩壊へと突き進む魔導工場の中心部は、すでに生身の人間が存在していい場所ではなかった。
天井に走る無数の亀裂からは、高熱の火花が凄まじい勢いで降り注ぎ、真っ赤に熱し始めた石畳へとまるで光の雨のように散っては弾けている。剥き出しになった排気弁からは、視界を白く塗り潰すほどの魔導蒸気が絶え間なく噴き出し、肌を焼くような熱気が工場内を満たしていた。
だが、何よりも恐ろしいのは、足元から伝わる異常な振動だった。地下深くから響く旧式魔導炉の駆動音は、もはや機械の立てる音ではなかった。臨界点を超え、暴走寸前となった未知の怪物が、その暗い喉奥で狂おしく唸り声を上げているような、不吉極まりない地鳴りへと変わりつつあった。
ドクン。ドクン。ドクン――!!
脈動が刻まれるたびに、工場全体の床が跳ねるように激しく揺れ、周囲を支える鉄骨がミシミシと悲鳴のような軋みを上げる。
その地獄の釜の底のような中心で、アッシュはボロボロになった黒剣を両手で握り締めたまま、ゆっくりと熱い息を吐き出した。口内を満たす鉄の味が、己の肉体が限界にあることを嫌でも自覚させる。
対面では、魔導将軍が静かにアッシュを見下ろしていた。
左半分が砕け散った不気味な仮面。
そこから覗く、炎に焼かれて赤黒く爛れた凄惨な皮膚。
そして、暗闇の中で輝く、怪物そのものの冷徹な黄金の瞳。
だが、その瞳に宿る視線は、先ほどまでとは明確に違っていた。
もはや、ただの不快な虫けらを踏み潰そうとする戦士の目ではない。
目の前に立つ小さな存在が、自分という絶対的な強者を陥れるための牙を隠し持っているのではないか――そう直感したかのような、冷酷極まりない値踏みの視線だった。
アッシュは肺を灼く荒い呼吸を必死に押し殺しながら、崩落しかけて煙が立ち込める上層の通路へと、視線だけでちらりと目を向けた。
ラグナたちレジスタンスの仲間は、ルカの指示に従ってすでにこのエリアからの離脱を始めている。ニーナがルナを背負い、外へと走っているはずだ。
ならば、ここでアッシュがやるべきことは、もう最初から一つしか残されていなかった。
この怪物を、正面から倒す必要などない。
ただの一歩も、ここから外へ出さなければいいのだ。
沈黙を守っていた将軍が、地を這うような低い声で口を開いた。
「炉心と我の魔力が、連動していると見たか」
「お前だって……気付いてるんだろ」
アッシュは歯の隙間から、血の混じった唾を床へ吐き捨てる。
「お前が力を出すほど炉心は暴走する。ここはもう、お前の墓場だ」
数秒の、凍りつくような沈黙が流れた。
熱気の中で、互いの殺気だけが火花を散らす。
その直後、何の前触れもなく、将軍の巨躯が爆発的な速度で踏み込んできた。
「ッ!!」
将軍の足が触れた瞬間の風圧だけで、強固な石畳が木端微塵に砕け飛ぶ。
肉眼では捉えきれない最速の踏み込み。アッシュは脳髄が放つ生存本能の警報に従い、即座に【無歩】を発動させた。肉体に残された僅かな魔力を強引に捻り出し、摩擦を無視して横方向へと滑るように身体を滑らせる。
直後。アッシュがいた空間へと、漆黒の光を纏った大剣が容赦なく叩き込まれた。
凄まじい轟音。そして、空気を引き裂く衝撃波。
床が質量ごと丸ごと爆裂し、周囲に配置されていた頑強な鉄骨がまとめて紙切れのように吹き飛んでいく。
「ぐッ……!!」
刃そのものは【無歩】の超高速移動で辛うじて回避した。しかし、叩きつけられた一撃が放った狂暴な余波だけで、アッシュの胸は圧迫され、肺が内側から押し潰されそうになる。
だが、アッシュの動きは止まらなかった。
衝撃に吹き飛ばされそうになる身体を強引に制御し、着地と同時に、手にした黒剣を鋭い横薙ぎに叩き込んだ。
狙ったのは、目の前にいる無防備な将軍の肉体ではない。
その背後、工場全体の中央部分を支えている、ひときわ太い、巨大な金属製の主支柱だ。
ガギィンッ!!
硬質な金属音が響き渡り、激しい火花が飛び散る。
アッシュの放った刃は、すでに戦闘の余波と老朽化で疲弊していた鉄骨へ、致命的なまでの深い亀裂を刻み込んだ。
ギリギリと、支柱が自重に耐えかねて悲鳴のような音を立て始める。
予想外の行動に、将軍の濃い眉が僅かに動いた。
「ほう」
「……正面の攻撃はただの飾りだ。そっちの柱が、最初からの本命だよ」
言い終えるよりも早く、アッシュは残る力を振り絞り、支柱の亀裂へ向けてさらに連撃を叩き込んだ。重い衝撃が伝わり、全体のバランスが瓦解していく。
ズズズ……と轟音を立てて上層の通路が大きく傾き、大量の瓦礫が出口側へと一気に雪崩れ込んでいった。通路を物理的に塞ぎ、外界へのルートを断絶させていく。
将軍の黄金の瞳に、初めて明確な不快感と、鋭い敵意が滲み出た。
「……なるほどな。力で劣る鼠が、小賢しい真似を。我をこの檻に閉じ込める気か」
アッシュは口元を歪めて笑った。顔中を己の血で赤く染めたまま。喉を引き裂くような荒い息を繰り返しながら。それでも、絶対に折れない意志を瞳に宿して、不敵に言い放つ。
「当たり前だろ……。お前みたいな怪物を、力比べで倒せるわけがない。だから、頭を使うんだ」
ドクン――!!
地下の炉心が、さらに一段と高く狂ったように脈打った。
床下に走る広大な亀裂から、目を灼くような赤熱した光が漏れ始め、工場全体の温度が急激に上昇していく。視界が陽炎のように歪み、呼吸をするだけで喉が焼けるように熱い。
将軍は、初めて自らの周囲の状況を冷静に一瞥した。
臨界寸前の暴走炉心。自壊を始めた工場。そして、完全に瓦礫で埋まった出口の通路。
すべてを瞬時に理解した上で、将軍は静かに呟いた。
「なるほど」
黄金の瞳が、獰猛な肉食獣のように細められる。
「最初から、我を道連れにしてここで果てるつもりか、小僧」
アッシュは重い黒剣を、もう一度だけ正面へと構え直した。生まれたての子鹿のように小刻みに震える脚。酸素を求めて千切れそうになっている肺。とうに限界を迎えている肉体。
それでも、その場から一歩も退かない。
「お前を……このまま外に出したら」
掠れた声で、しかしはっきりとアッシュは言った。
「外にいる仲間たちが、もっと死ぬ。だから、お前はここで終わりだ」
その瞬間、魔導将軍の口元が、狂気的な歓喜を孕んで、ゆっくりと三日月のように吊り上がった。
「……面白い。実に見事だな、人間」
次の瞬間。
ドォンッ!!
大気が爆発したかのような轟音と共に、将軍の巨体が真正面から突撃してきた。
速い、あまりにも、速すぎる。
先ほどまでの小競り合いとは、移動の次元が違っていた。
これまでの攻撃が、ただの「遊び」であったことを証明するような絶対的な質量。アッシュの野生の本能が、瞬時に理解する。
今、目の前にいる怪物は、一切の手加減を捨てて、本気で自分を圧殺しにきているのだと。
「ッァァァァ!!」
漆黒の雷を纏った大剣が、容赦なく振り下ろされる。
アッシュは肉体が壊れるのも厭わず、【無歩】を発動して強引にその場から退避した。
だが、避けたはずの空間から放たれた衝撃波の密度が、常軌を逸していた。完全に躱しきることはできず、放たれた衝撃そのものに叩かれるようにして、アッシュの小さな肉体は弾け飛んだ。
「ガァッ!!」
背中から分厚い鉄筋の壁へと激しく激突する。
鈍い音が響き、肋骨が数本、悲鳴を上げて軋んだ。口から大量の鮮血が溢れ出し、視界が白く激しく明滅する。意識が遠のきそうになるのを、舌を噛み切るほどの激痛で強引に繋ぎ止めた。
将軍は追撃の手を緩めない。さらに深く地面を踏み込み、距離を詰めてくる。
その圧倒的な踏み込みのたびに工場全体が激しく揺れ、地下炉心が狂ったように連動して脈動していく。
アッシュは死に体のまま、足元に転がっていた巨大な鉄骨の残骸を、渾身の力で蹴り上げた。
同時に、残されたすべての力を黒剣に乗せ、頭上を支えるもう一本の支柱を根本から斬り裂く。
凄まじい轟音。上層の足場が完全に崩壊し、何トンもの質量を持つ大量の瓦礫が、将軍の頭上へと滝のように降り注いだ。
しかし、将軍はその巨大な瓦礫の質量を、避けることすらせず、手にした大剣の一振りで正面から文字通り木端微塵に叩き砕いた。
凄まじい衝撃と、視界を完全に遮る爆煙。
だが、その一瞬の隙こそがアッシュの狙いだった。アッシュは煙の中に身を隠しながら、さらに出口側の通路へと文字通り転がり込むようにして飛び込む。
そして、この工場エリアを支える最後の一本となった主支柱の基部へ、黒剣を深く突き立てた。
ギギギギギ、ギチチチ……!!
耐荷重を完全に超えた巨大な建造物が、ついに終わりの瞬間を迎える。
将軍が、その破壊が意味する致命的な帰結を理解した、まさにその瞬間。
アッシュは血塗れの顔で、天に向かって叫んだ。
「落ちろォォォッ!!」
凄まじい爆音、主要な支柱をすべて失った天井と、出口通路そのものが、完全に重力に従って崩れ落ちた。
轟々と舞い上がる白い魔導蒸気と、すべてを覆い隠す濃密な粉塵。
崩落した何百もの瓦礫の山の向こう側。
完全に閉じ込められた魔導将軍の黄金の瞳が、初めて明確な激情――剥き出しの怒りと戦慄を帯びて、崩落の隙間からアッシュの姿をまっすぐに射抜いていた。




