第62話:崩壊炉心(前編)
半壊した魔導工場の内部には、焼け焦げた鉄と血の臭気と、配管から吹き出す魔導蒸気の濃密な匂いが充満していた。
天井の大部分は激しい戦闘の衝撃で崩落し、剥き出しになった太い配管からは白い蒸気が勢いよく噴き出している。視界を遮るその白煙の奥、床下のさらに深い暗渠からは、旧式魔導炉の重苦しい駆動音が、まるで不吉な怪物の心臓の鼓動のように、ドクン、ドクンと一定の周期で不気味に脈打っていた。
ここを作戦の決戦地として選んだのは、入り組んだ資材や頑強な鉄骨の配置が、本来であればアイゼン軍の強力な個の力を分断し、数で包囲するための絶好の遮蔽物になるからだ。しかし、現在の戦況は、その事前の計算を遥かに凌駕する絶望へと傾きつつあった。
工場の中央。
白く濁る蒸気の煙の中からゆっくりと現れた魔導将軍の姿を見た瞬間、その場にいた誰もが息を呑んだ。
左半分が派手に砕け散った仮面。
そこから露出した皮膚には、爆沈した艦隊の地獄を物語る凄惨な火傷跡が刻まれている。
だが、剥き出しになったその黄金の瞳だけは、衰えるどころか異様なほど静かに、そして冷酷に燃え盛っていた。
将軍の左右には、なおも生き残っていた直属護衛の影が四名。
軍の精鋭たる彼らもまた、あの凄まじい大爆発の地獄から生還したとは思えぬほど、その身に纏う殺気は鋭く、一分の隙もない。
対するレジスタンス側は、既に限界を迎えていた。
ラグナは肩口から大量の鮮血を流し、その巨躯を支えるように大剣を杖代わりに地面へ深く突き立てている。
ロザリアの呼吸は浅く、激しい疲弊のためにレイピアを握る白い右手は細かく震えていた。
上層の足場に身を潜めるルカの魔導銃は、連続稼働による過熱で銃身が赤く焼け付き、残り数発しか撃てないだろう。
そしてアッシュもまた、肉体の限界をとうに超えていた。
魔力は既に底を尽きかけていた。
全身の筋肉は繊維の一本一本が千切れんばかりに悲鳴を上げ、過呼吸気味の視界の端はチカチカと薄暗く滲んでいる。
それでも、誰一人として武器を収めず、一歩も退かなかった。
将軍の黄金の瞳は、目の前のボロボロの戦士たちには目もくれず、ただニーナの背で衰弱しているルナだけを静かに見つめている。
「……なるほど」
地鳴りのような低い声が、軋む工場内へ冷徹に響き渡った。
「その器は……国家を変える」
その言葉の圧力に圧されるように、ルナが小さくその身を震わせる。
次の瞬間。
一切の予備動作なく、四人の直属護衛たちが一斉に地を蹴った。
「来るぞッ!!」
ラグナの割れんばかりの怒号と共に、工場の入り組んだ地形の中で凄惨な乱戦が炸裂する。
重装を纏った護衛が、身の丈を超える巨大な戦斧を容赦なく振り下ろす。
ラグナは折れかけた身体を無理やり奮い立たせ、正面から大剣を叩きつけ、激しい火花を周囲に撒き散らしながらその一撃を泥臭く迎え撃った。
「オラァァァァァッ!!」
凄まじい轟音。
衝撃に耐えかねた床の石畳が蜘蛛の巣状に陥没する。
一方、ロザリアは細身のレイピアを操る高速機動型の護衛と激突していた。
鋭い銀閃。弾け飛ぶ火花。
互いの超高速の刺突が紙一重で交差し、背後の鉄骨へ無数の風穴が穿たれていく。負傷した腕でなおも鋭い突きを繰り出すロザリアの気迫が、かろうじて敵の進撃を押し留めていた。
崩落しかけた上層通路へと跳び上がったルカは、焼け付く銃身の熱に耐えながら魔導銃を連射した。
「右二時方向、遮蔽物裏!」
的確な指示と共に、生き残ったレジスタンス兵たちが一斉に援護射撃を重ねる。資材の影を巧みに使い、火力を集中させて敵護衛の動きを効果的に牽制していく。それは事前にこの場所を頭に叩き込んできたレジスタンス側の、執念の連携だった。
だが。
戦場の中央で、将軍だけは未だに目立った動きは見せていなかった。
将軍は、崩れた鉄骨を踏み砕きながら前へ出た。一歩踏み込むたびに、床材が嫌な音を立てて沈み込み、周囲の鉄骨が軋む。
既に魔力は解放し尽くしているはずだった。それでもなお、その巨躯が歩くだけで工場そのものが悲鳴を上げている。
床に深い亀裂が走り、天井の残骸がハラハラと零れ落ちる。
戦場全体が物理的にドスンと沈み込むような、圧倒的な重圧。
戦うまでもない。ただそこに存在するだけで周囲の構造を破壊していく、歩く災害そのものだった。
アッシュはこれ以上の接近を許すまいと、黒剣を両手で強く握り締め、前へ出た。
将軍の黄金の瞳が、僅かに動き、ゆっくりとアッシュへと向けられる。
「……鼠が命を散らしに来たか」
「……行かせるわけには、いかないんだ」
将軍は仮面の奥で、僅かに口元を歪めた。
次の瞬間。
剣が、無造作な横薙ぎに一閃された。
ただ、それだけだった。
だが。
空間そのものが爆発的に引き裂かれた。
「――ッ!!」
アッシュの脳裏を過った絶対的な死の予感。瞬時に【無歩】を発動し、溜めのない超高速移動で強引にその斬撃の軌道から肉体を外す。
直後。
アッシュの背後にあった分厚い壁面が、轟音と共に消し飛んだ。
床が裂け、鉄骨が千切れ、工場の上層を支えていた巨大な支柱が風圧だけで粉砕されて崩落する。
刃そのものは確実に躱した。しかし、一振りが生み出した規格外の衝撃波の余波だけで、アッシュの小さな身体は容赦なく後方へと吹き飛ばされた。
「ガッ……!!」
床を何度も激しく転がりながら、アッシュは歯を食いしばって強引に膝をつく。
内臓を強打され、口の端から生々しい血が垂れた。
魔力が空の状態でこれだ。まだ、勝負にすらなっていない。
これが、本物の怪物。
その時だった。
「……ぁ、あ……ッ……!」
後方から、ルナが苦しそうに胸を押さえる悲痛な声が響いた。
彼女の小さな身体の周囲から、制御を失った碧い魔力が再び異常な密度で漏れ始めていた。
将軍がその身に宿す強大な魔力の残滓、それが僅かに高まるたびに、ルナの内に眠る膨大な力が共鳴するように暴れ出しているのだ。
ルナの暴走に引きずられるように、工場内の照明が激しく点滅を始めた。
床下の奥深くから、聞いたこともない不気味な警報音が鳴り響く。
回路の計器を確認したルカの表情が、一瞬で青ざめた。
「まずい……!」
彼は床に膝をつき、激しく火花を散らす魔導回路を凝視する。
「この工場の旧式炉……将軍の魔力に引っ張られている! 出力が勝手に上昇しているんだ!」
直後。
アッシュの耳にあるインカムの通信機から、サナの緊迫した怒鳴り声が激しく響き渡る。
『アッシュ、聞こえる!? その工場、地下に古い軍用魔導炉が残ってるのよ! このまま限界を超えたら、工場どころか周辺の街区ごとすべてが吹き飛ぶ爆弾に変わるわ! 今すぐそこから離れなさい!!』
サナの叫びと同期するように、前線で凄まじい轟音が轟いた。
「おおおおおッ!!」
ラグナが最期の力を振り絞り、自身の身体に護衛の刃を受け止めながら、重装護衛を壁ごと大剣で叩き潰した。激しい金属音と共に護衛が沈む。
だが、その代償として、ラグナの肩口には護衛の残した刃が深々と食い込んでいた。
「ぐ、ぁぁ……ッ!!」
ラグナが大剣を支えに崩れ落ち、同時にロザリアも激しい出血でその場に膝をつく。
上層のルカの銃身は完全に赤熱し、もう弾丸を放つことはできない。
レジスタンスの戦線は崩壊寸前。
その絶望的な状況の中で、将軍が、ついにその剣を両手で静かに構え直した。
工場全体が、見えない重圧に押し潰された。
アッシュの野生の本能が、最大級の警戒で絶叫する。
来る。広範囲の殲滅斬撃だ。
「伏せろォォォッ!!」
次の瞬間。
黒い斬撃が通過した直後、工場上層が遅れて崩れた。
支柱が千切れ飛び、天井が捲れ上がり、瓦礫の濁流がレジスタンス兵たちを呑み込んでいく。
工場全体が、まるで地震のように激しく揺れ動いた。
吹き飛ばされ、瓦礫の隙間に叩きつけられたアッシュの視界に、戦場のすべての流れが鮮明に映る。
真っ赤に熱していく床下の大型炉心。
周囲の魔力を巻き込みながら膨れ上がる将軍の魔力。
そして、それに狂おしく共鳴し続けるルナの碧い光。
その瞬間。
アッシュの脳内で、バラバラだったピースが、一つの構造として完全に理解された。
「……そういうことか」
将軍が全力を出し、その出力を上げるほど、この工場の炉心もまた同期して暴走を加速させる。
正面からじゃ、絶対に倒せない。
だが。
この場所で、あの怪物を限界まで暴れさせれば――。
アッシュはすべての力を振り絞り、喉が裂けんばかりの声で叫んだ。
「全員、撤退準備しろ!!」
「はぁ!?」
崩落の煙の中でかろうじて生きていたラグナが、血塗れの顔で怒鳴り返す。
「あの化け物を、倒さねぇのかよ!」
「倒せない!」
アッシュは口内の血を吐き出しながら、必死に叫び返す。
「でも――こいつ自身の力を使えば、こいつごと、この炉を吹き飛ばせる!!」
一瞬の間。
ルカの聡明な目が、驚きと共に細められた。
「……なるほど」
ルカは即座に意図を理解した。
「将軍自身を、この工場の起爆剤にするわけですか!」
瞬時に作戦を切り替えたルカが、周囲の兵たちへ向けて鋭く指示を飛ばす。
「全員撤退! ルナを連れて、今すぐ工場外周へ走ってください!」
「……っ!」
ニーナが即座にルナの小さな身体を背負い、唯一残された外への退路へと疾走する。
ロザリアが震える身体でその後衛に立ち、満身創痍のラグナが最後尾へと回る。次々と瓦礫の奥へと消えていく仲間たちの背中。
崩壊していく工場の中心。
赤く熱していく石畳の上に、アッシュだけが一人、黒剣を構えて残った。
将軍が、その黄金の瞳でアッシュを静かに見下ろし、問う。
「仲間を逃がすための、時間稼ぎか。小倅」
アッシュは全身の激痛を殺し、不敵に黒剣を構え直した。
「そうだ」
この戦いが始まって以来、初めて。
魔導将軍の口元が、愉しげに歪んで笑った。
「実に矮小で……
実に愚かだ
だからこそ――面白い」
ドォォォン、と床が爆ぜるような轟音。
将軍の巨躯が、一人の子供を圧殺すべく容赦なく踏み込んでくる。
アッシュもまた、確実な死を前に、それでも怯まず突っ込んでいった。




