第6話:対価の儀式
「ここは、この街で一番まともな飯を出す宿だぜ。変な裏路地の店に入って、中身の分からねえ肉を食わされるよりはマシなはずだ」
少年に促され、アッシュは宿の片隅にある使い込まれた木製テーブルについた。
ほどなくして運ばれてきたのは、根菜の甘みが溶け込んだ白いシチューだ。湯気と共に、ミルクとハーブの柔らかな香りが鼻腔をくすぐる。
だが、アッシュは木のスプーンを握ったまま、微動だにせず皿を見つめていた。
(……白い液体。匂いはすごくいい、これで本質を隠蔽している可能性がある。粘り気があるのも、遅効性の麻痺毒を溶かし込んでいるからか……?)
アッシュは呼吸を浅く保ちながら、シチューの表面を凝視し、毒物特有の刺激臭がないか慎重に探る。全身の筋肉が、いつでもテーブルを蹴って跳べるように強張っていた。
「おい、にいちゃん。なんで食わねえんだよ。冷めちまうぜ?」
向かいの席で、ニールが不思議そうに首を傾げ、何のためらいもなく自分の分のシチューをスプーンで掬って口へと運んだ。
「んー、やっぱりここのシチューは最高だな。ほら、美味いから早く食えって」
美味そうに咀嚼し、喉を鳴らして飲み込むニール。その姿をじっと観察していたアッシュは、(……毒見か? いや、この少年だけに効かない特効薬を事前に飲んでいる可能性も……)と、なおも疑念を巡らせる。
しかし、目の前の少年からは一切の殺気がない。アッシュは覚悟を決め、いつでも胃の内容物を吐き出せるよう喉の奥に力を入れたまま、恐る恐る、本当に慎重な手つきで少量の液体を口に運んだ。
一口啜ると、アッシュの動きが止まった。
温かい液体が、冷え切った胃の奥へゆっくりと落ちていく。塩気が強すぎない。刺激も薄い。それなのに、不思議と強張っていた全身の筋肉が、内側からじわじわと緩んでいく感覚があった。
アッシュは、一瞬だけ深い困惑に陥った。
(……なんだ、この食べ物は。身体の強張りが、強制的に解かれていく……)
アビスでの食事は、生きるために必要な栄養を摂取するためのものが多かった。じーちゃんが作ってくれる飯は、素材の味を活かした素朴なものが多く、それはそれで満足していた。
だが、このシチューには、これまで知らなかった「安心」が混ざっていた。整った味が、ただ空腹を満たす以上の充足感となって脳を浸していく。
「うまいか?」
ニールの問いかけに、アッシュはしばし沈黙した後、小さく頷いた。
「ああ。だが、じーちゃんと食べた『黄金の鹿』の方が、うまかった」
アッシュのあまりに素直で、かつ浮世離れした感想に、ニールは口に運びかけていたスプーンを止めて目を丸くした。
「黄金の鹿? おいおい、そりゃ伝説の域だろ。いるかいないかもわかんねえ幻の魔獣を食ったのかよ。あんた、そんな真顔でとんでもねえ冗談が言えるんだな。少しは見直したぜ」
アッシュはニールの言葉を気にする風もなく、じーちゃんの教えを反芻するように、ゆっくりとシチューを飲み込んだ。
「じーちゃんが言っていたんだ。西に行けば、もっと美味いものが食えるって」
「は? 西へ行く理由って、それだけか? 食い物のために大陸を横断しようってのかよ」
アッシュは、しばし黙ってシチューを見つめていたが、やがて昼間の光景を思い出したように口を開いた。
「……あの銀色の鎧の兵士たちは、なぜ老人を殴っていた?」
ニールの表情から、わずかに笑みが消えた。
「ああ……」
ニールはスプーンを皿へ置き、小さく肩を竦める。
「俺も詳しく知ってるわけじゃねえけどよ。あいつらは『アイゼン連邦』って国の兵士だ」
「連邦……」
「あいつら、魔導技術ってやつで急激にデカくなった国なんだ。今じゃ世界中の国はほとんどアイゼンの支配下にあるって話だぜ」
ニールは周囲を軽く確認し、少しだけ声を潜めた。
「連中は、大陸中の資源と人間を全部『管理』しなきゃ気が済まねえ思想らしい。逆らうやつは徹底的に潰す」
「管理……?」
「ああ。言うこと聞くやつだけ生かして、従わねえやつは消える。そういう国だ」
ニールは苦々しそうに鼻を鳴らした。
「この辺りの旧トウラン国も、東側を抑えるために潰されたって噂だ。だからどの街も、あんな風に空気が重い」
アッシュは静かに耳を傾けていた。
アビスには、縄張り争いはあった。強い魔物が弱い魔物を喰らうのも当たり前だった。だが今ニールが語ったのは、もっと巨大で、もっと意図的な何かだ。人間が、人間を閉じ込め、支配するための仕組み。
アッシュにはまだ、その全貌は理解できなかった。ただ一つだけ、はっきり分かったことがある。この外の世界は、じーちゃんが語っていたよりも、ずっと息苦しい。
ニールは呆れたように笑い、椅子に深く背を預けた。
そのまま、ニールは手慣れた様子で、懐から取り出した金属の塊――銅貨を数枚、カウンターの店主へ向かって放り投げた。金属同士が軽快に擦れ合う音が響く。
それを見ていたアッシュが、ふと疑問を口にした。
「……ニール。さっき門番にも渡していたが、それが『金』というものか?」
「はあ!?」
ニールは今度こそ、持っていたスプーンを皿に落とした。
「あんた……金を知らねえのかよ! ボアを一撃で倒すような凄腕のくせに、銅貨も見たことないって、どういう生活してたらそうなるんだよ!?」
「じーちゃんから話には聞いていた。外の世界の人間は、共通の価値を持つ金属の円盤を奪い合って生きている、と。実物を見るのは初めてだ」
「外の世界……? 金属の円盤を奪い合うって……言い方怖えよ! まあ、間違っちゃいねえけどさ……。あんた、本当の本当に、山奥にいたんだな」
「ああ。生まれてから十二年、ずっとじーちゃんと山奥にいた。外に出たのは、昨日が初めてだ」
「生まれてからずっと……」
ニールは絶句した。目の前の少年の圧倒的な強さと、あまりにも極端な常識の欠如。その理由が、ようやく一本の線で繋がった。
笑いながらも、ニールの視線は鋭くアッシュを観察していた。
テーブルの上に置かれた、岩のように分厚い掌。重い木刀を長年握り込んできたことが一目でわかる指の節。ぶれることない重心の安定。
(本物だ)
ニールは内心で確信を強めていた。あのアイアン・ボアを一撃で屠ったのは、決して偶然なんかじゃない。こいつ、その辺にいる自称冒険者たちとは、命の積み上げ方が根本から違う。
今まで見てきたどんな「金の卵」よりも、圧倒的に金の匂いがする。ここでこの怪物を逃がせば、俺は一生路地裏を這いずるコソ泥止まりだ。賭ける価値はある、とニールは舌を巻いた。
「そういや、まだ聞いてなかったな。あんた、名前は?」
「アッシュだ。お前は?」
「俺はニール。見ての通り、この辺の小銭の匂いを嗅ぎ分けるのが得意な男さ。これからよろしくな」
ニールは手慣れた様子で、店内の客の配置をさりげなく確認するが、その視線はただの子供のそれではない。
アッシュは、自分にはない外の世界の立ち回りを平然とこなすニールを、少しだけ頼もしく感じ始めていた。
ニールはよく喋るし、計算高い。きっと嘘も多いだろう。だが、アッシュは宿場町の門の前で、自分の暴走を止めてくれたあの必死な手の感触を覚えていた。
あの時、ニールが身を挺して止めに来なければ、自分は本当に門番を殺し、街全体を敵に回して戦っていたかもしれない。
(……悪いやつでは、ないのかもしれないな)
「いいか、アッシュ。明日から俺がこの街の歩き方を教えてやる。その代わり、あんたはその木刀で俺を守れ。西へ行くための路銀も、俺が稼ぎ方を教えてやるよ。ウィン・ウィンの関係ってやつだ」
「ああ、わかった。頼むよ、ニール」
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案内された二階の部屋。
ニールは鍵のかかる狭い二人部屋にアッシュを押し込んだ。一人部屋を二つ取る余裕はないし、何よりこの「掘り出し物」を他のハイエナ共に奪われるわけにはいかない。
アッシュは部屋に入ると、まずその部屋の中を舐めるように見回した。
窓の位置、扉の建付け、壁の厚さ。逃走経路を瞬時に算出し、伏兵の気配がないか神経を研ぎ澄ます。
やがて、ようやく安全を確認したように深く息を吐くと、アッシュは極めて当然の動作として、ぼろぼろの上着のボタンに手をかけた。
「おい、何してんだ?」
ベッドに腰を下ろしようとしていたニールの背筋に、ぞわりと悪寒が走った。
アッシュは構わず、脱ぎ捨てた上着を無造作に床へ置く。
「寝るんだろ。じーちゃんは、寝る時は身軽になれと言っていた。厚着のままだと、寝ている間に筋肉が固まって、いざという時の反応が遅れるからな」
続けて、当然のようにズボンの紐に指をかけた。
(待て待て待て待て!! こいつ、距離感も常識も終わってんのか!?)
ニールの顔が瞬時に沸騰したように赤くなり、飛びつくようにしてアッシュの手に掴みかかった。
「人前で、しかも男同士で、なんでそこまで全脱ぎしようとしてんだよ! 馬鹿かあんたは!」
「……? 暑いし、動きにくいだろ。じーちゃんといる時はいつもこうだったが」
(やばい!! このまま同じ部屋で寝たら、絶対どこかでバレる!!)
ニールの脳裏に最悪の想像が駆け巡る。切実な焦燥に、アッシュを掴む指先が微かに震えていた。
「いいから! そのままで寝ろ! ズボンは脱ぐな! これは俺の命令だ、いいな!」
「……お前、そのままの格好で寝るのか? 変わってるな。まあ、それがこの場所の『掟』だと言うなら、従おう」
アッシュは少し不思議そうに首を傾げたが、抵抗はしなかった。じーちゃんの教えとは違うが、外の世界の常識に従うのも、生き残るための術なのだろうと納得したのだ。
アッシュは脱いだ上着だけを枕元に置き、ズボンを穿いたままベッドへ横になった。
「ったく、とんでもねえ世間知らずだぜ……」
ニールは顔の火照りを隠すようにアッシュから背を向け、自分のベッドの毛布へと潜り込んだ。
これほど無防備に服を脱ごうとするのは、自分に対して一片の敵意も、下心もない証拠だ。そこだけは信頼できる。うまくやれば、本当にいい金蔓になりそうだ……ニールは自分にそう言い聞かせ、乱れた呼吸を整えた。
夜の静寂が部屋を包む。
隣のベッドからは、やがて規則正しい、穏やかな寝息が聞こえてきた。
あんなに警戒心の塊のような男のくせに、一度眠りに落ちれば、驚くほど無防備な顔をしている。
ニールは薄暗い天井を見上げ、小さく、誰に聞かせるでもなく吐息を漏らした。
(……本当に、変なやつ)
その呟きに、嫌悪の色は微塵もなかった。
アッシュは、アビスの寝床とは違う、慣れない柔らかさに少し戸惑いながらも、どこか温かい余韻の中で、深い眠りへと落ちていった。




