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リミットオリジン ―凡人と言われた俺が最強にたどり着くまで―  作者: みみたん
第3章:自由の港・潜蝕編

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第57話:嵐の前夜と嵐の日

「――ッ、ガ……あ!」


 地下訓練場の冷たい石床に、アッシュは激しく叩きつけられた。

 肺の中の空気が強制的に押し出され、視界がチカチカと火花を散らす。焼けるような熱さを持つ右脇腹の痛みに耐え、アッシュは必死に床を這って、弾き飛ばされた剣へと手を伸ばした。

 だが、その指先が冷たい柄に触れるより早く、細く鋭い切っ先がアッシュの喉元にピタリと突きつけられた。


「動かないで。死ぬわよ」


 ロザリアの、澄み切っているのに冷たい声が降ってくる。アッシュが視線を上げれば、そこには呼吸一つ乱していない第三隊長の姿があった。さらにその背後には、巨大な岩のごとき威圧感を放つラグナが、大剣を肩に預けたまま、憐れむような視線でアッシュを見下ろしている。


 二人の連携は、アッシュがこれまで経験してきた「戦闘」の概念を根底から覆すものだった。

 個の武勇に頼るのではない。アッシュが【無歩】で間合いを詰めようと予備動作を消した瞬間に、ロザリアの細剣が「そこに現れるはずの空間」を先読みして貫き、アッシュが反射的に【金剛身】で耐えようとすれば、ラグナの重厚な魔力が肉体密度を強引に揺さぶり、防壁に穴を穿つ。

 「点」を打てば「面」で返され、最短を突けば「網」に絡め取られる。高ランク者たちの組織的な暴力の前に、アッシュはただの子供のように無力だった。


「そこまでです」


 訓練場の隅で時計を止めたルカの声が響く。ロザリアが音もなく剣を鞘に収め、ラグナがふう、と重い息を吐いた。


「……はぁ、はぁ……っ、くそ……っ」


 アッシュは床に拳を叩きつけた。拳から伝わる鈍い痛みよりも、胸の奥を掻きむしる無力感が辛かった。

 アビスを出てから、自分なりに成長したつもりだった。じーちゃんの教えを反芻し、スキルの練度も上げたはずだった。だが、目の前の二人はその遥か先を行っている。ここまで遊ばれるほどに完膚なきまでにやられたのは初だった。そして、これから挑む船の中にいるのは、この二人さえ「捨て石の覚悟が必要だ」と断言する、この世界の頂点――魔導将軍なのだ。


「身の程は知れましたか、アッシュ」


 ルカが眼鏡を押し上げ、静かに歩み寄ってくる。その振る舞いには、一切の情がなかった。


「君の急所を突く技術も、予備動作のない移動も、高ランク者の連携の前では一つの『手札』に過ぎません。ましてや相手は魔導将軍、それと君も戦ったことのあるレオンです。奇策も、真っ直ぐな闘志も、奴らにとってはただの余興にしかならない」


 ルカは訓練場の壁に掲げられた、巨大な『万貨の方舟』の構造図を指差した。


「作戦を最終確認します。魔導将軍は賓客として船内に入場しています。アイゼン連邦の威信をかけた最新鋭の警護部隊が、その周囲を固めているはず。作戦開始は明後日、オークションが最高潮に達し、船内が『祝祭の狂気』に包まれる瞬間を狙います」


 ルカの指が、船のメインデッキをなぞる。


「ラグナ、ロザリア。二人の部隊は、正面から強襲を仕掛け、将軍を船外の広い港湾部へ引きずり出す。君たちの部隊の目的はハイエルフの奪還ではありません。魔導将軍およびその直属部隊の意識を、自分たちへ『釘付け』にすることです。君たちの役割は、死ぬことではありません。だが、死に物狂いで暴れなければ、将軍の視線は動かないでしょう」


「ああ、分かっているさ。あの化け物の相手を正面からやるんだ、派手に花火を打ち上げてやるよ。それに俺らは時間稼ぎ役だからな、引きつけるだけ引きつけたら作戦通り尻尾巻いて逃げ出すぜ」


 ラグナが不敵に笑った。ルカはアッシュを真っ向から見据えた。


「陽動によって生じる『空白の数分間』。将軍の目がラグナたちに向けられたその隙に、アッシュ、君とニーナ、および私の三人が別ルートからオークション会場へ潜入し、ハイエルフを拉致して、そのまま脱出ルートを確保します。いいですか、アッシュ。君が魔導将軍に関わる余裕は一秒たりともないんです。君の役割は、船内で待ち構えるレオンを可能な限り早期に戦闘不能状態へ追い込み、ニーナが確実にハイエルフを外へ連れ出せる環境を作ること。情に流されないでください。それは全員の死を意味する」


---


 深夜、セーフハウスの自室で、ニーナは潜入用の装備を点検していた。

 リヴォルノの湿った潮風が、窓の隙間から入り込んでロウソクの炎を揺らす。彼女は革袋の中に忍ばせた解錠道具や、煙幕の詰まった小瓶を何度も指先で確かめていた。

 カチ、カチと金属が触れ合う音だけが響く静寂。だが、その指先はわずかに震えている。


 扉が静かに開き、アッシュが入ってきた。


「ニーナ……まだ起きてたのか」


「……あんたこそ、あんなにボコボコにされて、まだ体が動くわけ?」


 ニーナは顔を上げず、皮肉めいた口調で答えた。だが、その声はどこか掠れている。アッシュは彼女の隣に腰を下ろした。二人の間に、重苦しい沈黙が流れる。


「……ねえ、アッシュ」


 ニーナが手を止め、暗闇を見つめたまま口を開いた。


「一つだけ、はっきりさせておきたいの。あんた、本気で……ギリギリまでルナを救うつもりで動くのね? サナが言ったみたいに、最後にあの子を放って囮にするんじゃなく、本当に、自由にするつもりなのね?」


 アッシュはすぐに答えなかった。代わりに、自分の両手を見つめた。今日、ラグナとロザリアに完敗した、無力な自分。


「……じーちゃんは、力は誰かを守るためにあるって言ってた。……あの子が、あの檻の中で全てを諦めたような目で俺を見たんだ。それを知っていて、自分たちが助かるためだけに利用するなんて、俺にはできない。……西の大陸へ行くために作戦は成功させる。でも、ルナも救い出す。どちらかじゃない。全部だ」


「馬鹿ね……本当に、救いようのない馬鹿だわ、あんたは」


 ニーナは力なく笑い、ようやくアッシュの瞳を真っ直ぐに見た。そこには、絶望的な戦力差を前にしてもなお、濁ることのない意志の火が灯っていた。

 ニーナは思った。アッシュという男が一度こうなれば、どれほど無謀な壁であっても突き進んでしまうことを。そして、その真っ直ぐすぎる光が、自分をここまで連れてきたことも。


「……分かったわよ。あんたがそこまで言うなら、あたしも腹を括るしかないわね」


 ニーナはアッシュの両手を、痛いほどの力で掴んだ。


「でも、勘違いしないで。あたしはあの子のためだけに動くんじゃない。……あたしは、あんたを死なせないために行くの。西へ行くために作戦を成功させて、ルナを救って、その上で……あんたが笑って大陸を渡る。その結末以外、あたしは認めない。だから、あんたの命だけは、絶対に勝手に捨てさせないから。……でも最悪の時は、あたしが無理矢理にでもあんたを引きずって逃げるわよ。いいわね?」


「……ああ。ありがとう、ニーナ」


 アッシュの言葉に、ニーナはもう一度アッシュを見つめて手を離した。彼女の葛藤が消えたわけではない。アッシュを死なせたくないという恐怖と、ルナを救いたいという微かな希望。その矛盾した感情を抱えたまま、彼女は「アッシュのサポート」という一点にすべての覚悟を注ぎ込んだ。


---


 アッシュは部屋を出た後、独り地下訓練場へと戻った。

 月明かりさえ届かない暗闇の中、彼は立ち尽くし、自身の肉体感覚を研ぎ澄ませる。


(魔導将軍……そして、レオン……)


 脳内で、何回やったかわからなくなるほどのシミュレーションが始まる。

 陽動の爆音が響き、船内がパニックに陥る。警備兵が外へ走り、入れ替わりで自分たちが搬入口を突破する。迷路のような通路を抜け、オークション会場の壇上へと晒されているはずのルナのもとへ。

 そこで待ち構えているのは、必ずあの男だ。レオン。かつては何とか勝てたが、それはレジスタンスメンバーがレオンを引きつけてくれたからに過ぎない。


 アッシュはゆっくりと息を吐き、足の裏から伝わる床の感覚、筋肉の緊張、魔力の流れを感じ取る。

 どこを突けば、この無謀な自分だけの作戦が成功するのか。

 じーちゃんの教えを血肉に変え、ラグナたちに叩き伏せられた時の「衝撃」を記憶に刻む。自分の未熟さを認め、その上で、一瞬の隙にすべてを賭ける。


「――見ててくれ、じーちゃん」


 アッシュの瞳に、絶対に失敗しないという決意が宿る。それは、誰かを守るために持てる力を使う、ゼノスの弟子としての眼差しだった。


---


 決行当日。リヴォルノ港は、不気味なほどに澄み渡っていた。

 空には雲一つなく、輝く月と星々が、地上に逃げ場のない光を投げかけている。本来なら隠密行動には不向きな夜だ。だが、その光を切り裂くための仕掛けは、既に街の至る所に埋め込まれていた。


 巨大な『万貨の方舟』。

 祝祭の絶頂を迎えようとしているその船内からは、耳を劈くような歓声と音楽が漏れ聞こえてくる。だが、その喧騒を上書きするように、最初の「音」は港の北西、物資集積所から上がった。


――ドォォォォォン……ッ!!


 夜気を震わせる巨大な爆発。

 港の北西、物資集積所が炎に呑まれ、遅れて南側のドック、西側の軍用倉庫からも次々と火柱が夜空へと突き刺さる。

 その瞬間、港全体に悲鳴と怒号が広がった。

 だがそれは、港湾部全体の崩壊が目的ではない。


 ルカとサナが綿密に配置したレジスタンスの別働隊による攪乱は、あくまで「複数地点での局所火災と破壊」に留められていた。


 意図的に港全体を崩壊させない程度に抑えられた爆発。

 警備部隊の指揮系統だけを切り崩し、判断の遅延を引き起こすための設計だった。


「始まりました……」


 港の倉庫街、月光を避けた影の中に潜むルカが、静かに時計を止めた。

 前方では、方舟の外縁警備を担っていた部隊が、港各所から上がる火の手と怒号に引き寄せられ、次々と外周へと分散していく。


 だが、貴賓区画および船内コアの警備は動かない。

 外からの被害には対応しないという判断が、現場レベルでも明確に徹底されていた。


「……アッシュ、ニーナ。準備はいいですか」


「いつでもいける」「いいわよ」


 アッシュとニーナは短く答え、極限まで集中を高めた。


 月明かりは遮蔽物のない岸壁をむしろ危険に晒す光だった。だが同時に、港全体が爆発と怒号で視線誘導されている今、見えているのに見られていないという奇妙な状況が成立していた。


 ルカの作戦は、単なる陽動ではない。


 港湾の警備体系は「外部対応班」「船体外周警備」「船内固定警備」に分割されている。

 外部対応班が爆発対応に引き抜かれた瞬間、外周と船内の連携にはわずかな遅延が生まれる。


 そのズレこそが、数分にも満たない「空白」だった。


「……行くわよ。絶対に、誰一人欠けずに戻るんだから」


 ニーナが小瓶を握りしめ、前を見据える。


「今だ。行きますよ!」


 ルカの鋭い合図と共に、三人は影から飛び出した。

 遮るもののない月光の下、アッシュたちは疾風のように岸壁を駆け抜ける。背後ではラグナとロザリア率いる突撃班が、混乱に乗じて正面デッキへと強襲を仕掛ける怒号が聞こえてくる。


 アッシュの視界には、方舟の側面に位置する、以前の偵察で見つけ出した接舷デッキの搬入口がはっきりと映っていた。

 警備が手薄になったその「空白」を目指し、アッシュは地面を蹴る。


(ルナ、待ってろ。今行く……!)


 心臓の鼓動が耳元で鳴り響き、全身の血が沸騰するような高揚感と、氷のような冷静さが同居する。

 三人の影は、怪しく輝く月光を切り裂きながら、欲望と狂気に満ちた怪物の胃袋――『万貨の方舟』の内部へと、吸い込まれるように潜入していった。


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