第56話:非情なる作戦
廃倉庫を改装したレジスタンスの地下訓練場。そこには、ただの調整とは言い難い、殺気にも似た緊張感が立ち込めていた。
「――【金剛身】」
アッシュの呟きと共に、レジスタンス兵の三人が放った模擬槍が、彼の肉体に触れた瞬間に甲高い金属音を立てて弾かれた。衝撃を吸収するのではなく、肉体密度を極限まで高めて物理干渉を「反射」する。
「油断せずに! 次です!」
ルカの鋭い叱咤と同時に、左右と背後に潜伏していた三人の戦士が、アッシュの死角――膝裏と首を狙って模擬剣を走らせる。アイゼン連邦軍が誇る魔導演算に基づいた、集団殺傷戦術の模倣だ。
アッシュは息を吸い込み、直感で最小限の動作で躱す。
そこから【無歩】を発動し、瞬時に背後の壁を蹴り、反転。模擬剣を振り抜く風切り音が空間を裂く。
一人の腹部を捉え、その衝撃を鋭い突きで内部へ流す。防具の上からでも急所を揺さぶられた戦士が悶絶して膝をつく。間髪入れず、アッシュは残る二人の波状攻撃を、剣と小手を使い、柳のように受け流し、あるいは鋼のように弾き返した。
「……そこまで」
ルカが静かに告げ、時計を止めた。
六人の精鋭が肩で息をする中、アッシュだけが静かに構えを解いた。リヴォルノに来てからというもの連敗が続いていたアッシュだったが、もはや吹っ切れた様子で訓練に明け暮れていた。
「反応速度、スキルの連動精度、共に申し分ない。ですが――」
ルカは眼鏡を直し、その瞳に深い懸念を滲ませた。
「相手はレオンです。カナン回廊で君たちを圧倒した、あの男です。君に二度も煮え湯を飲まされた以上、奴はアイゼン連邦の最新鋭装備を用意し、油断も隙も見せてくれないはずです。君の急所を突く一撃さえ、奴は経験則で無効化してくる可能性がある」
「……ああ。あの強さは忘れてない」
アッシュが汗を拭い、拳を握りしめる。かつてレジスタンスと協力し、辛うじて撃退できた宿敵の名に、背筋が冷たく疼く。
「当日はニーナがルナを拘束から外している最中、あるいは外した後、ルナを守りながらレオンを迎え撃つ可能性もあります。アッシュ、おそらく君一人では守り切れずに死ぬ。万が一、私がいないときは無理をしないように」
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その夜、サナに連れられ、潮風の吹く夜の港へと向かう。
作戦決行まで三日を切ったこの日、アッシュ、ニーナ、ルカの三人は港を一望できる廃ビルの一室から、海に鎮座する巨大な影――『万貨の方舟』を凝視していた。
月光を浴びて、光を反射するその船体は、自由貿易同盟が「偽りの中立」を利用して、拉致した希少種を換金する醜悪なオークション会場だ。
「見て、あの接舷デッキ。警備の間隔が十分ごとに一回、完全に途切れるわ」
ニーナが望遠鏡を覗きながら、掠れた声で報告する。その視線の先、船の入口付近に、周囲の重装兵とは明らかに一線を画す気配を纏った男が立っていた。
レオンだ。
隙のない姿勢で周囲を睥睨するその姿を見た瞬間、ニーナの身体が小さく震えた。
「待って……レオンの隣にいる、あの不気味な鎧……何なの、あれ」
ニーナの顔から血の気が引いた。ルカがひったくるように望遠鏡を覗き込み、絶句する。
そこにはレオンが霞んで見えるほどの、圧倒的な死の気配を振りまく存在――アイゼン連邦の武の頂点、四人の『魔導将軍』のうちの一人が立っていた。
「……なぜだ。なぜ魔導将軍級がリヴォルノにいる!? 斥候は何をやってたんだ! こんな最重要事項を完全に見落とすなんて……何を偵察していたんだ彼らは!」
ルカが激しい怒りを含んだ声で毒づく。あの世界の均衡を破壊しかねない戦力が、今まさに目の前にいるのだ。
アッシュも顔色を変えて望遠鏡を覗き込んだ。
(アビスで見たのとは違うやつだ……)
「……あれが魔導将軍……。あいつがいる限り、作戦は綱渡りどころじゃないわ。アッシュ、あたしがルナを連れ出した後は、あんたとルカが全力で時間を稼いで。じゃないと、三人まとめて斬り捨てられる」
「分かってる。……あの鎧は俺が止める。絶対にだ」
アッシュの瞳が射抜いていたのは、レオンの隣に立つ、存在そのものが天災に近い魔導将軍だった。アビスで見たやつとは違っていたが、アビスでの最後の光景は忘れられない。
ふと、ルカが横で冷静に戦力計算を修正しはじめた。
「……君が魔導将軍を止めるなんて不可能だ。私でも無理です。作戦の根本的な見直しが必要になりました。魔導将軍がいるとなれば、当初の陽動規模では数分と持たずに全滅させられる。サナに報告し、第二隊、第三隊をこちらに回してもらいましょう。アイゼン連邦艦隊の強襲は第一隊長一人に現場指揮をしてもらうしかないですね。第二、第三隊らを陽動部隊に投入しなければ、我々が船内に突入する前に陽動部隊が消滅し、全員が袋の鼠になる」
その時、連邦軍の守備隊に守られた一団が桟橋に現れた。
中央には、厚い布で覆われた鉄格子の檻。運搬作業の荒っぽさに海風が吹き荒れ、布を激しく跳ね上げた一瞬、檻の奥に座り込む少女の姿が見えた。
白磁のような肌に、夜空の星々よりも輝く白銀の長い髪。そして、何者も映していないような、虚ろで深い瞳。ハイエルフのルナだ。
アッシュと少女の視線が、一瞬だけ重なった。
彼女の瞳には、希望の欠片すら残っていなかった。ただ、運命を諦め切ったような眼差しをアッシュは感じ取った。ルナはそのまま巨大な船の中へと消えていった。
「…………」
アッシュの喉が、微かに鳴った。
物として扱われ、暗い檻の中に閉じ込められている少女。理不尽に踏みにじられる弱者の姿を目の当たりにして、アッシュの胸を激しく抉る。
じーちゃんなら、こんな時どうするだろうか。そんな問いが、静かに脳裏をよぎった。
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セーフハウスに戻った後、サナは機密図面を広げ、一切の私情を排し、極めて感情を抑制するような声で告げた。
「……斥候の不手際は後で徹底的に洗うわ。今は目の前の事実に対処するしかない。ルカの進言通り、陽動部隊には第二、第三隊のラグナとロザリアを配置する。現場の指揮は予定通りルカ、あんたに任せたわよ。魔導将軍とレオン、その両方を相手に陽動を成立させるには、それだけの戦力を注ぎ込むしかないわ」
厳しい表情のサナに対し、アッシュが絞り出すような声で問いかけた。
「ハイエルフを助ける選択肢はないのか?」
サナは一切の躊躇なく首を振った。
「いいえ。連邦軍の注意が彼女の確保に向いた隙に、私たちはさらに攻撃を加え混乱させる。……作戦の最後には、彼女を再び軍に捕らえさせることになるわね。商品がまだ敵の手の内にあることで、連邦軍に『目的を果たした』と誤認させ、私たちへの追撃を遅らせるための『囮』になってもらう」
「……そんなことが、許されるのか?」
アッシュの声が、低く震えた。
一度は自由という光を見せられながら、最後にはまた暗い檻の中へ突き落とされる。
じーちゃんは言っていた。「力は誰かを守るためにある」と。今、自分の手にあるこの力は、少女を絶望させるための道具に過ぎないのか。
「一度は外に出しておいて、またあの檻に戻すなんて――そんな人の道から外れた行動……俺たちだってバルトロやデックとやってることが変わらないじゃないか!」
アッシュの激昂に、部屋の空気が張り詰めた。ニーナは、アッシュのその震えに胸を締め付けられていた。自分だって助けたい。だが、相手はあのレオンに加え、魔導将軍までもがいるのだ。万全を期した作戦でなければ、ルナを救うどころか自分たちさえ死ぬ。
「アッシュ、やめて……」
ニーナがアッシュの袖を強く引く。その手もまた、微かに震えていた。
サナは冷ややかな眼差しをアッシュに向け、言い放った。
「アッシュ、これは慈善事業じゃない。施設を爆破し、艦隊を港に引きずり込むための戦争よ。これが一番確実で、犠牲の少ないやり方なの。あんたは戦士としての役割に集中しなさい。情で足を止めたら、あんたもニーナも死ぬわよ」
「犠牲が少ないって……あの子の人生は、その数に入ってないのかよ」
「入ってないわね。私たちの目的は『陽動』と『勝利』であって、聖者ごっこじゃないから」
サナの言葉は、氷のように鋭くアッシュの胸を刺した。
アッシュは何も答えず、ただ拳を強く握りしめた。
「アッシュ、頭を冷やしなさい。決行は三日後よ」
サナが図面を畳み、突き放すように席を立つ。その背中を追うようにルカも部屋を出た。
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廊下に出た途端、サナは壁に背を預け、深く重い吐息を漏らした。
その指先は、先ほどまでの冷静さはなく、激しく、震えていた。
「……嫌な役回りですね、サナ」
背後からかけられたルカの声に、サナは顔を上げずに苦く笑った。
「……上層部が決めた『効率的な作戦』よ。反吐が出るわ。あの子の言う通り、やってることはバルトロやデックと大差ない。……でもね、ルカ。あのアッシュの真っ直ぐな瞳を見てると、こっちまでアッシュの言うことを受け入れそうになっちゃう」
サナは自嘲気味に呟き、強く拳を握った。
「私たちが『非情』にならなきゃ、全員が死ぬ。相手はあのレオンに、魔導将軍までいるのよ。生半可な正義感で挑んで、返り討ちに遭う未来しか見えないわ。……誰かが泥を被って、悪魔に魂を売らなきゃならないの。……たとえそれが、一人の少女を見捨てることだとしても」
「……ええ。それが指揮官の孤独です」
ルカは眼鏡を直し、暗い廊下の先を見つめた。
彼とて、組織の論理に従わざるを得ない自分に苛立ちを感じている。だが、表に出せば統制は崩れ、敵に食われる。その葛藤を、彼は静かな沈黙の中に埋めた。
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地下訓練場の隅で、アッシュは独り、暗闇を見つめていた。
胸の内で、サナの作戦とは別の、揺るぎない決意が静かに鎌首をもたげていた。自分を救ってくれたゼノスの背中を思い出し、アッシュは自分の心に問いかける。
(……俺は、じーちゃんの言葉を裏切るのか?)
静寂の中で、アッシュの瞳には決して消えることのない光が宿り始めていた。
魔導将軍という絶望的な壁。それでも宿敵レオンを倒し、ルナも救う。そんな、誰もが「不可能」と切り捨てるはずの無謀な結末を、アッシュは自身で強引に成立させることができないかを考えていた。




