第55話:潜伏の街角
中央区北西のセーフハウス。その地下の一室で、アッシュは深いため息と共に自身の身体を見つめていた。
海竜との死闘、そしてデックの船上での無理なスキルの使用。ポーションの効果で傷口は塞がっているが、身体の芯に残る重苦しい倦怠感は、肉体が悲鳴を上げている証拠だった。
「……いい、アッシュ。これから一週間、あんたは『完全安静』よ。ベッドから出るのも最小限。いいわね?」
サナが厳しい口調で告げ、アッシュの胸元に新しい包帯を巻き直す。その隣では、ルカが静かに眼鏡を押し上げた。
「サナの言う通りです。君の骨格と筋肉は、今この瞬間も自己修復のために膨大な魔力を消費している。一週間後、身体の回復を待ってから『万貨の方舟』に向けた作戦の全容を共有します。それまでは、戦うことを忘れなさい」
「……わかった。無理はしない」
アッシュは渋々頷いた。リヴォルノに来てから、これまでずっと無理をしてきた自覚がある。今の自分には、休息もまた西へ至るための「戦い」の一部なのだと、自分に言い聞かせるしかなかった。
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アッシュが眠りについた後、ニーナは部屋の隅で彼の装備を点検していた。
カナン族の旅装は海竜によって引き裂かれていた。修復不可能なほどにボロボロになっており、カナンの郷で新調したものは、もう防具としての役目を終えている。
(これじゃあ、次の戦いには出られないわね……)
ニーナは懐の財布を取り出し、中の金貨を机に並べた。
金貨九十五枚。
これが、今の二人の全財産だ。これからの食費、潜伏のための諸経費、そしてアッシュに新しい装備を買い与えるための予算。ニーナは算盤を弾き、数字を弾き出していく。
(アッシュを死なせないための『装備』を買う。……それだけじゃない、今後の生活もあるし一枚も無駄にはできないわ)
ニーナは、かつての「金蔓」を見るような欲ではなく、相棒の命と二人の生活を守り抜くための計算を、漏れの無いよう緻密に考え続けていた。
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一週間後。
ようやく外出の許可が出たアッシュとニーナは、ルカから手渡された深いフードのついたマントを羽織っていた。
「リヴォルノの街中には、バルトロの私設兵や耳目が網の目のように張り巡らされています。顔を隠し、すれ違う人とは極力視線を合わせないように。移動そのものを隠密の訓練だと思ってください」
ルカの忠告を胸に、二人はセーフハウスを後にした。
リヴォルノ中央区は、西区とは比較にならないほど整然としており、それゆえに「異物」への警戒も強い。アッシュは深くフードを被り、周囲の気配に神経を尖らせながら、ニーナの半歩後ろを歩く。
(……視線が多い。あそこに立っている商人も、路地の裏で休んでいる人も、全員が敵に見える)
アッシュは、これまでニーナの常識に頼る場面が多かったが、これからは自分も常識を覚えたり、ニーナがいない場合でも立ち回れるようにならなければならないと考えていた。二人は互いに気配を消し合いながら、ニーナが案内する場所へと向かっていた。
まずは中央区の裏通りにある防具店を訪れる。
薄暗い店内に並ぶのは、実戦的な中古品や既製品ばかりだ。カウンターの奥で作業をしていた老店主が、二人を一瞥して声をかけてきた。
「……何の用だ。ひやかしなら帰んな」
「防具を新調しに来たのよ。これを見て」
ニーナは机の上に、ボロボロになった霊樹の繊維と、海竜の鱗を置いた。店主の目が一瞬で鋭くなる。
「……この繊維、見たことがねえな。それにこっちは海竜の鱗か。こいつぁいい素材だ」
「でしょ? それを引き取る代わりに、一番いい既製品を出して。強度が高い魔獣革に鋼板を挟んだ、動きやすくて硬いやつとかない?」
店主は奥から、黒い魔獣革の胸当てと小手を持ってきた。
「金貨三十枚。こいつの体格に合わせた調整込みで金貨四十枚だ。それでいいな?」
「……高いわね。それなら素材は渡せないわ」
「ちっ、金貨三十二枚だ。それ以上はまけらんねえ」
三十分ほどの調整を経て、アッシュは新しい防具を身に纏った。
急所に鋼板を配した構造だが、関節部分の可動域は確保されている。アッシュは剣を構え、自身の身体操作に防具が干渉しないかを確認するように、短く鋭く踏み込んだ。
「……いいな。これなら動きを邪魔しない。肉体密度を操作しても、引っ掛かりがないな」
「当然よ。あんたのスキルを優先して、必要な箇所だけ補強したんだから。……さあ、残りは六十三枚。あと二十日ほどで作戦決行日よ」
二人は店を出て、ルカが指定した合流地点へと向かった。
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辿り着いたのは、中央区のさらに外縁にある廃倉庫だった。
重い扉をアッシュが開けると、そこには数十人の男女が集まっていた。いずれも鋭い眼光を持ち、隠しきれない強者の空気を纏っている。レジスタンスの実行部隊――今回の「陽動」を共に担うメンバーたちだった。
「ルカ、連れてきたのか。……例の、海竜を一人で押し留めたっていうガキを」
一人の大柄な戦士が歩み寄り、アッシュを値踏みするように見据えた。周囲からも、疑念と期待が入り混じった熱い視線が突き刺さる。
「ええ。彼がアッシュ。そしてこちらがスカウトのニーナです。……二十日後の『万貨の方舟』襲撃、その最前線を任せる我々の切り札ですよ」
廃倉庫に集まった数十人の視線が、アッシュの全身を刺すように検分する。海竜を押し留めたという噂の真実を確かめようとする、歴戦の兵たちの品定めだ。
ルカは静かに前に出ると、卓上に広げられたリヴォルノ港の精密な地図を指し示した。
「それでは、作戦の全容を共有します。ここに集まった皆さんの役割は、『陽動の陽動』です。当日、港湾周辺の重要施設を数箇所、同時に爆発させてください。警備の意識を港の防衛へ向けさせ、方舟内の『護衛』を薄くさせるのが目的です。そして、レジスタンス本隊はこの隙に――沖合に停泊しているアイゼン連邦の海軍艦隊が港内に来たところを襲撃します」
一人の戦士が頷き、爆薬の詰まった袋を確かめる。彼らの戦いが激しければ激しいほど、アッシュたちの生存率は上がる。
ルカの指が、方舟と艦隊の位置関係をなぞる。
「方舟にはアイゼン連邦の高官が大量にゲストとして招かれています。我々三人が潜入し、船内で暴れます。テロリストの存在を誇示する。そうなれば、沖の艦隊は賓客を保護するために港へ無防備に突っ込んでくる。そこが本隊の狙い目です」
「……直接暴れるのは、俺たち三人だけってことか」
アッシュの確認に、ルカは深く頷いた。
「ええ。そして最大の目的は破壊ではなく、オークションの目玉である『ハイエルフのルナ』の解放です。ルナは連邦が買い取り、そのまま連邦へ連れ去られる手筈になっています。我々が彼女を方舟から降ろし、囮として運用することで、艦隊をより確実に港へ誘い込む。人目につかない場所で彼女を解き放ち、パニックを引き起こします」
ルカの言葉は非情だった。商品を壊すのではなく、その存在そのものを利用して敵を内側から崩壊させる。
「ルナが解き放たれれば、護衛たちが商品の捕獲に追われ、さらにそれを追撃します。警備網は瓦解する。その混乱こそが、我々の安全を確保する鍵になります。……ですが、この作戦にはもう一つの超えるべき壁があります」
ルカの声音が、一段と低くなった。地図の一点、方舟の警備責任者の詰所を指す。
「当日の警備隊長は――レオン・V・シュタインバッハです」
その名が出た瞬間、倉庫内の空気が凍りついた。レジスタンスの面々から、憎悪と恐怖が混じった呻きが漏れる。かつてカナン回廊でアッシュとニーナの前に立ちふさがった、あのとてつもなく強い男。
「レオンはこれまで、数えきれないほどの我々の仲間を手に掛けてきた天敵です。リヴォルノにおいて彼を放置することは、我々の活動そのものの死を意味する。今回の乱戦に乗じて――奴に必ず、とどめを刺します」
アッシュは、フードの奥で拳を強く握りしめた。
自分を見る視線、そして仲間の怨念。それが、自分たちが背負うことになった「陽動」という役割の、あまりにも重い責任だった。
「……わかった。俺がその隙を作る」
「期待していますよ、アッシュ。……決行まで、あと二十日です」




