第53話:復讐の天秤
すみません、修正前の53話を間違えてアップしておりました。
「リヴォルノ港の最果て〜……」のところから内容が差し替わっております。
入り江の入り口で、ニーナに抱きしめられたまま、アッシュはゆっくりと呼吸を整えていた。
あたりには、ただ静かな雨音だけが響いている。
「……アッシュ。動ける?」
ニーナが心配そうに覗き込む。アッシュは短く「ああ」と答えようとしたが、全身を走る激痛に顔を歪めた。海竜の一撃とハイエナ共の暴行は、十二歳の少年の肉体を確実に削っていた。
「……これを。ルカに渡されてたの」
ニーナは懐から、バルトロの邸宅に侵入する前、ルカが念のために持っておくようにと無理やり渡された治療薬を取り出した。
「飲んで。……私はハメられた。商談は成立して、タダで西に送ってやるって、でも嘘だったの」
ニーナの声も身体も震えていた。アッシュは無言で瓶を受け取り、中身をあおった。熱い奔流が全身を駆け巡り、裂けた肉を強引に繋ぎ合わせていく。
完治には程遠いが、戦うための力は戻った。
「ニーナも騙されたのか……。俺のことはニーナが助けてくれたけど、次は俺がニーナを助ける番だ」
アッシュは立ち上がり、ニーナの横に並ぶ。その瞳には、かつてないほど静かで深い怒りが宿っていた。
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(回想:数時間前――ガレノス商会・会長執務室)
航路図を掴み、窓から脱出しようとしたニーナの背中に、氷のように冷徹な声が突き刺さった。
「これほど鮮やかに潜り込むネズミが、まだこの街にいたとはな」
振り返れば、そこには十数人の私設兵に守られたバルトロが立っていた。
ニーナの潜入は、最初からすべて筒抜けだったのだ。絶体絶命の窮地に立たされたニーナだったが、彼女の脳裏をよぎったのは、潜入中に耳にした「入り江で黒髪、翡翠色の目をした鉄ランクの少年がネームドに挑んだ」という発言だった。
「さて、取引といこうか。私は有能な人間を無駄にするのが嫌いでね。デックを裏切れ。奴の拠点を差し出せ。……協力するならば、お前は見逃してやる。小娘の命なんぞ私にとっては石ころ並みの価値もないからな」
「……お願い、バルトロ」
ニーナはプライドを捨て、まっすぐにバルトロを見据えた。
「一度だけ、私を入り江に行かせて。どうしても気になる奴がいるの。……救い出したら、私は必ずデックの元へ行くわ。監視でも何でも付けて。その後なら、あんたの要求には従う。だから……今だけは、私をここから出して」
バルトロは沈黙の後、低く笑った。
「面白い。小娘の意地か。……いいだろう、その商談、乗ってやる。デックの隠れ家まで案内してもらうのが条件だ」
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リヴォルノ港の最果て。
かつてニーナがデックと最初の商談を行った廃倉庫の中では、誰も口を開かなかった。
波の音だけが、やけに近く聞こえている。
「話が違うじゃねえか……っ! バルトロの野郎、最初から全部読んでやがったんだ!」
倉庫の奥、生き残った数人の幹部や護衛を引き連れたデックが、狂乱混じりの怒号を響かせていた。
海へ出た連中は戻らなかった。沖には、連邦の防衛艦隊が待っていたのだ。
リヴォルノを牛耳るバルトロが、何も手を打っていないはずがなかった。
デックが送り出した襲撃船は、一隻残らず沈められ、誰一人戻ってこなかった。
「デックさん、どうするんだよ!? 港の出入り口は連邦の息がかかった連中に押さえられてる! 高速艇を出したところで、外海に出た瞬間に沈められるぞ!」
「うるせえ! 黙れ! 考えろ、何か方法が――」
その時だ。扉が軋む。霧の向こうから、ニーナが入ってきた。
「ニーナ……!? お前、生きてたのか!」
デックが目を剥く。バルトロの館に送り込んだ囮が、この修羅場に戻ってきたのだ。だが、デックの顔に安堵の色は浮かばない。バルトロの屋敷に忍び込み、ただの小娘ごときが五体満足で帰ってこられるはずがないからだ。
デックの視線が、ニーナの背後に注がれる。そこには、ボロボロの衣服を纏いながらも、翡翠色の瞳に昏い焔を宿した黒髪の少年――アッシュが立っていた。
「……おい、どういうことだ、ニーナ。その薄汚いのは誰だ? お前はバルトロの屋敷に行ってないのか?」
デックの声音に猜疑心が混じる。
「黙ってないで何か言いやがれ!」
護衛たちがじりっと間合いを詰める。しかし、ニーナは怯むどころか、蔑みを込めた視線をデックへと向けた。
「……ふざけんな」
ニーナの目が細くなる。
「最初から私を捨て駒にするつもりだったくせに」
「このガキ、どこまで知ってやがる……! 殺せ! 叩き殺せ!」
デックが半狂乱で叫ぶ。側近の護衛たちが一斉に武器を抜き、ニーナへと躍り出た。
だが、ニーナが一歩退がると同時に、アッシュの身体が深く沈み込む。
護衛が剣を振り上げた。次の瞬間、護衛の視界からアッシュの姿が掻き消えた。――【無歩】。護衛がその始動にすら気づけぬまま、アッシュは一瞬で死角へ滑り込み、その懐へ深く入り込んでいた。
鞘のまま黒剣が腹へ触れ、そのまま【透過撃】を撃ち込む。
ドン、と鈍い音が倉庫へ響いた。くの字に護衛の身体が折れ曲がり、そのまま崩れ落ちて意識を失った。
「ひっ、化け物か……っ!」
もう一人の護衛が恐怖に駆られて剣を振り回すが、アッシュは最小限の動きで刃をかわす。即座に【無歩】で肉薄し、すれ違いざまに再び黒剣の鞘を放った。横薙ぎに叩きつけられた鞘が、敵の胴体を正確に捉える。鈍い衝撃が胴を貫く。二人目の護衛もまた、声すら上げられずに床へのたうち回った。
倉庫が静まり返る。誰も動けなかった。床では、護衛が潰れた息を漏らしている。残されたデックは、腰を抜かして床にへたり込み、必死に後退りしながらアッシュを見上げていた。
「わ、悪かった……! 俺が全面的に悪かった! 金ならある、いや、金はないが、何でもする! だから命だけは――」
その見苦しい命乞いを途切らせるように、ニーナが音もなく歩み寄る。彼女は手にした武器の柄頭ごと、デックの顔面を正面から思い切りぶんなぐった。
鈍い破砕音と共にデックの身体が横ざまに転げ、うずくまる。その惨めな姿を見て、ニーナは眉一つ動かさなかった。
「……行こう、ニーナ。外から足音が聞こえてきた」
倉庫の外から、無数の規則正しい足音が近づいてくる。バルトロとの取引通り、ニーナの足跡をピタリと追ってきた追跡部隊が、この廃倉庫を完全に包囲しつつあった。
「ええ。……じゃあね、デック。もう二度と会わないでしょうけど」
ニーナは冷たく言い捨てると、アッシュの肩を支えるようにして、倉庫の出口へと足を進めた。
背後で、デックの悲鳴が長く響いていた。
アッシュたちは一度も振り返らなかった。




