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リミットオリジン ―凡人と言われた俺が最強にたどり着くまで―  作者: みみたん
第3章:自由の港・潜蝕編

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第52話:静寂の蛇、裏切りの海

 ミシッ……と乾いた音が室内に響いた。


 ニーナが振り返るよりも早く、デスクの向こう側で椅子が軋む。


 「これほど鮮やかに潜り込むネズミが、まだこの街にいたとはな」


 低くひどく落ち着いた声だった。


 ガレノス商会会長、バルトロ・ガレノス。

 リヴォルノの利権を強引に貪り食ってきた男だ。上着の隙間から覗く首筋は太く、頑強な肉を思わせる。男は手元で揺らすグラスの氷を見つめたまま、ニーナをただの不法侵入者として、淡々と処理しようとしていた。


 背後の闇から、衣服のこすれる気配が近づく。

 気づけば、十数人の私設兵が部屋の出入り口を完全に塞いでいた。


 突きつけられたのは、銃身に青い魔導回路が走る新型の長銃。

 銃口の奥から漏れる魔力の熱気が、じりじりとニーナの肌をあぶる。


 逃げようとつま先に重心を移した瞬間、内臓を直接押し潰されるような重圧が降ってきた。

 部屋全体に組み込まれた防衛術式だ。心臓が嫌な跳ね方をして、のどの奥がカッと熱くなる。腰の隠しナイフに手を伸ばそうにも、鉛を流し込まれたように腕が上がらない。


 「……筒抜けだった、っていうわけね」


 ニーナは悔しさのあまり奥歯がガチガチと鳴るのを必死に堪え、奪い取ったばかりの「航路図」を、指先が白くなるほど強く握りしめた。


 「感心するよ。我が屋敷の警備網を、たった一人でここまで……。スカウトとしての腕は超一流だ」


 バルトロは椅子から立ち上がり、絨毯を重く踏みしめながら歩み寄ってきた。男が纏う高級な香水の匂いが、重苦しい空気と混ざり合って鼻を突く。


 「運び屋のデックに唆されたか? あの男、自分の手を汚さずに小娘を寄越すとは、相変わらず悪趣味なことだ」


 「……何が言いたいのよ」


 「教えてやろう。昨日、この屋敷に賊が侵入するという『匿名』の通報が、我が商会に届いた。……お前はただの、派手な『囮』に過ぎんのだよ」


 ドクンと心臓が冷たく脈打った。

 胸の奥で、自分の心臓の音がうるさいほどに鳴り始める。


 「デックの真の狙いは、この屋敷ではない。港に停泊中の我が商会の本命――私の商船を襲撃することにある。奴にとって、お前が海図を盗み出せれば儲け物、失敗して殺されようと、囮としての役目は十分に果たされる……そういう計算だ」


 そんなはずはない、と叫びたかった。

 だが、思い返せば、交渉もしていないのに報酬をつり上げてきた。決行日まで、向こうから指定してきた。サナもキナ臭いと言っていた。


 アッシュを救うための路銀を稼ぐ。その一念だけで死地に飛び込んだ。それなのに、最初から他人の都合のいい鉄砲玉として数えられていた。

 悔しさと、己の浅はかさへの嫌悪で、視界がじんわりと滲む。


 「……っ、そんなこと」


 「信じたくないか? だが、リヴォルノの裏社会を流れる力学とは、常にそういうものだ」


 バルトロは、ニーナの細い肩が小刻みに震えているのを、ただの現象として見下ろしている。


 「さて、取引といこうか。デックを裏切れ。奴の拠点を差し出せ。……協力するならば、お前は見逃してやる。小娘の命なんぞ私にとっては石ころ並みの価値もないからな」


 ニーナは唇を強く噛んだ。

 この男の言うことが真実か、それとも嘘か。考えるための時間が圧倒的に足りない。だが、ここで殺されたりリヴォルノの牢にぶち込まれれば、アッシュの元へ戻ることすら二度とできなくなる。


 プライドも、デックへの義理も、今のニーナにとってはそのへんの石ころほどの価値もなかった。


 (……あたしは……あたしは、どうすればいい……)


 一刻を争うアッシュの危機かもしれないのに、彼女には疑う時間が残されていなかった。



---



 ひたひたと冷たい海水が首筋を濡らす。


 リヴォルノ北部の『嘆きの入り江』。

 海竜『タイダル・クローラー』の通った跡には、引きちぎられた海藻の生臭い匂いと、えぐられた岩塊の破片だけが散乱していた。


 アッシュは岩壁に激突した衝撃のまま、ぬかるんだ砂の中に這いつくばっていた。

 背骨の芯から突き上げるような鈍い痛みが、一呼吸おきに波となって全身を襲う。指先ひとつ動かそうとしても、脳からの命令が途中で千切れて消えてしまう。


 砂を踏む不揃いな足音が近づいてきた。

 複数の気配。だが、先ほどまで誰もいなかったはずだ。


 「……おいおい、完全に逝っちまったか? 威勢のいいガキだと思ったが、やっぱりネームド相手じゃ話にならねえな」


 一人の男が、生存を確かめるように、革靴の先でアッシュの脇腹を荒っぽく蹴り転がした。

 砂まみれの顔が上を向く。視界は赤黒く濁り、男たちの歪んだ顔がまともに結像しない。


 「死んでりゃ、それはそれで使い道がある。このガキの装備はなかなかの上等品だ。地下の薬師に売れば、いい実験体になるんじゃねえか?」


 「へへ、リーダー、それよりもしっかり『囮役』やってもらいましょうぜ。生きてりゃ動く肉壁、死んでりゃただの餌だ」


 男たちの手が、アッシュの胸元を、小銭でも探るように無造作に漁り始める。

 彼らにとって、この少年の命など、今日一日の分け前を少し増やすための道具に過ぎない。


 「……チッ、こいつ金持ってねえのかよ」


 アッシュの指先が、無意識に砂をかいた。

 のどの奥にせり上がってくる血の塊が不快なはずなのに、その感覚すら遠く感じる。しかし、冷たい水の感触だけが、妙に鮮明に皮膚に伝わってくる。


 (……なんだよ、これ。……俺は、ここで……)


 意識が急速に遠ざかる。その寒さの中で、いつか聞いたじーちゃんの重みのある声が頭の奥で掘り返された。


 『いいか、アッシュ。本当の窮地ってのは、敵に囲まれた時じゃない。……自分を救うための理由を、見失った時だ』


 (……うるさいな、じーちゃん。……理由なんて、そんなもん……最初から……)


 ニーナに相応しい相棒となりたい、ゼノスを助けたい。ただそれだけだったはずの意識が、水の中に溶けて消えていく。


 男たちの冷たい笑い声が、潮騒の音に混ざって、完全に途絶えた。


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