第51話:泥中の蓮、潜入の産声
ガレノス商会の本邸を囲む外壁は、さながら監獄のそれであった。切り出された巨大な石材は、魔法的な硬化処理が施されており、表面には苔の一片すら許さぬ滑らかさが保たれている。
ニーナはその壁の影に身を潜め、夜の静寂を噛み締めていた。
リヴォルノの上層街――。ここは下層の喧騒や汚れが一切遮断された、選ばれた者のみが呼吸を許される特権領域だ。潮風に混じる魚の匂いすらも、この高い壁の手前で、何らかの魔導装置によって浄化されているかのように無機質で、冷たい空気が張り詰めている。
(……アッシュを、あんな場所に一人で行かせたのは私だ。剣を振るうしか選択肢がない状況に追い込んだのは、私の不甲斐なさだ)
脳裏に、ボロボロになって戦い続けるアッシュの姿が焼き付いて離れない。彼が求めているのは金ではない。かつての師、ゼノスという光を追いかけるための「道」だ。
その道を、アッシュの命を削ることでしか用意できないのだとしたら、スカウトとしての自分には何の価値があるのか。
「……西へ行く道くらい、私がこの手でこじ開けてみせる。アッシュ、あんたにこれ以上の泥は被らせない」
自らへの誓いを唇の中で反芻し、ニーナは夜の闇へと溶け出した。
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潜入の第一関門は、物理的な壁ではなく、屋敷を覆う「魔力感知網」であった。
一定の魔力波長を持つ者が敷地内に侵入すれば、即座に警報が鳴り響く仕組みだ。ニーナはサナから借り受けた「魔力遮断の外套」を深く被り、自身の魔力を極限まで内側へと封じ込めた。
ニーナは壁の僅かな接合部に指をかけ、音もなく垂直の壁を登攀していく。指先の皮膚が石材の冷たさに吸い付く。
高所の通気口。そこには物理的な格子に加え、音波に反応する振動探知の術式が組み込まれていた。ニーナは懐から取り出した微細な粉末――魔力を中和する触媒を格子に振りかけ、術式の「空白」を数秒間だけ作り出す。
音一つ立てず、格子を外した。
ニーナはその僅かな隙間に蛇のように滑り込み、屋敷の内部へと侵入した。
屋敷の内部は、静謐という名の暴力に支配されていた。
廊下には深紅の絨毯が敷き詰められ、足音を完璧に殺すが、それは同時に侵入者の気配を「異物」として浮かび上がらせる装置でもある。壁に並ぶ肖像画の瞳には、監視の魔術が仕込まれている可能性がある。ニーナは視線の死角、魔力の揺らぎ、空気の密度――そのすべてを読み取り、網膜の上に「安全な細道」を描き出していく。
(……左から二人。呼吸の間隔からして重装歩兵。心音は一定。……三歩先の床に重量感知。右の壁沿いに熱源感知の魔導具)
かつてカナン回廊で死線を潜り抜けた経験が、彼女の脳を加速させる。
曲がり角に差し掛かった時、ニーナは天井の梁へと跳び上がり、自身の存在を影へと同化させた。直後、その真下を私設兵たちが無機質な足取りで通り過ぎる。
「……例の『ネームド』の件はどうなった」
「デック子飼いのハイエナ共に感づかれたようだぞ。黒髪で翡翠色の目をした鉄ランクのガキを騙してネームドにぶつけると密偵が言ってたな」
「ありゃ白金ランクでも一人では勝てんぞ。まあ、騙される奴が悪いがな」
その言葉が耳に届いた瞬間、ニーナの世界が激しく揺らいだ。
黒髪。翡翠色の目。鉄ランク。
条件が、残酷なまでに一致している。アッシュはセーフハウスで寝ているはずだ。ルカやサナがついているはずだ。
だというのに、心臓を直接握りつぶされるような冷たい感覚が全身を駆け巡る。
(……嘘。嘘よ。アッシュが、そんなところに行くはずがない。商談だって、信じていたはず……!)
指先が震える。梁を握る力が緩みそうになる。
動揺は魔力の封じ込めに乱れを生じさせ、探知網が僅かなノイズを拾い始める。屋敷のどこかで、警戒を促す魔導灯が黄色く明滅した。
「誰かいるのか?」
私設兵が足を止め、天井を見上げる。
ニーナは自身の腿に、隠し持った針を深く突き立てた。鋭い痛みが脳を貫き、恐怖と動揺を強引に意識の隅へと追いやる。
血を流し、痛覚に身を委ねることで、彼女は再び「無」へと戻った。
私設兵は首を傾げ、再び歩き出す。その足音が遠ざかるまで、ニーナは呼吸を止めたまま、暗闇の中で自分を呪った。
自分が無茶をさせたからだ。自分が、アッシュに背負わせすぎたからだ。
(……待ってて。アッシュ、お願いだから死なないで。『航路図』を持って、すぐに助けに行くから……!)
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迷いを断ち切ったニーナの動きは、もはや人間のものではなかった。
影から影へ、魔力の糸を渡るようにして、彼女は屋敷の最深部、ガレノス商会会長の執務室へと到達した。
巨大な黒檀の扉の向こう側。そこには、この街の運命を左右する膨大な富と秘密が眠っている。
ニーナは扉の隙間に極薄の感知札を差し込み、内部の熱源を確認する。……無人。
音もなく室内へ滑り込むと、そこには部屋の主の権力を象徴するかのような、巨大な真鍮製の金庫が鎮座していた。
「……やるわよ」
ニーナは金庫の前に跪き、数種類の解錠工具を広げた。
この金庫は、物理的な多重回転錠に加え、解除の順番を一つでも間違えれば侵入者の四肢を焼き切る「雷撃の術式」が組み込まれている。サナから教わった理論を反芻し、指先に全神経を集中させる。
カチ、と微かな振動が、工具を通じてニーナの指に伝わる。
金庫内部の魔力回路が、侵入者を排除しようと熱を帯びる。その熱を感じ取り、魔力の流れを逸らすように、彼女は細い銀の糸を回路へ割り込ませていく。
一分が、永遠のように感じられた。
額から流れる汗が目に入りそうになるが、瞬きすら許されない。
指先の感覚が研ぎ澄まされ、金庫の内部構造が頭の中に透けて見えるような錯覚。物理と魔導。その境界線にある「正解」の隙間。
(……そこ!)
最後の一押し。指先が僅かな空隙を捉えた瞬間、重厚な真鍮の扉が、肺から空気が漏れるような音を立てて解放された。
扉の奥には、山積みの金貨や宝石があった。だが、ニーナの瞳にはそれらは映らない。
棚の隅、古びた筒の中に収められた、羊皮紙の束。
「西大陸・新航路図」。
これこそが、アッシュを自由にするための翼。リヴォルノという泥沼から抜け出すための唯一の鍵だ。
ニーナは震える手で、その羊皮紙を掴み取った。
勝利の確信。安堵。そしてアッシュへの謝罪。
あらゆる感情が混ざり合い、彼女の頬を涙が伝う。
だが。
「……素晴らしい。リヴォルノのスカウトも、まだ捨てたものではないらしいな」
背後から響いた、氷点下の質量を持つ声。
同時に、執務室内の全魔導灯が、血のような赤色に染まった。
ニーナの背筋を、かつて経験したことのない、生物的な死の予感が駆け抜ける。
指先一つ、瞬き一つすら許されぬほどの圧倒的な重圧。
振り向くことさえできないニーナの視線の先で、金庫の中の金貨が、その主の怒りを反映するように不気味に輝いた。
「……逃がさんよ、ネズミ」
声の主が放つ殺気が、逃走経路のすべてを物理的に「切断」した。
ニーナの絶望は、夜の闇よりも深く、重く、彼女を飲み込んでいった。




