第43話:鉄錆の円形門
「金貨二百二十枚……。これが今、私たちの一万枚を作るための種銭よ」
セーフハウスの地下執務室に戻ったニーナは、机の上に並べた金貨を恨めしそうに睨んでいた。羊皮紙に書かれた目標額「一万枚」と現在の所持金を交互に見比べ、彼女は深い溜息をつく。
「やっぱりギルドの依頼じゃダメ。一ヶ月不眠不休で鼠を駆除したって、一万枚なんてただの夢物語だわ」
「……やはり、そうなりましたか」
書類仕事の手を止め、ルカが静かに眼鏡を押し上げた。その視線はどこか二人を推し量るような色を帯びていた。アッシュは真っ直ぐにルカを見据えた。
「ルカ。あんたが言っていた『現実』はよく分かった。今の俺たちが、この街のルールで一万枚を稼ぐのは不可能だ。……何か、別の方法はないのか」
ルカはしばし沈黙し、手元の羽根ペンを置いた。
「本来なら教えるべきではありませんが……。バルトたちを救ってくれたサービスだと思ってください。リヴォルノには、ギルドのランクなど一切関係ない『稼ぎ場』があります」
ルカは懐から白紙の便箋を取り出すと、淀みのない動作で数行の文面をしたため、レジスタンスの刻印を捺した。
「地下闘技場『鉄錆の円形門』。ここなら、実力次第で一晩にして大金を掴むことも可能です。私が紹介状を書きましょう。これがあれば、素性の知れない鉄ランクでも舞台に上がれます」
「地下闘技場……」
アッシュがその名を呟くと、部屋の隅で欠伸をしていたサナが、ぱっと顔を輝かせた。
「あら、いいじゃない! ちょうど私の書類仕事も片付いたところだし、そこなら私が案内してあげるわ」
サナはアッシュに向かって悪戯っぽくウインクをしてみせる。
「ただし、そこはただの腕自慢が通じる場所じゃないわよ。まずは『三戦』。その三戦を勝ち抜くことが、闘技場への正式登録の条件。負ければ報酬ゼロどころか、命も置いていくことになるわ。……覚悟はいいかしら?」
「ああ」
アッシュの即答に、サナは「ふふ、頼もしいわね」と笑い、腰を上げた。
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西区のさらに地下。排水の腐臭と、観客のどろりとした熱気が渦巻く巨大な石造りの空間。
サナの案内で辿り着いたその場所は、まさに欲望の掃き溜めだった。
「ルカの紹介状があるから、あんたは『特別枠』でのテストマッチ扱いよ。さあ、ニーナ。あんたはこっちで賭けに参加してなさいな」
サナが受付の男に書類を叩きつけながら、ニーナに補足を加える。
「いい? テストマッチは無条件で賭けの倍率は1.5倍までよ。新人の実力を測るための場だから、胴元もリスクは負わない。でも、確実に勝てるなら悪くない数字でしょ?」
「言われなくても全額アッシュにブチ込むわよ!」
ニーナは震える手で、財布の中の金貨をすべて受付へ叩きつけた。一分一秒を争う状況で、アッシュの勝利にすべてを懸ける。それが今の自分にできる、唯一の戦いだと知っていた。
「……おい、ガキ。初めてならルールを叩き込んでやる。よく聞け」
受付の奥から現れた、顔に深い傷跡のある運営の男がアッシュを睨み据えた。
「ルールは単純だ。武器の使用は自由、魔法も制限なし。勝敗は『戦闘不能』か『参った』、あるいは『死亡』で決まる。場外負けはねえが、逃げ出せば観客に殺されると思え。それと、正式登録前のテストマッチ三連戦は、休憩なしの連戦(勝ち抜き)だ。一戦ごとに休憩する時間はねえ。……地獄へようこそ、鉄屑坊や」
アッシュは無言で頷き、闘技場の舞台袖へ向かった。
「第一試合、名もなき『鉄』の挑戦者、入場!」
狂乱した観客の声が降る中、アッシュは石造りの舞台へと足を踏み入れた。
対面には、鉄ランクをなぶり殺すことで悦びを得るという、血生臭い重装戦士が立ち塞がっている。
ニーナは舞台袖で拳を握りしめ、喉が張り裂けんばかりに叫んだ。
「絶対に勝ちなさいよ、アッシュ! 一つも落としたら承知しないんだから!」
一万枚への、最初の一歩。
アッシュの瞳が、獲物を捉える獣のように鋭く光った。
地下競技場「鉄錆の円形門」の空気は、鉄錆と観客が放つどろりとした熱気に満ちていた。
舞台の中央、アッシュの前に立つ重装戦士「バルカス」は、これまで戦ったどんな相手よりも、その立ち姿に隙がなかった。
「おい、小僧。震えて棒立ちか? 無理もねえ、俺の獲物は鉄ランクの頭を何十も叩き潰してきたからな」
バルカスが巨大なメイスを肩に担ぎ、獰猛な笑みを浮かべる。その無駄のない足運び。アッシュは、彼が単なる噛ませ犬ではなく、実力者であることを肌で感じ取った。
「……アッシュ。ねえ、本当に大丈夫なの?」
舞台袖で算盤を握りしめるニーナの声が、不安に震えている。アッシュは一度だけ彼女を振り返り、飾らない本音を口にした。
「ニーナ。あいつは強い。……勝てるかどうかは、やってみないと分からない」
「ちょっと! そんなこと、今言わないでよ!」
ニーナの悲鳴のような叫びを背に、アッシュは黒剣を静かに構えた。
恐怖はない。ただ、じーちゃんの教えにある「強者への敬意」を胸に、最初から全力を以て叩き潰すことだけを思考に刻む。
開戦の鐘が鳴ると同時に、バルカスが地を蹴った。
「重圧撃!」
魔導メイスに刻まれた回路が赤く発光し、大気が爆ぜる。振り下ろされた一撃は石造りの舞台を容易く粉砕し、凄まじい衝撃波がアッシュを襲った。
予備動作を完全に削り、静止状態から一気にトップスピードへ乗る【無歩】を起点にして、アッシュは衝撃波を紙一重で回避し、バルカスの懐へ潜り込んだ。
黒剣を振るうが、バルカスは巨体に似合わぬ反応速度でメイスの柄を盾にし、火花を散らして弾き返した。
「逃がさんぞ、小僧! 噴進連打!」
バルカスの腕の籠手が蒸気を吹き出し、メイスを加速させる。回避不能な密度の連撃に対し、物理法則を無視した軌道で虚像を残して位置をずらす【空蝉(虚像移動)】を繋げ、アッシュは獲物を空振りさせた。
その僅かな間に、アッシュは全神経を研ぎ澄ました。鎧の継ぎ目、バルカスの呼吸の乱れ。最も「響く」急所を【点視】で明確な点として捉える。
「そこだ」
アッシュは着地と同時に踏み込み、黒剣をバルカスの脇腹、装甲の継ぎ目へと突き立てた。
だが、バルカスは自身の身を斬らせることを承知で、強引に腹筋を収縮させて剣先を筋肉で受け止める。致命傷を避ける最小限の刺突に留め、その代償としてアッシュの動きを止め、必殺のメイスを叩き込む隙を強引に作り出した。
「ははは! 捉えたぞ小僧! これで終わりだ!」
バルカスが叫びと共に、メイスを至近距離から振り抜く。
アッシュは回避をするか一瞬迷ったが、間に合わないことを悟り、回避を捨て、【金剛身】を発動しつつ、黒剣の腹をメイスに添えるようにして受け止めた。
思っていた以上に強烈な一撃。全身の骨が軋み、足元の石畳が放射状に割れる。だが、アッシュはじーちゃんの言葉を噛み締めていた。
(くっ……前提を壊せ。相手の力を利用……できないだと!?)
「うおおおおお!」
相手の力が強すぎて反動を利用できない。アッシュは半ば力任せに、黒剣を突き出して【透過撃】を放った。
これだけでは倒した手応えを感じない……さらに、衝撃を一点に収束させて螺旋の穿孔力を生む【穿孔撃】へと繋げ、アッシュは今ある最大火力をバルカスへと叩き込んだ。
「な……にっ!?」
内側から爆ぜるような衝撃に、バルカスの魔導鎧が耐えきれず弾け飛ぶ。
巨躯が舞台に叩きつけられ、沈黙が訪れた。
静まり返った競技場に、アッシュの荒い呼吸だけが響く。
「勝った……? 本当に……勝ったのね、アッシュ!」
ニーナが舞台に駆け上がり、アッシュを抱きしめた。
「……ああ。相手を殺してしまったと思ったけど、生きてるみたいだ」
アッシュは強張った指を解き、ようやく剣を収めた。だが、その表情は勝利の喜びとは程遠い。
「……全く手加減ができなかった。最後は【穿孔撃】まで使わされた。……あいつクラスがゴロゴロいるなら、これからが相当厳しい」
アッシュがポツリと漏らした深刻な言葉に、ニーナの顔がみるみる青ざめていく。
「ちょっと、冗談でしょ……? あんなのが、まだ他にもいるって言うの?」
「……気を引き締めないと。あと一瞬反応が遅れたら死んでたかもしれない」
アッシュの嘘偽りのない言葉に、ニーナは軽くなった金貨の袋を抱えたまま、震える手でアッシュの服をぎゅっと掴んだ。
「ちょっと、あんたたち! 配当金、金貨三百枚超えたわよ!」
サナが観客席の裏から現れた。彼女はその瞳に、単なる驚きではない確信を宿していた。まだ十二歳に過ぎないアッシュの力が、いつかレジスタンスが掲げる自由の旗印になる。その確信が、彼女の内側で熱を帯びていた。
「三百三十枚……! 次も賭けるわよ!」
ニーナはアッシュを抱きしめていた腕を放すと、弾かれたように受付の窓口へと走り出した。足元に転がるバルカスの魔導鎧の破片を飛び越え、息を切らして運営の男に札を叩きつける。
「運営! 今の配当、全部そのまま次の一戦に突っ込みなさい! アッシュの勝利よ、全額よ!」
「おいおい、お嬢ちゃん。次は『結界術師のエルマン』だぞ。鉄ランクのガキが運良く一勝したからって、欲をかくと死ぬぜ」
「うるさいわね! あんたは黙って札を出せばいいのよ!」
ニーナは男の忠告を怒鳴り声で遮り、アッシュに視線を送った。手元の羊皮紙には、三百三十枚に一・五倍の倍率を掛けた「四百九十五」という数字を殴り書きする。一分一秒を争う狂乱の合間、彼女の指先は震えていたが、その瞳にはアッシュへの絶対的な信頼が宿っていた。
だが、余韻に浸る時間は与えられない。
無情な鐘の音が響き渡り、運営の男の声が会場に轟いた。
「余韻はそこまでだ。……第二試合、始めるぞ。付き添いは下がれ! 挑戦者アッシュ、舞台中央へ!」
「えっ、ちょっと待って! まだアッシュは肩で息をしてるのよ!?」
ニーナの抗議も虚しく、舞台の反対側の鉄格子が重々しい音を立てて跳ね上がる。そこから現れたのは、バルカスのような剛腕ではない。
全身を幾重もの奇妙な術式が刻まれた布で覆い、手には不気味な鈍色に光る魔導杖を携えた男――「結界術師のエルマン」が、音もなく滑るような足取りで舞台へと姿を現した。
アッシュは荒い呼気を吐き出し、強引に肺に酸素を取り込む。バルカス戦で消耗した体力が、鉛のように重くのしかかる。
(休憩なしの連戦……。じーちゃん、戦いは常にフェアじゃないって言ってたけど……これはさすがに堪えるな)
アッシュは再び黒剣の柄を握りしめ、視界を研ぎ澄ませた。
一万枚への道は、まだ始まったばかりだ。




