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リミットオリジン ―凡人と言われた俺が最強にたどり着くまで―  作者: みみたん
第3章:自由の港・潜蝕編

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第40話:セーフハウスの番人

 リヴォルノの朝は、暴力的なまでの白銀に支配されていた。


 磨き上げられた大理石の街並みが、昇ったばかりの陽光を容赦なく照り返す。そんな眩い光の中でも、アッシュの日課が変わることはない。


 宿の裏手、建物の長い影が落ちる狭い石畳の上で、アッシュは無心に黒剣を振り抜いていた。じーちゃんに叩き込まれた日課、千回の素振り。一振りごとに空気が圧縮され、爆ぜるような鋭い風切り音が石壁に反響する。


 九百九十八、九百九十九、――千。


 最後の一振り。剣先は産毛一本分の狂いもなく、空間を貫いて静止した。

 アッシュは静かに身体の芯を確かめた。筋肉が鋼のように引き締まり、肉体が心地よい熱を帯びている。ゼノスの教えが血肉となり、かつてよりも遥かに高い精度で自身の身体を支配できている実感が通っていた。


 一度部屋に戻ったアッシュは、冷たい水で汗を流した。火照った肌を伝う水滴が、引き締まった体を滑り落ちる。濡れた髪を無造作に拭い、旅装に袖を通すと、最後に愛剣を背負い直す。鏡に映る自分を一度だけ見据え、乱れがないかを確認した。


---


 「まったく、相変わらずね……。こんな朝から、よくやるわ」


 身支度を終え、ロビーへ降りたアッシュを待っていたのは、ニーナの呆れた、けれどどこか安心したような声だった。彼女は眩しそうに目を細め、すでに準備を整えてアッシュの方へ歩み寄ってくる。


 「日課だから。じーちゃんが言っていた。『朝の汗を惜しむ者は、夕暮れの血を流すことになる。今日の一振りが、明日の命を繋ぐ糸になる』って」


 「はいはい、その『じーちゃんの格言集』、いつか本にするべきね。さあ、行くわよ。サナとの約束の時間、遅れたら何を言われるかわかったもんじゃないわ」


 アッシュは頷き、ニーナと共に宿を出た。

 華やかな表通りを抜け、潮風に焼けて煤けた建物が目立つ西区南部へと足を踏み入れる。影が濃くなるにつれ、大理石の輝きは失われ、代わりに鉄と錆、そして貧困と暴力の風景が目立つようになってきた。リヴォルノという街が飲み込んだ「影」が、路地の奥から這い出してくるような感覚だ。


 目的地は、入り組んだ路地の突き当たりにある、何の変哲もない三階建ての石造りの建物だった。一階には寂れた荷受窓口があり、その上階は労働者向けの安普請やすぶしんな住居になっている。どこにでもある、街の風景に埋没したありふれた建物だ。


 その時だ。鉄の匂いと潮風を切り裂くような、強烈で甘い花の芳香がアッシュの鼻腔を突いた。


 「えっ! ちょっと、もう来たの!?」


 背後の影から、赤い火花が散るようにしなやかに飛び出してきたのは、サナだった。

 褐色の肌に燃えるような赤い髪。彼女は信じられないものを見るような目でアッシュを見つめていたが、その視線が隣に立つニーナへと移った瞬間、わずかにその眉が跳ね上がった。


 「……あら。ニーナ、あなたもいたのね。正直、もう来ないと思ってたわ」


 「なによ、それ。あたしを誰だと思ってるのよ。アッシュには、あたしがいなきゃダメなんだから」


 ニーナがムッとしたように、けれどどこか誇らしげに言い返すと、サナは一度だけ目を丸くし、それから可笑しそうに肩を揺らして笑った。


 「いいえ、最高よ。カナンで別れる時に『案外、この子なら地獄まで付いていくかも』って予感はしてたけど……。打算的で賢いあなたが、これほど分の悪い賭けを続けているなんて。やっぱり相棒パートナーってわけ? それとも、ただの執着?」


 「……うるさいわね。ここで立ち話をするのがレジスタンスの流儀なの?」


 ニーナが顔を背けるのを見て、サナは「納得したわ。覚悟を決めた女の顔ね」と独り言ちると、すぐにその唇を艶めかしく吊り上げ、アッシュへと向き直った。


 「それにしてもアッシュ、どんなルートでリヴォルノに来たの? いくらなんでも早すぎるわよ」


 「普通に来ただけだ。それよりサナ、西の大陸に行くルートは知っているか?」


 アッシュが淡々と、一切の世間話を拒絶するように本題を切り出すと、サナは一瞬だけ呆気に取られた。だが、すぐに面白そうな笑みを浮かべ、猫のように音もなく距離を詰めると、アッシュの鼻先に顔を寄せた。


 「相変わらずね、あなたは……。西の大陸ね。そういう無謀なところ、嫌いじゃないわよ」


 翻弄するような芳香が漂い、サナの手が吸い込まれるようにアッシュの胸元へ伸びる。鍛え上げられた胸筋の感獲を、まるで品定めするかのように、その指先が薄い布越しに遊ぶ。


 「そこまでよ、サナ! 気安く触るなって言ったでしょ!」


 その指がさらに滑り込むより早く、ニーナが二人の間に割って入った。サナの手を力尽くで引き剥がすようにして、アッシュを自分の背後に押し込む。


 「あら、怖い。ニーナ、独占欲が強すぎると男は逃げちゃうわよ? でも……アッシュ、少し見ない間に随分とたくましくなったわね。お姉さんがじっくり、その『成長』を確かめてあげましょうか?」


 サナはわざとらしく腰を捻り、薄着の胸元を強調するような挑発的なポーズをとった。それは男を惑わすための武器としての色香だ。


 「なっ……! アッシュ、見ちゃダメ! こっち向きなさい!」


 ニーナが悲鳴を上げ、アッシュの両頬を強引に掴んで自分の方へと向けさせた。至近距離でニーナの必死で赤い顔を見つめることになったアッシュは、抵抗することもなく、ただ静かに彼女の手に身を任せている。


 「ふふ、ご馳走様。……いいわ、西の大陸へ渡りたいっていうなら、現実を教えてあげる。ついてきなさい」


 サナは翻る髪をなびかせ、建物の奥へと二人を導いた。

 薄暗い階段を下り、セーフハウスの地下へ向かう。湿った空気と古いインクの匂いが漂う一室に入ると、そこには先客がいた。


 部屋の隅、無造作に積み上げられた書類の山に囲まれた机で、一人の青年が羽根ペンを走らせていた。痩身で、神経質そうな銀縁のメガネをかけている。およそ戦場とは無縁そうな、どこかの書記官か学者のような風貌だ。


 「……サナ、客人ですか」


 青年は顔を上げず、冷徹な声で問いかけた。その指先が止まり、ゆっくりとメガネを押し上げる。その一瞬の動作に、アッシュの背筋にわずかな寒気が走った。

 (……こいつ、隙がない)

 見た目は弱々しい。だが、その身体の使い方は紛れもなく「一線」を越えた者のそれだ。頭脳系と見せかけて、その内側には研ぎ澄まされた刃のような凄みが潜んでいる。


 「ええ。カナンで大立ち回りを演じた、噂のアッシュよ。……西の大大陸に行きたいらしいの。どうやったら行けるかしら」


 サナの紹介に、青年はようやくアッシュを真正面から見据えた。


 「なるほど。サナ、彼らが西へ行きたいという件、具体的な数字を出しておきますか?」


 「お願い、ルカ」


 ルカと呼ばれたメガネの青年は、手元の帳簿をパタンと閉じると、無機質な視線をアッシュとニーナに投げた。


 「西への渡航費……我々が用意できる密航ルートと偽造身分証一式。カナンでの作戦、君が前面に立ってバルトたちやカナン族を救ったという実績……それらを加味して、かなり勉強した価格に設定しました。――金貨一万枚。二人分、一括払いです」


 「い、一万枚……!?」


 ニーナが絶叫した。その声が地下室の壁に虚しく反響する。

 懐の財布にあるのは金貨十二枚。リヴォルノの豪華な食事数回分で消えてしまう額だ。一万枚。それは鉄ランクの冒険者が一生かかっても届かないほどの絶望的な数字だった。


 「……一万枚。リカームで1日中、魔獣を狩ったときで十枚だったな」


 「それが現実です。西の大陸へ渡るための『自由』の対価ですよ」


 ルカが淡々と告げると、サナがその肩に手を置いて、楽しそうに会話を引き取った。


 「でもねアッシュ。あなたなら、もっと手っ取り早い支払い方法があるわ」


 サナの瞳が、獲物を仕留める直前の肉食獣のように鋭く細められた。


 「一ヶ月後、あたしたちはこの街のアイゼン軍を攻撃する。その日はリヴォルノ最大の競売船『万貨の方舟』で大規模なオークションが行われる日よ。あなたたちがその会場で、軍の目を釘付けにするほどのド派手な『陽動』を引き受けてくれるなら。……渡航の手配、全部タダで引き受けてあげる。……どうする、アッシュ?」


 サナの言葉が、冷たく暗い地下室の空気を凍らせた。

 ニーナは言葉を失い、ただアッシュの背中を見つめることしかできなかった。

 (また……。またこんな、命を削るような危ない橋を渡らなきゃいけないの……?)


 カナンでの激闘が、昨日のことのように脳裏をよぎる。あの死線。アッシュが血を流し、恐怖に震えたあの日々。やっと辿り着いた希望の港で突きつけられたのは、さらなる戦場の招待状だった。


 断れば一万枚という、逆立ちしても届かない巨額。受ければ軍との衝突。どちらを選んでも、待っているのは平穏とは程遠い道。ニーナは喉まで出かけた不安を無理やり飲み下した。アッシュが決めることだ。そう自分に言い聞かせても、不安は止まらない。平穏な旅なんて、最初からこの不器用な相棒には似合わないのかもしれない……そんな絶望に近い諦めと、彼を独りで戦わせたくないという意地が、ニーナの心の中で激しくせめぎ合っていた。


 一方、アッシュは無言で考え込んだ。

 一万枚という数字。それは単なる金額ではなく、彼に突きつけられた「時間」そのものだった。

 (魔獣を狩り続けて一万枚を貯めるのに、あと何年かかる……? その間にも、じーちゃんを助けに行く時間はさらに延びていくのか……?)

 焦燥が胸の奥で静かに、けれど熱くなる。一万枚の金貨を稼ぐ年月と、軍という巨大な暴力に身を投じる一瞬。天秤にかけるまでもない。ゼノスの真意を知るために、そして未だ連邦と戦ってるはずの彼を救出するために、今の自分に足を止めている暇はなかった。

 (選択肢はあるようで、最初から俺にはないのかもしれない……)

 どちらが「安い」のか。今の彼には、その答えが死地の中にしかないことを、本能が悟っていた。


 地下室を支配する沈黙。

 止まることのない時間の刻みが、彼らに突きつけられた世界の壁の厚さを、静かに告げ、悩む時間なんてそれほど残されていないことを無意識に感じる二人であった。

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