第4話:未熟な守護、嵐の前の静寂
稽古を一方的に打ち切られたその夜、東の淵は不気味なほどに静まり返っていた。
小屋の外、魔気の霧が地表を這う僅かな燐光だけが照らす広場で、アッシュは一人、木刀を振りぬいていた。
シュッ、と鋭い風切り音が夜の静寂を裂く。
腕は鉛のように重く、手の平の皮は剥け、血が滲んでいる。それでもアッシュは、ゼノスに叩き込まれたあの厳しい型を、必死になぞり続けていた。
(分かってるんだ、じーちゃん。俺に才能がないなんて、本気で思ってないことくらい)
アッシュは唇を噛み締める。
突き放すような言葉。冷たい眼差し。けれど、その奥に潜む何かを、アッシュは12年という月日の中で、誰よりも近くで感じ取ってきた。
「見てろよ。俺、もっともっと強くなって、いつかあんたの隣に立ってやるんだ」
闇に向かって放った一撃。それが空気を震わせた瞬間、背後から低い声が響いた。
「…夜風に当たるのも大概にしろ。馬鹿が風邪を引けば、薬代の無駄だ」
振り返ると、小屋の入り口にゼノスが立っていた。
いつもなら「まだ腰が高い」と罵倒が飛ぶはずの場面。だが、焚き火の残光に照らされたゼノスは、ただ黙ってアッシュを見つめていた。
「じーちゃん! まだ寝てなかったの? 俺、さっきの振り、結構――」
「…もうよい。小屋に入れ」
ゼノスはそれだけ言うと、背を向けて暖炉の火を見つめた。
アッシュは少しだけ肩を落とし、泥を払って小屋に入る。焚き火の爆ぜる音だけが、二人の間の沈黙を埋めていた。
「ねぇ、じーちゃん」
「なんだ」
「俺、いつかじーちゃんが動けなくなったら、俺がじーちゃんを守るから。だから、あんまり一人で背負い込まないでよ」
アッシュの真っ直ぐな言葉が、狭い小屋の中に響く。
ゼノスは一瞬、肩を微かに震わせた。だが、振り返ることはなかった。
「…寝言は寝て言え。わしを守るだと? 笑わせるな」
ゼノスは立ち上がり、乱暴にアッシュの頭を一度だけ撫でまわすと、そのまま奥の作業場へと歩き出した。
「…明日の朝飯は、お前が焼け。わしは少し、長く寝るつもりだ」
「えっ、じーちゃんが朝寝坊? 珍しいこともあるもんだね。わかった、美味いパンを焼いてやるよ!」
アッシュは嬉しそうに笑い、自分の寝床へと潜り込んだ。
「明日は俺がしっかりしなきゃ」という、小さな決意を胸に。
一方、作業場の薄暗い灯りの下。
ゼノスは、アッシュには決して見せない黒銀の剣を、ただ静かに、研ぎ澄ましていた。
(…守る、か。お前がそう言ってくれるだけで、この12年は無駄ではなかった)
窓の外。厚い雲の隙間を、銀色に輝くアイゼンの先行偵察機が、獲物を見つけた鷹のように旋回している。
(…もうそろそろ、この淵は終わる。だがアッシュ、お前だけは何があっても死なせん。必ず、生きてここから逃がしてやる)
ゼノスは砥石を置き、深く、重い吐息を漏らした。
それが、嵐の前の、最後の藍色の静寂だった。




