第3話:銀の凶兆、老兵の仮面
東の淵の空を、銀色の尾を引く偵察機が横切る回数が増えていた。
藍色の霧に閉ざされた常夜の空を切り裂く、不快な駆動音。それは静寂を削り取る死神の足音だ。ゼノスには、その機体が放つ冷たい魔力の波動が、自分の首筋をなぞる剃刀のように感じられた。
「……何をしている。足が止まっているぞ!」
ゼノスの叱咤が、かつてないほど鋭く飛ぶ。
泥に塗れ、肩で息をするアッシュの姿。これまでのゼノスなら、ここで一度手を止め、不器用ながらも「水の飲み方」や「重心の置き方」を説いたはずだ。
(……やめろ。そんな目で俺を見るな。その『型』を、これ以上磨き上げるな)
アッシュは泥を拭い、何度も立ち上がる。
その瞳に宿るのは、折れない意志。
「……っ、もう一回だ。じーちゃん、今の俺、少しはマシだっただろ!?」
そう言って不敵に笑うアッシュ。その「真っ直ぐさ」――ゼノスが12年かけて守り、育んできたその魂の輝きが、今のゼノスには何よりも恐ろしい毒だった。
「……目障りだ。お前のような凡人が、俺の技を盗めると思うな。これ以上は時間の無駄だ」
わざと吐き捨てるように言い、稽古を切り上げて背を向ける。
アッシュは驚愕に目を見開いた。「……えっ? 待てよ! 俺、まだやれるって! じーちゃん!」
ゼノスは足を止めなかった。そのまま、逃げるように小屋の裏手へと姿を消す。
――小屋の影。
アッシュから見えないその場所で、ゼノスは壁に背を預け、ずるずると崩れ落ちた。
アッシュの言葉を跳ね除けた自分の掌が、制御不能なほどにガタガタと震えている。
(……すまない、アッシュ。お前のその強さが、今は何よりも辛い……!)
ゼノスは、ひび割れた拳を血が滲むほど噛み締めた。
共に笑い、共に黄金の鹿を食らい、不器用ながらも積み上げてきた「家族」としての時間を、今、自分の手で汚している。
(俺を恨め。俺を無能な老いぼれだと思え。……そうでなければ、お前はここから逃げられない)
ふと視線を西へと向ける。そこにはただ、どこまでも重苦しい藍色の闇が横たわっているだけだ。太陽など、この淵に来てから一度も拝んだことはない。
だが、この深い霧の向こう側――アッシュ送り出さねばならない「外の世界」には、燃えるような夕陽が、そしてこの子が本来受けるべきだった「母の愛」があるはずだった。
自分のような、血の臭いのする老兵ではなく、穏やかな光の中に、この子を返さなければならない。
(あいつらに見つかる前に。俺が、俺のすべてを使い切って、お前を『光』へ放り投げてやる)
ゼノスは震える手で、懐の酒瓶を煽った。
苦い酒が喉を焼く。
明日もまた、彼は「冷酷な祖父」という仮面を被り、最愛の孫の期待を裏切り続けるだろう。
アッシュがアビスの地を去る際、名残惜しいなどと思わぬように…。
それが、この老兵に残された唯一の、そして最後の「守り方」だった。




