第2話:銀の凶兆
アビス(東の淵)の空を、銀色の尾を引く偵察機が横切る回数が増えていた。
澱んだ紫の霧に閉ざされた常夜の空を切り裂く不快な駆動音が、アビスの静寂を切り裂いていく。
小屋の影でそれを見上げるゼノスには、その機体が放つ冷たい魔力の波動が、自分の首筋をなぞる剃刀のように感じられた。
「……何をしている。足が止まっているぞ!」
ゼノスの叱咤が、かつてないほど鋭く飛ぶ。
泥に塗れ、肩で息をするアッシュの姿。これまでのゼノスなら、ここで一度手を止め、不器用ながらも「水の飲み方」や「重心の置き方」を説いたはずだ。
(……やめろ。そんな目でわしを見るな。その『型』を、これ以上磨き上げるな)
アッシュは泥を拭い、何度も立ち上がる。
その瞳に宿るのは、折れない意志。
「……っ、もう一回だ。じーちゃん、今の俺、少しはマシだっただろ!?」
そう言って不敵に笑うアッシュ。
その真っ直ぐさが、今のゼノスには眩しすぎた。
この子が強くなればなるほど、戦いの中へ引きずり込まれる。
「……目障りだ。お前のような凡人が、わしの技を盗めると思うな。これ以上は時間の無駄だ」
わざと吐き捨てるように言い、稽古を切り上げて背を向ける。
アッシュは驚愕に目を見開いた。
「……えっ? 待てよ! 俺、まだやれるって! じーちゃん!」
ゼノスは足を止めなかった。そのまま、逃げるように小屋の裏手へと姿を消す。
アッシュから見えないその場所で、ゼノスは壁に背を預け、ずるずると崩れ落ちた。
アッシュの言葉を跳ね除けた自分の手のひらが、制御不能なほどにガタガタと震えている。
(……すまない、アッシュ。お前のその強さが、今は何よりも辛い……!)
ゼノスは、ひび割れた拳を血が滲むほど噛み締めた。
共に笑い、共に黄金の鹿を食らい、積み上げてきた「家族」としての時間を、今、自分の手で汚している。
(わしを恨め。わしを無能な老いぼれだと思え。……そうでなければ、お前はここから逃げられない)
ふと視線を西へと向ける。そこにはただ、どこまでも重苦しい闇が横たわっているだけだ。
だが、この深い霧の向こう側――アッシュを送り出さねばならない「外の世界」には、いつか彼が話した眩い光があるはずだった。
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稽古を一方的に打ち切られたその夜、アビスは不気味なほどに静まり返っていた。
小屋の外、魔気の霧が地表を這う僅かな燐光だけが照らす広場で、アッシュは一人、木刀を振りぬいていた。
シュッ、と鋭い風切り音が夜の静寂を裂く。
腕は鉛のように重く、手の平の皮は剥け、血が滲んでいる。それでもアッシュは、ゼノスに叩き込まれたあの厳しい型を、必死になぞり続けていた。
(分かってるんだ、じーちゃん。俺に才能がないなんて、本気で思ってないことくらい)
アッシュは唇を噛み締める。
突き放すような言葉。冷たい眼差し。けれど、その奥に潜む「震え」を、アッシュは誰よりも近くで感じ取ってきた。
じーちゃんは、何かを怖がっている。
なら、俺がその恐怖を斬り捨てられるくらい、強くなればいい。
「見てろよ。俺、もっともっと強くなって、いつかじーちゃんの隣に立ってやるんだ」
闇に向かって放った一撃。それが空気を震わせた瞬間、背後から低い声が響いた。
「……夜風に当たるのも大概にしろ。馬鹿が風邪を引けば、薬の無駄だ」
振り返ると、小屋の入り口にゼノスが立っていた。
焚き火の残光に照らされたその影は、いつになく小さく、脆く見えた。
「じーちゃん! まだ寝てなかったの? 俺、さっきの振り、結構――」
「……もうよい。小屋に入れ」
アッシュは少しだけ肩を落とし、泥を払って小屋に入る。
焚き火の爆ぜる音だけが、二人の間の沈黙を埋めていた。
「ねぇ、じーちゃん」
「なんだ」
「俺、いつかじーちゃんが動けなくなったら、俺がじーちゃんを守るから。だから、あんまり一人で背負い込まないでよ」
ゼノスは答えなかった。
ただ、焚き火の向こうで、握り締めていた拳だけが微かに緩む。
守れなかった。
息子も、家族も、自分の誇りさえも。
そんな男に向かって、この少年は迷いなく「守る」と言ったのだ。
――まるで、救う側の人間であるかのように。
「……寝言は寝て言え。わしを守るだと? 笑わせるな」
ゼノスは立ち上がり、乱暴にアッシュの頭を一度だけ撫でまわすと、そのまま奥の作業場へと歩き出した。
「……明日の朝飯は、お前が焼け。わしは少し、長く寝るつもりだ」
「えっ、じーちゃんが朝寝坊? 珍しいこともあるもんだね。わかった、美味いパンを焼いてやるよ!」
アッシュは嬉しそうに笑い、自分の寝床へと潜り込んだ。
じーちゃんの不器用な手の温もりを、決意の糧にして。
一方、作業場の薄暗い灯りの下。
ゼノスは、アッシュには決して見せない黒銀の剣を、ただ静かに、研ぎ澄ましていた。
砥石と鋼が擦れ合う、冷たく、無機質な音。
(……アッシュの成長速度は、もはや異常だ)
ゼノスは砥石を動かす手を止め、己の掌を見つめた。
今日のアッシュが放った一撃。
粗削りだ。隙も多い。技としては未完成もいいところだ。
だが。あの踏み込みの鋭さ。
獲物の急所だけを無意識に射抜こうとする、あの異様な感覚。
ゼノスは知っている。
あれは、努力だけでは決して辿り着けない領域だ。
(……似すぎている)
脳裏に浮かぶのは、かつて誰よりも誇りに思った、己の息子の背中。
(やめろ……それ以上、強くなるな)
教えれば教えるほど、アッシュはそれを砂が水を吸い込むように己のものにしていく。
剣の師としては歓喜していた。だが祖父としては違った。
(このままでは、アイゼンが放っておくはずがない。あの鉄の化け物どもが、この才能を見逃すはずがないのだ)
アッシュの「才能」は、この平穏な日常を焼き払う火種でしかない。
ゼノスは懐から、古びた、しかし手入れの行き届いた「もう片方の目貫」を取り出し、じっと見つめる。
(……守る、か。お前がそう言ってくれるだけで、この十二年は無駄ではなかった)
窓の外。厚い雲の隙間を、不気味な銀光を放つ偵察機が、獲物を見つけた鷹のように旋回している。
(……もうそろそろ、この淵は終わる。だがアッシュ、お前だけは何があっても死なせん。必ず、生きてここから逃がしてやる)
ゼノスは砥石を置き、深く、重い吐息を漏らした。
それが、嵐の前の、最後の静寂だった。




