第1話:泥を啜る「凡人」の虚構
東の淵の朝は、常に肺を刺すような冷気と共に訪れる。
まだ星が僅かに残る薄闇の中、アッシュは咆哮を上げる巨大なボアの懐へ、泥を蹴って突っ込んだ。
ボアの鋭い牙が空を切り、アッシュの頬を掠める。ひるむことなく死角へ潜り込み、逆手に持ったナイフを獣の喉元へ叩き込む。噴き上がる熱い返り血を浴びながら、全体重を乗せて一気に引き抜く。200キロを超える巨体が、ズシンと地響きを立てて沈黙した。
アッシュは荒い呼吸のまま、獲物の足を掴み、広場へと引きずっていく。
「……11歳でボアを狩るか。大したもんだ」
小屋の前の切り株に腰掛けたゼノスが、湯気の立つ木杯を置いて低く呟いた。
アッシュがパッと顔を輝かせた瞬間、ゼノスは無言で立ち上がり、ひらひらと手招きをした。
「……ッ、いくよ、じーちゃん!」
アッシュは傍らにあった木刀をひったくるように構えると、ボアを仕留めた勢いのまま、ゼノスの脳天を目がけて鋭く斬りかかった。
必殺の一撃。
だが、木刀がゼノスの髪を掠めた――と思った瞬間、世界が反転した。
「……っ、あ……!」
衝撃も、痛みもない。
ただ、気づいた時には、アッシュは冷たい泥の上に大の字になって転がっていた。
何をされたのか、全く分からない。ただ、自分の放った全力が、何者にも触れずに空を切ったことだけが、奇妙な残響として脳裏に焼き付いている。
「慢心してはならんぞ。本物の戦場にいる連中は、今のボアなど比較にならん。……飯にするぞ。食ったら今日の分の打ち込みだ」
ゼノスは無造作に背を向け、小屋へと歩き出した。
その後ろ姿を見送るアッシュの瞳には、落胆ではなく、深い感嘆と興奮の色が宿っていた。
(……やっぱり、じーちゃんはすげーや。ボアを倒したくらいじゃ、足元にも及ばないんだな)
アッシュは痺れる右手を握りしめ、立ち上がる。
飯を食った後の修行では、さっきの「反転」の正体を暴いてやる。もっと厳しく、もっと速く。じーちゃんの背中に少しでも近づけるなら、どんな特訓だって耐えてみせる。
「待ってよ、じーちゃん! 今日のスープ、俺が手伝うから! そのあと、さっきのやつもう一回やってよ!」
泥だらけの少年は、獲物の解体も忘れて、憧れの背中を追って小屋へと駆け込んだ。
小説初心者です。
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