第38話:港湾都市への門
徴税吏たちを追い払い、村人たちの歓声が遠ざかる。
村の外れ、雨を凌げる大岩の陰で、アッシュとニーナは三日ぶりの火を囲んでいた。
パチパチとはぜる薪の音と、岩を叩く重い雨音だけが周囲を支配している。
「……ニーナ。三日間も寝てないのか」
アッシュが差し出した干し肉を、ニーナは礼を言って受け取り、小さく口に運んだ。男装をやめ、郷の旅装を纏った彼女の姿は、雨に降られながらも、どこか凛とした気品を失っていなかった。だが、その目の下には隠しきれない濃い隈が浮かび、唇も寒さで僅かに震えている。
「当たり前でしょ。あんたが郷を抜けた数時間後には、あたしも荷物をまとめて飛び出したんだから。……あんたの歩調に気づかれないよう距離を保ちながら、この雨の中を追うのがどれだけ骨が折れたか、想像つく? あんた、出会った時はあんなに慎重だったのに、追ってる間は意外と後ろを警戒しないんだもの。……本当に、心配で仕方がなかったんだから」
「……『聞き分けのいい相棒になってあげる』と言っていたじゃないか。だから、俺の意思を尊重して、里に残ってくれたものだと思っていた」
アッシュの言葉に、ニーナは自嘲気味に、しかし力強く首を振った。
「あれは、あんたを安心させて、無防備に送り出すための嘘。……あんたが『ここに残れ』と、あたしの身を案じて言ってくれたのは分かっているわ。あたしの安全を第一に考えてくれたことも。でもね、アッシュ。里で私たちの前であの『鍵』を見せたあの時……あんたの瞳、見てられなかった。まるで自分一人で世界の重荷を背負って、誰もいない死に場所を探しに行くような……そんな、酷く孤独な目をしてた。あんたを一人にしたら、ああやって真っ向から世界を敵に回して、誰にも知られずボロボロになって消えていく……。そんなの、あたしが耐えられるわけないじゃない」
ニーナは膝を抱え、焚き火の光をその大きな瞳に反射させた。
「嘘をついて追ってきたのはごめん。……でも、やっぱりあたしはあんたと西へ行きたいの。お父さんから押し付けられそうになった、あの退屈で窮屈な『平穏な未来』なんて、あたしには耐えられなかった。例えカナンという故郷を捨てて、お父さんに背く大罪人になったとしても、これがあたしの選んだ道。あんたの隣で、あんたが向かう先を共に見ること……それが、今のあたしの生きる意味なのよ」
アッシュは、じっと焚き火の揺らめきを見つめた。
自分が「優しさ」や「保護」のつもりで彼女を切り離そうとしたことが、ニーナにとっては自身の誇りと存在意義を真っ向から否定されるような、鋭い痛みだったのだとようやく理解する。
「……里に残れば、お前は族長の娘として、誰からも尊敬されながら平穏に暮らせたはずだ。俺と一緒に来れば、連邦という巨大な帝国を敵に回すことになる。今日助けたあの村のように、理不尽な暴力と泥に塗れた場所ばかりを歩くことになるぞ。……それでも、後悔してないか」
「平穏なんて、あんたのいない場所にはどこにもなかったわよ。それに、あんたが森の中で奴隷狩りの分隊から助け出したっていう、あの子たちに会ったわ。……あんた、あんな連中相手にまで剣を抜かず、殺さずに追い払ったんですってね。その甘さがどれだけ自分を追い詰めることになるか、おじいちゃんに教わらなかったの?」
ニーナの目が、諭すような、そして深い危惧を込めた鋭さを帯びる。
「あの時は運良く子供たちも無事だったけど、もし連邦が執念深く追撃を送ってきてたら? 今日の村の徴税吏だって、あんたが鞘で叩き伏せるだけで済ませたから、あいつらはまた兵を連れて戻ってくるかもしれない。……あんたが一人でその重すぎる『覚悟』を抱えたまま、そんな甘い真似を続けてたら、西に着く前に首がいくつあっても足りないわ。あんたの道はまだ終わってないのよ? 非情な決断も持ちなさいよ」
アッシュは返す言葉もなく、黙って焚き火を見つめ続けた。
アビスの弱肉強食とは違う、人の世の複雑な悪意。アッシュには、それを正しく捌くための「ずる賢さ」も「冷徹さ」も、あまりに欠落していた。自分の行動の端々に、ニーナの目から見れば今すぐ命を落としかねないほどの「世間知らず」が露呈していたのだ。
「……悪かった。認めざるを得ない。俺には、相手を欺くポーカーフェイスも、世間一般の常識も、この世界を渡るための要領も足りない。……俺には、俺の隣には、お前がいないとダメみたいだ」
「今更気づくなんて、本当に救いようのないバカね、アッシュ」
アッシュの不器用で真っ直ぐな謝罪を聞いて、ニーナは少しだけ表情を和らげ、焚き火の温もりに身を預けた。
そこに、アッシュが視線を火の粉の行方へと逸らしながら、ポツリと独り言のように言葉を零した。
「……それと。一人は、思った以上に耳障りだった」
「え? なに? 雨の音でよく聞こえなかったわ。なんて言ったの?」
「……一人の行軍は、あまりに静かすぎて耳が痛かったんだ。……ニーナの喋り声が聞こえないと、どうにも落ち着かなかった」
それは、感情を露わにすることが少ないアッシュが、人生で初めて口にしたかもしれない率直な「寂しさ」の告白だった。
ニーナは一瞬、言葉を失ってびっくりした顔で固まった。そして次の瞬間、その白い肌が耳の付け根まで一気に真っ赤に染まっていく。
「……へ、へぇーーー? あんた、あたしがいなくて寂しかったんだ? あの、無愛想なアッシュが? ふーーーん、そうなんだぁ。あたしの声がないと、落ち着かないんだぁ……」
それまでの凛とした険しい表情はどこへやら、ニーナの口角がこれでもかというほどだらしなく吊り上がっていく。
「ちょっと、そんな顔でニヤニヤするな。……ほら、冷める前に飯を食え」
「ニヤニヤしてないわよ! あたしがいないと、あんたは一歩もまともに歩けないって白状したのよね。いやー、雨の中を三日三晩不眠不休で追ってきた甲斐があったわ。今の、もう一回言ってくれない? 寂しかったって」
「……言わない。二度と言わないからな」
アッシュは気まずさに耐えかねたように、乱暴に顔を背けた。しかしニーナはそんな彼の反応すら楽しむように、鼻歌を歌わんばかりの上機嫌で、受け取った干し肉を大切そうに頬張り始めた。
二人の間に三日間横たわっていた重苦しい壁が、焚き火の熱に当てられて、完全に溶けて消えていった。
「……ねえ、ところで。大事なことを聞くのを忘れてたわ。あんた、里を出る前の晩にサナと何を話していたの? あたし、自分の部屋に戻る途中にあんたたちがコソコソしてるの、ちゃんと見てたんだからね。月明かりに照らされて、いい雰囲気だったじゃない」
唐突な、しかし逃げ場のない問いに、アッシュは少し面食らって言葉を詰まらせた。
「サナと……? ああ、あの日か。正式にレジスタンスに入らないかと熱心に誘われただけだ。……当然、即座に断った。俺の目的は、じーちゃんに言われた通り西にある。あいつらの抗争に肩入れするつもりはない」
「……そう。本当にそれだけ? 他に何か渡されたり、約束したりしてないでしょうね?」
「それだけだ。……それより、お前こそなんでサナと一緒にいたことをそこまで執拗に気にするんだ?」
「え、あ、それは……相棒として! あんたみたいな純真な奴が変な女に騙されて、いいように利用されてないか心配なだけよ! 別にあたしが個人的に嫉妬してるとか、そんな安い感情じゃないからね! 勘違いしないでよ!」
ニーナは少し慌てたように、雨に濡れた長い髪を指先でいじりながら、あからさまに視線を逸らした。あの日、サナからリヴォルノでの秘密の連絡先を渡されたのを見て、内心穏やかではなかったことを、彼女は必死に隠そうとしている。アッシュは、彼女が背を向けていた時も、実は自分をずっと案じて、そして見守っていたのだという事実をあえて追求せず、ただ静かに夜気を感じていた。
「それにしてもアッシュ、あんた本当に危なっかしいわ。……街道の大きな関所のこと、子供たちから詳しく聞かなかったの? アイゼン連邦が最新鋭の戦力をつぎ込んだ新しい検問ができて、『黒い大きな機械の化け物』が、通行人を一人残らず徹底的に調べてるって話」
ニーナの問いに、アッシュは焚き火に太い枝を放り込み、事もなげに淡々と答えた。
「聞いた。……だから、この先でそいつにぶつかったら、正面からすべて粉砕するつもりだった。少し手間はかかるだろうが、俺の剣で通れない場所はないはずだ」
「……はぁ!? あんた、本気でそんな無茶苦茶を言ってるの?」
ニーナは信じられないものを見る目で、マジマジとアッシュの横顔を凝視した。
「今の連邦と正面衝突して、リヴォルノに入る前に全世界から指名手配にでもなるつもり!? これだから『常識知らずの脳筋』は困るのよ……。いい? 確かにあんたの腕なら勝てるかもしれない。でも、西への旅は目立たず、騒がず、隠密が基本でしょ。ここは、あたしが知ってる秘密の裏道を使って、険しいけど山越えをして検問を完全に回避するの。あたしが案内してあげるから」
「……山を、越えるのか」
「当たり前でしょ! それに、一番呆れたのはそこじゃないわよ。あんた、里を出るときに、お父さんがあんたのために用意していた路銀を、一銭も受け取らなかったでしょ。……まさか、この先の長い旅路を、一銭も持たずに西へ行こうとしてたの?」
アッシュが僅かに視線を泳がせ、気まずそうに沈黙すると、ニーナは天を仰いで深い深い溜息をついた。
「正面突破して指名手配、その上にお金は一銭もなし……。やっぱり、あたしがいないとあんたはダメなのよ。今頃、関所で大暴れして一文無しの逃亡犯になって、森で野垂れ死んでたに決まってるわ。あたしはね、あんたのその強力すぎる『剣』だけじゃ、どうしても切り開けない場所を支えるために来たんだから。感謝しなさいよね」
ニーナは自分の懐から、金貨が入った皮袋を取り出してジャラリと振ってみせた。
アッシュの圧倒的な武力と、ニーナの周到な知恵、そして社会を生き抜くための準備。二つの欠けたピースがようやく一つに重なり、本当の意味での旅の支度が整ったことを、アッシュは認めざるを得なかった。
---
それから、三週間後。
ニーナの案内で険しい山道を越え、いくつもの自然の猛威を潜り抜けた先で、重苦しく停滞していた雲がようやく切れた。
視界の先には、山の中腹から見下ろす形で、巨大な石造りの重厚な城壁と、その向こうに広がる、夕日に照らされて黄金に輝く広大な海が見えてきた。
自由貿易同盟の首都……中立都市「リヴォルノ」。
そこにはアイゼン連邦の直接的な軍事重圧こそ表面上はないが、代わりに、世界中から集まった金と、それに群がる人間の欲望が入り混じった、暴力的なまでの熱気が街全体から立ち上っていた。
街の巨大な門を潜った瞬間、アッシュの鼻腔を突いたのは、かつてサナが去り際に残していったあの甘い残り香と、むせ返るような潮の匂いが混ざり合った、この街独特の香りだった。
「……ようやく着いたわね、アッシュ。ここが、あんたのじーちゃんが言っていた『西』への入り口よ」
ニーナが誇らしげに、活気あふれる広大な港を見渡す。その表情には、長旅の過酷な疲労を越えた、確かな達成感と誇りが宿っていた。
アッシュは胸元の「西の鍵」を、服の上から強く握りしめた。じーちゃんから託されたこの未知の装置が何を意味するのか。そして、自分に何をさせようとしているのか。その答えが、この喧騒と混沌を超えた海の向こうにあるはずだ。
「行くわよ、アッシュ。まずは、あの赤い女……サナが渡してきたメモにある場所を突き止めないと」
「ああ。……頼む、相棒」
二人の背後で、重厚な鉄の門が鈍い音を立てて閉ざされる。
カナンという懐かしく温かな郷愁を背に、アッシュは本当の意味での「人間が剥き出しで見せる、醜くも力強い世界」へと、一歩を踏み出した。
だが、自由と繁栄を謳歌するその港の片隅には、周囲の活気を嘲笑うかのように、不吉な黒鉄の影を落とすアイゼン連邦の巨大な軍船が、獲物をじっと待つ飢えた獣のように静かに停泊していた。
第2章:カナンの回廊と覚悟の再会 完
拙作をお読みくださりありがとうございます。
無事に2章まで続けることができてうれしいです。
これからも続きますが、3章まで何日かおやすみをした後に再開します。
今後ともよろしくお願いいたします。




