第37話:錆びた境界線
里を隠れるようにして出てから、三日目。
カナン西端の湿地帯を抜け、峻険な山道を越える頃には、空を覆う雨雲はさらにその冷たさを増していた。アッシュは連邦の正規検閲所を避けるため、道なき道を選び、一日の大半を泥と岩に塗れて歩き続けていた。
一週間の休息で肉体は万全だったが、冷たい夜を二度越し、話し相手もいない孤独な行軍が続くにつれ、内面の静寂が逆に耳障りになってきていた。
(……一人は、平気だと思ったんだがな)
山を下りきった先。ようやく見えてきたのは、カナンと自由貿易同盟の境界付近に位置する、名もなき小さな村だった。
かつては宿場町として機能していたのだろう。だが、アッシュの目に飛び込んできたのは、腐った木材が積み重なったような廃屋の列と、泥を啜るようにして生きる人々の姿だった。
(……これが、じーちゃんの言っていた『人の世』か)
アッシュはフードを深く被り、村の中央へと足を進める。
魔気はなく、空からは水が降り、土からは作物が芽吹いている。環境だけを見れば、あのアビスに比べて遥かに恵まれているはずだった。
だが、すれ違う村人たちの瞳には、アビスで命を奪い合う魔物たちですら持っていない、昏く淀んだ色が張り付いている。
ここはギルドの守護も届かず、連邦の目が「搾り取ること」だけに向けられた空白地帯だ。
家々の窓は板で塞がれ、通りには動く気力さえ失ったような老人と子供だけが蹲っている。かつてトウランやカナンで見た活気は、ここには微塵も存在しなかった。
アッシュが村の広場を通りかかった時、怒号が静寂を切り裂いた。
「出せと言っているだろう! 今月の魔晶石が三つ足りないんだよ!」
村の集会所の前。数人の魔導兵が、痩せこけた村長を泥の中に組み伏せていた。
男たちの傍らには、村の全財産であろう僅かな穀物の袋が乱雑に積み上げられている。
「……無理です、これ以上は……! これを持っていかれたら、冬を越せずに死ぬ子が出る……!」
「そんなことは知ったことか。俺たちだって上から詰められてるんだ。足りない分は、お前らの命で払ってもらうしかねえなあ!」
徴税吏のリーダー格が、魔導長銃の銃床で村長の頭を乱暴に殴りつけた。
飛び散る鮮血。村人たちは悲鳴を上げながらも、報復を恐れて誰も動こうとしない。
アッシュは、その光景を静かに、だが沸き立つような不快感を伴って見つめていた。
脳裏に、じーちゃんの広い背中が浮かぶ。
(……じーちゃんなら、放っておかない)
アッシュは、泥濘に突き立てられた自分の足に力を込めた。
「……おい」
冷たい雨の中に、低く、しかし拒絶を許さない声が響いた。
徴税吏たちが一斉に振り返る。その中の一人が、アッシュが背負っている重炭素鋼の黒剣に目を留めた。
「なんだ、その剣は。……身の程知らずの冒険者崩れか。ちょうどいい、不足分の代わりにその剣を置いていけ。そうすれば、命だけは助けてやる」
魔導兵が、あざ笑いながら銃口を向ける。
アッシュは重心を落とし、全神経を右手に集中させた。
だが、その瞬間。
「……ったく。あんた、三日も黙って歩き続けるなんて、どんだけ意固地なのよ!」
アッシュの頭上、廃屋の屋根から鋭い風の声がした。
「ヒュンッ」という、極限まで引き絞られたラバーが弾ける独特の駆動音。
ニーナが愛用するスリングショットから放たれた鋼鉄弾が、雨幕を切り裂き、魔導兵が持つ銃の機関部をピンポイントで叩き潰した。
「ニーナ……!? ……ずっと、追ってきてたのか」
泥濘に舞い降りたのは、肩で息を切らしたニーナだった。
三日間、アッシュに気づかれぬよう距離を保ち、不眠不休で追跡してきたのだろう。その瞳には、疲労よりも強い怒りと、それ以上の「意地」が宿っていた。
アッシュが示した「アビスから脱出した剣聖の弟子」という重荷。それを一人で背負って死ににいくような真似を、彼女の矜持が許さなかった。
「お父さんの言うことは正しいわ。あんたみたいな世間知らずを一人にしたら、西に着く前に世界中を敵に回してのたれ死ぬに決まってる! あたしがいないと、あんたはダメなのよ!」
サナに味わわされた屈辱も、アッシュに突き放された孤独も、すべてを飲み込んで彼女はここに立っている。
ニーナは再びスリングショットを構え、流れるような動作で次弾を装填した。
「行くわよ、相棒。……この錆びた国境の掃除、手伝ってあげる!」
アッシュの唇が、自分でも気づかないほどに緩んだ。
降りしきる雨の中、泥濘の広場に乾いた音が響き渡る。
ニーナが放つ魔導スリングの石弾が、徴税吏たちの持つ銃身を次々と正確に弾き飛ばした。
「このガキども……! 殺せ、皆殺しだ!」
逆上した徴税吏たちが腰の軍刀を抜き放つ。
だが、アッシュは既に彼らの懐へと滑り込んでいた。
【無歩】
爆発的な加速に伴う風圧が泥を跳ね上げ、リーダー格の男の視界を塞ぐ。アッシュは抜刀せず、重炭素鋼の鞘のまま、男の正中線を真っ向から突き上げた。
【透過撃】
硬質な衝撃が防具を通り抜け、男の胃腑を直接叩く。
男が嘔吐しながら崩れ落ちるのと同時に、アッシュは背後から迫る二人の刃を、半身の動作だけで紙一重に躱した。
「……遅い」
アッシュの剣が、兵士の顎を的確に撃ち抜く。
隣ではニーナが、近接戦闘に持ち込もうとする残りの兵士を、双短剣を鮮やかに使い、遠距離攻撃との組み合わせで翻弄していた。
「あんたたちみたいな腐った連中に、アッシュの相手は百年早いわよ!」
数分と経たぬうちに、広場には呻き声を上げる徴税吏たちが転がっていた。
呆然と見守っていた村人たちから、地鳴りのような歓声が上がる。村長が震える手でアッシュの裾を掴み、何度も頭を下げた。
「……じーちゃんなら、もっと鮮やかにやってた」
アッシュは短くそう告げると、倒れた兵士たちの武器を村の入り口へと放り投げた。これが、彼らがここにいた証であり、村人たちが自らを守るための牙になる。
村を後にした二人は、さらに西へと歩を進めた。
一人で歩く道よりも、隣で文句を言いながらも背中を預けてくれる者がいる道の方が、足取りが軽くなることを彼は認めざるを得なかった。




