第36話:独行
深夜のカナン。天を衝く巨木たちが吐き出す濃密な魔気が、静まり返った里を包み込んでいる。
アッシュは、音もなく寝所を抜け出し、里の境界へと続く獣道を一人歩いていた。
(……ようやく、馴染んできた)
一週間前、レオンとの死闘で限界を超えて発動させた【金剛身】。その代償であった全身の強張りは、七日間の休息を経て、ようやく回復していた。
重炭素鋼の黒剣を握る右手に、かつての確かな感覚が戻っている。
背負い袋には、この一週間でニーナが用意してくれていた最低限の干し肉。そして、胸元にはあの「西の鍵」の感触が確かにある。
「……悪いな、ニーナ」
独り言は、湿った夜気にあっさりと吸い込まれた。
別れを告げれば、自分の決心が鈍りそうな気がした。だから、黙って行くしかなかった。
族長の言葉は正論だ。自分という火種をこれ以上里に留めるわけにはいかないし、ニーナと共に旅をするわけにもいかない。隣に誰がいようと、それはアイゼン連邦という巨大な鉄の足に踏み潰される理由を増やすだけだ。
(……一人が一番、身軽だ。じーちゃんだって、そうしてた)
自分に言い聞かせるように、アッシュは黒剣の柄を握り直した。
アッシュの認識では、ニーナは里に残ることを受け入れたはずだ。あの日以来、彼女は妙に聞き分けが良く、今は里の奥で安らかに眠っている……そう信じている。
里を抜けて数時間。夜明けと共に、空からは粘りつくような細い雨が降り始めた。
カナンの西端、自由貿易同盟へと続く広大な湿地帯。そこは、連邦による無差別な伐採によって、かつての緑が「泥の墓場」へと変えられた場所だった。
「……止まれ。そこの鼠」
軍靴が泥を跳ね上げる。
雨幕を割り、六人の連邦兵がアッシュの行く手を阻んだ。
連邦の「奴隷狩り」分隊。先頭に立つ男は、魔導補強された重厚な甲冑の隙間から、アッシュを値踏みするように睨みつけた。
「見慣れぬ顔だな。……荷物を置いて跪け。逆らえば、その場で『廃棄物』として処理する」
アッシュは足を止め、深く被ったフードの隙間から男たちを見ていた。
【点視】が捉えた雨幕の向こう、兵士たちの無機質な甲冑の上に、いくつかの「光る点」が浮かび上がる。それは思考よりも早く脳裏に焼き付く、構造の脆い箇所。アッシュの直感は、どこを叩けばその強固な守りが霧散するかを示していた。
「……ただの旅人だ。通してくれ」
アッシュの声は、雨音に混じって静かに響く。
だが、その右手は既に、重炭素鋼の黒剣の柄へと吸い付くように伸びていた。
自分の足で、自分の意志で、西へ行く。
降りかかる火の粉は、今ここで完璧に払う。
泥濘を蹴る音が一度。
【無歩】によって瞬時に間合いを詰められた分隊長は、自身の喉元に「死」が張り付いたことにすら気づけなかった。
「……が、ッ!?」
アッシュは重炭素鋼の黒剣を鞘に納めたまま、その鯉口を親指で弾いた。
鞘の先端から衝撃を叩き込む【透過撃】。その威力は分隊長の厚い魔導甲冑を一切傷つけることなく透過し、内側にあった肋骨を数本粉砕した。
肺の空気を強制的に吐き出させ、男の意識を闇へと突き落とす。
「分隊長!? このガキ、やりやがったな!」
周囲の五人が一斉に魔導銃の銃口を向ける。
だが、激しい雨幕の中、アッシュの姿は既にそこにはない。
残像すら残さぬ横移動で、アッシュは降り注ぐ弾丸の軌道を紙一重で躱しながら、二人目の背後へと回り込んでいた。
【空蝉】の極意をもって翻弄するアッシュの肉体は、一週間の休息を経て、恐ろしいほど研ぎ澄まされている。
「……これで二人目」
黒剣が抜かれる。
重炭素鋼特有の鈍い輝きが雨を切り裂き、魔導長槍を構え直そうとした兵士の手首を的確に叩き折った。
悲鳴を上げる暇も与えず、返す刀でその腹部に強烈な蹴りを叩き込む。
泥に塗れた荷馬車の檻。そこに閉じ込められた子供たちの瞳に、雷鳴が反射した。
アッシュはじーちゃんの「無意味な殺生は己を鈍らせる」という言葉を守りながらも、その黒剣を檻の鎖へと叩きつけた。
鋼が砕ける甲高い音が、雷鳴に混じって響き渡る。
「……走れ。里へ戻るんだ」
鎖を断ち切られた子供たちは、呆然とアッシュを見つめた後、弾かれたように雨の森へと駆け出した。
だが、その中の一人の少年が、アッシュの裾を掴んで震える声で囁いた。
「……お兄ちゃん、気を付けて。西の街道はもう通れないよ。アイゼンの新しい『検問所』ができて……黒い、大きな機械が全部調べてるんだ」
「黒い機械……?」
「うん。あれに捕まったら、誰も帰ってこれないって、兵隊たちが笑ってた……」
少年はそれだけ言い残すと、仲間を追って闇へと消えた。
残された連邦兵たちは、恐怖に顔を歪めて後ずさる。
「……ま、待て! 貴様、自分が何をしたか分かっているのか! これはアイゼン連邦への反逆……」
「……うるさい」
アッシュの姿が雨の中に溶けた。
銃口が火を噴くより早く、泥濘を蹴る音が一度。
残された四人の連邦兵は、自分たちのリーダーがなぜ一撃で沈んだのかさえ理解できていなかった。
混乱し、闇雲に魔導銃を向けようとする兵士たちの懐へ、アッシュは滑り込むように肉薄する。
逃げようとした者の膝裏を黒剣の鞘で叩き折り、返す刀で残る者たちの急所に鞘のまま突きを叩き込む。
悲鳴を上げる間さえ与えない、静かで徹底した無力化。
数瞬ののち、雨音以外の物音は湿地帯から消え去っていた。
雨は止む気配を見せない。
一人で歩き出したはずの道は、一歩進むごとに血と泥に汚れ、戻れない場所へと繋がっていく。
街道が封鎖されている以上、選べる道は一つしかない。
アッシュは倒れ伏した兵士たちを一瞥もせず、泥の墓場のさらに奥、深い霧に包まれた湿地帯へと足を踏み入れた。
背負い袋の重さが、先ほどよりも少しだけ増したような気がした。
2章はあと2話で終わります。




