第35話:黄昏の決別
カナン族の郷を囲む深い緑に、ようやく柔らかな夕闇が降りてきた。
アイゼン連邦の強襲から一週間。郷の段階的な移転が進む中、アッシュの傷もようやく癒え、その肉体にはかつての頑強さが戻りつつあった。
集落の外れ。巨木の根元で、アッシュは一人「重炭素鋼の黒剣」を磨いていた。
「……ふーん。相変わらず、熱心なこと」
ふわり、と。
鼻腔をくすぐる、鉄の匂いを切り裂くような強烈で甘い花の芳香。
顔を上げると、そこには隠蔽外套を肩にかけたサナ、および大剣を背負ったバルトと、静かに佇むシエルの姿があった。
「坊主。俺たちはこれから一度、ステラ支部へ戻る。連邦の奴ら、今回の件で相当ピリついてやがるからな。一度体制を立て直さなきゃならねえ」
バルトが、完治していない腕を揺らしながら豪快に笑った。
「……本当はよ、お前みたいな骨のある奴には、正式にレジスタンスへ入ってほしいんだがな。……まあ、お前にはお前の、譲れねえ目的があるんだろ?」
アッシュは磨いていた剣を止め、バルトの真っ直ぐな視線を受け止めた。
「ああ。俺は、西へ行かなきゃいけない。じーちゃんがそう言ったんだ」
「ハッ、わかってたさ。……シエル、お前からも何か言ってやれ」
促されたシエルは、静かな瞳でアッシュをじっと見つめた。その奥に潜む、戦友への微かな案じを瞳の揺らぎに宿しながら、彼女は告げた。
「……死なないで。貴方は急ぎすぎている。呼吸を整えて、もっと素直に剣を振るえば……貴方の太刀筋は、さらに鋭くなるはずよ」
「……わかった」
最後に、サナが一歩前へ出た。
彼女は翻弄するような香りを漂わせながら、アッシュの至近距離まで踏み込む。いつまで経ってもこの強引な距離感に慣れることができず、アッシュは思わず僅かに身を引いた。
「西の自由貿易同盟……あそこは私の庭みたいなものよ。これ、持っていきなさい」
サナはアッシュの目を見つめたまま、白く細い指先で丁寧に一枚の紙片を手渡した。
「向こうで困ったら、そこに書いてある場所を訪ねなさい。……また会えるのを楽しみにしてるわよ、カナンの英雄さん」
「おい! 気安く触るな、サナ! 相棒が汚れる!」
薪を抱えたニーナが、路地の影から現れて割って入った。サナは優雅に身を翻し、顔を真っ赤にして憤慨するニーナに向かって、勝利者のような余裕の笑みを浮かべた。
「あら、相棒さん。……精々、食べられないように気をつけることね。……この子は、貴方が思っている以上に『美味しい』んだから」
「なっ……! 変なこと言わないでよ!」
食ってかかるニーナを柳に風と受け流し、サナはアッシュに向けて小さくウィンクを送った。
「じゃあね、二人とも。達者でやりなさいよ」
バルトが不自由な肩をすくめて豪快に首を鳴らし、シエルが静かに一礼する。レジスタンスの面々は、それぞれの得物を手に、深く濃くなっていく森の影へと溶け込んでいった。
静寂が戻る。
アッシュは去っていった者たちの背中を見送り、再び黒剣へと視線を落とした。
アッシュの脳裏には、数日前の夜、聞き分けよく里に残ることを受け入れたニーナの寂しげな表情が焼き付いている。それなのに、今の彼女は以前と変わらず、当たり前のように自分の「相棒」として振る舞っている。
(……どういうことだ。ニーナ)
彼女の行動の一貫性のなさに、アッシュの思考は深い霧の中に迷い込んだように停滞する。彼女が自分の横にいない未来を思うたびに胸が痛むのは事実だが、それ以上に、彼女が何を考え、何を想って自分の隣に立ち続けているのかが、今の彼には全く分からなかった。
(……じーちゃん、俺はこれでいいんだよな)
西の果てへ。
そこには、じーちゃんがおそらく庇うために突き放してまで行けと命じた「何か」がある。
今、じーちゃんの目的を優先していない自分に、その資格があるのかは分からないが、止まることはできない。
アッシュは立ち上がり、黒剣を鞘に納めた。
誰にも告げず、夜の闇に乗じてこの郷を去る。その数時間前の、最後の平穏だった。




