第26話:鋼の意志
全身の骨が軋み、肺が焼けるような熱気で満ちている。アッシュは泥を吐き捨て、黒鋼の長剣を杖代わりにして立ち上がった。
空中から降り立ったレオンは、汚れ一つない法衣を風に靡かせ、羽虫の羽音を疎むような視線をアッシュへ向ける。その瞳には、生命に対する尊厳ではなく、効率的に処理すべき「障害」への冷徹な選別だけが宿っていた。
「鼠。お前一人で、私に勝てると思っているのか」
レオンが指先を微かに動かした。予備動作すら存在しない。
キィィィィィン――!
大気を断層として切り裂く不可視の「真空刃」が、前後左右からアッシュを挟撃した。回避の余地など、物理法則が許さない。
「――っ!」
アッシュは再び【高密度化】を発動した。
ガガガッ、と金属音が響き、真空の刃がアッシュの肌に弾かれる。だが、その衝撃までは殺しきれない。内臓を揺さぶる震動に、アッシュの口端から血が伝った。
(……重い。一撃耐えるだけで、脳が揺れる。まともに受け続ければ、次は骨が砕けるぞ)
アッシュはじーちゃんの言葉を必死に思い出した。「圧倒的な格上とやり合う時は、勝とうとするな。相手が計算外だと感じる一点に、全霊を叩き込め」。
だが、現実は残酷だった。レオンは指先一つで、アッシュが一生をかけても届かないような精密な魔法を、呼吸をするように連発している。
(……負ける。このままじゃ、全員死ぬ)
初めて感じた明確な敗北の予感。レオンがトドメの一撃を放とうと腕を上げた、その時だった。
「そこまでだ、アイゼンの狗め!!」
森の四方からレオンの魔圧を裂くような叫びが響き、無数の矢と弾丸がレオンへ殺到した。
シダの茂みを踏み越え、三人の影が猛然と飛び出してくる。ステラ支部から送り込まれた精鋭たちだ。
大剣を軽々と担ぐ、不敵な笑みの巨漢、バルト。
二振りの短剣を構えた暗殺者、リュカ。
魔導弓を引き絞る冷静な女性、シエル。
「坊主、よく堪えた! ここは俺たちが引き受ける!」
バルトが地を這うような咆哮と共に、大剣をレオンの障壁へと叩きつける。凄まじい衝撃波が空気を震わせた。
「……ほう。少しは歯応えのあるゴミが揃ったか」
レオンは表情一つ変えず、多重魔導障壁で攻撃を流す。しかし、三人の連携は凄まじかった。シエルの放つ魔矢が障壁の一点に絶え間ない負荷をかけ、その極小の隙を縫うように、リュカが音もなく背後へ回り込む。
「リュカ、引け!」
シエルの叫びも虚しく、レオンが冷酷に左手を突き出した。「消えろ」。
空間を圧縮し解放する衝撃波が、リュカを至近距離で飲み込んだ。
「ぐあぁぁぁッ!!」
吹き飛ばされたリュカの体に、無数の「真空刃」が追い打ちをかける。ステラが誇る精鋭の一人は、全身から血を噴き出し、糸の切れた人形のように泥濘の中へと沈んでいった。
「リュカァァァッ!!」
バルトの絶叫が響く。だが、その犠牲は無駄ではなかった。仲間の窮地を賭した猛攻により、レオンの絶対的な防御術式に、コンマ数秒の「歪み」が生じた。
(……今だ!)
アッシュはその一瞬を逃さなかった。
泥濘を爆破するように蹴り上げ、最短距離で肉薄する。
【無歩】をさらに加速させた、全霊の踏み込み。
「不遜な。そのまま砕け散れ」
レオンが反射的に真空刃を放つ。アッシュは【空蝉(虚像移動)】を連続発動し、皮膚を切り裂かれながらも、歪みの生じた障壁の至近距離まで飛び込んだ。
障壁の維持を司る「核」に対し、アッシュは剣を振るのではない。深化させた衝撃のすべてを一点に叩き込んだ。
「――【透過撃】!!」
パキィィィィン!!
理外の打撃。バルトたちの攻撃で極限まで負荷がかかっていた術式が、内側からの衝撃に耐えきれず、結晶のように砕け散った。その隙間を、アッシュの長剣が鮮烈に駆け抜ける。
「な……ッ!? がぁぁぁぁッ!!」
鮮血が舞い、白銀の法衣が赤く染まる。レオンが初めて、その傲慢な顔を屈辱に歪めて後退した。
アッシュは着地と同時に膝をつき、激しく吐血した。右手の感覚は消え、剣を握る力さえ残っていない。
「鼠が……! よくも、この私に……泥を塗ったな!!」
レオンの殺意が膨れ上がる。だが、肩から流れる血は予想以上に彼の術式精度を狂わせていた。撤退戦の支援に現れたレジスタンスの増援も増え始め、レオンは苦渋の決断を下す。
「……鼠共、その命、魔導兵器の炎の中でじわじわと刈り取ってやる。掃討を開始せよ!」
レオンは冷笑を浮かべ、屈辱を押し殺しながら魔力の光と共に戦線から離脱した。
森には再び重苦しい静寂が訪れた。
アッシュは痺れる右手を強引に動かして長剣を鞘に収めた。
駆け寄るニールの気配を感じ、必死に「平然」を装う。
「アッシュ! アッシュ!!」
意識を取り戻したニールが、泣きそうな顔でアッシュの肩を支える。
「……かすっただけだ。平気だよ。それより、あの人たちは……」
アッシュの視線の先には、倒れ伏したリュカを抱きかかえるバルトと、弓を握ったまま震えるシエルの姿があった。
だが、悲しみに浸る時間さえ戦場は与えてくれない。森の奥からは、機械兵の駆動音とアイゼン兵の足音が、刻一刻と近づいていた。
「行くぞ、ニール。……まだ、何も終わってない」
アッシュは泥だらけの顔を上げ、カナンの郷を焼き尽くそうとする絶望的な赤光を見据えた。




