第17話:ステラへの潜入
湿り気を帯びた風が南から吹き込み、行く先には天を突くような黒鉄の城壁が姿を現す。
城塞都市ステラ。
かつてはトウラン王国の南西を守る盾であったその街は、今やアイゼン連邦の巨大な「栓」として君臨していた。
「あそこを抜けない限り、南のカナンにも、西のリヴォルノにも辿り着けない。だが、あの正門の検問を真っ昼間に通るのは自殺行為だ」
ニールが苦々しく指差した先。巨大な門の前には、重装鎧に身を包んだアイゼンの衛兵たちが立ち並び、通行人の荷物どころか、表情の僅かな揺れさえも見逃さない勢いで目を光らせていた。
「じーちゃんが言ってた。無理に開かない扉は、持ち主が寝るのを待てばいい。……夜まで待つぞ」
二人は街道から外れた岩陰に身を潜め、太陽が地平線の向こう側へ沈むのをじっと待った。
夜の帳が下り、ステラの巨大な門が重々しい音を立てて閉ざされる。周囲に魔法灯の明かりが灯るが、同時に壁の影は一層深く、濃くなった。
「よし、今だ。ニール、俺に合わせろ」
アッシュはそっと目を閉じ、アビスでの日々を思い返す。
漆黒の闇の中、毒蛇が這う穴で音もなく獲物を仕留め、自らもまた闇の一部となって気配を消し去ったあの日々。
(見えないものを見ろ。光を避けろ。俺は影だ。ただの、壁に落ちた不確かな影だ……)
アッシュは城壁の監視兵が視線を巡らせる周期を読み取り、その合間を縫って音もなく疾走した。足音一つ立てず、夜風に紛れて壁の凹凸に取り付く。
ニールは息を呑んだ。アッシュの動きはあまりに滑らかで、月明かりの下ですらその輪郭を捉えることが難しい。
「ったく、あいつみたいなデタラメは無理だっての……」
ニールはアッシュが投げたロープを使い、自らの気配を殺しながら、監視の死角を突いて城壁を乗り越えた。
壁を越えた先、アッシュを待ち受けていたのは、かつての情緒を無機質な鉄で塗りつぶした異様な光景だった。
石造りの美しい建物は徴用され、壁面には無骨な魔導配線が血管のように這い回っている。深夜だというのに監視用の魔導球が不気味な赤い光を放ち、街角には蒸気を吐き出す魔導銃を手にした兵士たちが巡回していた。
「ひどいな。空気が鉄の匂いしかしない」
アッシュがわずかに眉をひそめる。
「感傷に浸ってる暇はないぜ。まずは情報を拾う。あそこのギルドへ」
ニールが顎で示したのは、冒険者ギルドの看板だった。
だが、その扉が開くより先に、鉄の匂いを切り裂くような、強烈で甘い花の芳香が二人の鼻腔を突いた。
立ちふさがったのは、磨き上げられた革の軽装鎧を纏った一人の女性だ。
褐色の肌に、燃えるような赤い髪。腰には細身のレイピアを帯びている。彼女は周囲の重苦しい空気を一変させるほどの、妖艶な笑みを浮かべていた。
「あら。坊や、コインを持ってるのね」
その女は、アッシュを舐めるように見つめる。彼女の勘は「違和感」を見逃さなかった。
彼女はしなやかな動作で歩み寄ると、アッシュの鼻先に顔を寄せた。
殺気でも、魔力でもない。翻弄するような芳香。
(女が近づいてきたら、それは間合いを盗まれていると思え……)
じーちゃんの教えを思い出し、アッシュは反射的に重心を落とそうとする。
だが、毒蛾の粉を浴びせられたような不思議な気圧感に、一瞬だけ反応が遅れた。鋼の心臓が、自分でも驚くほど場違いな音を立てる。
「ふーん。いい反応。それに、この澄んだ目。最高じゃない」
彼女の手が、吸い込まれるようにアッシュの頬に伸びる。
それが「攻撃」なのか、どう対処すべきか。アッシュの思考がコンマ数秒停滞した、その時。
背後から、バキリと指を鳴らす音が響いた。
「おい。気安く触るなよ、サナ。相棒が汚れるだろ」
ニールの声は、これまでに聞いたことがないほど冷たく、刺すような棘を含んでいた。
サナはニールの存在に今さら気づいたかのように顔を上げると、さらに深く笑みを刻む。
「あーら、ニーナ。あんた、まだそんな男のフリして……」
「黙れ。名前を間違えるな」
ニールの鋭い声がサナの言葉を遮った。
アッシュはじいちゃんの「女は毒だ」という教えが、どうやらこの場においては、目の前の相棒にさえも当てはまりつつあることを、静かな驚きと共に観察していた。
「おいアッシュ、行くぞ! こんなところで油を売ってる暇はない、宿を探すんだ!」
ニールは吐き捨てるように言うと、アッシュの腕を引いて歩き出そうとする。サナはそれを見て、くすくすと喉を鳴らして笑った。
「あら、そんなに急いでどこへ行くの? 宿なんて探さなくても、私の家に泊まればいいじゃない。可愛い坊やたちには、特別にサービスしてあげるわよ」
サナが挑発するようにウィンクを送ると、ニールは足を止め、肩越しに氷のような視線を投げ返した。
「断る。お前の家なんかに行ったら、相棒の教育に悪そうだ」
ニールはそう言い捨てると、迷いなく踵を返し、アッシュを連れて夜の雑踏へと消えていく。サナはその背中を見つめながら、赤い唇を歪ませて溜息をついた。
「あらそう、残念ね。……せいぜい、その『相棒』を大事にすることね、ニーナ」
彼女の細められた瞳は、暗がりに消える二人の後姿を、値踏みするような怪しい光を宿して見送っていた。
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大通りに面した、この界隈でもそれなりにグレードの高い宿。
厚みのある石壁に守られ、防音設備の整った静かな部屋に落ち着くと、アッシュは背負っていた鉄剣を壁に立てかけ、ずっと気になっていたことを口にした。
「……ニール。あの女、知り合いか? それとも、敵なのか?」
ニールは窓の隙間から外の様子を伺っていたが、深く溜息をついてから乱暴にベッドへ腰を下ろした。
「……あいつはサナだ。レジスタンスのメンバーだよ。前に何度か、情報売買の仕事で組んだことがある。腕は確かだが、食えない女だ。あまり関わるな」
ニールの声は低く、それ以上の追及を拒むような響きがあった。
「もう寝るぞ! 明日はギルドへ行くんだ。体を休めておけ」
そう言うなり、ニールは毛布を頭まで被り、アッシュに背を向けた。
アッシュはしばしその背中を見つめた後、静かに目を閉じた。




