第16話:未知への第一歩
おおよそ一ヶ月後、山を降りた二人の視界を、眩い光が射抜いた。
急峻な岩場を抜け、視界が開けた先。そこには地平線の彼方まで続く、一本の巨大な石畳の道があった。
リカームから南へ、そして西の要衝都市へと続く主要街道だ。
「広いな……」
アッシュは思わず足を止め、独り言を漏らした。
アビスの空は常に狭く、切り立った壁に切り取られていた。だが、ここにある空はどこまでも高く、幅広い道はその下を無限に伸びているように見える。
身を隠す岩壁も、視界を遮る樹木もない開放感。それは爽快感というより、自分がどこまでも小さな存在になったような、不思議な感覚だった。
「やっとまともな道に出たな! この一ヶ月、散々魔獣に襲われたけど、これだけの数の魔石、街で換金すればウハウハだ。今夜は豪華な飯にするぞ!」
この一ヶ月、二人は何度も死にかけた。夜行性の魔獣に追われ、慣れない露営で低体温症になりかけ、食料が尽きて苦い木の根を齧った日もある。
「おいアッシュ、いくら腹が減ったからって、その毒草を『じーちゃんが美味いって言ってた』って理由だけで食おうとするんじゃねえ! それはただの毒だ!」
「……でも、じーちゃんはとりあえず食ってから吐けば耐性がつくって」
「じいさん、お前を暗殺しようとしてたんじゃねえのか……」
そんな過酷な日々の中で、アッシュは少しずつ外の世界を「経験」として血肉に変えていった。
魔石を取るための正しい解体方法。効率の良い火の起こし方。人間の街で使われる貨幣の価値。
そして――誰かと背中を預け合って戦う感覚を。
「驚くのはまだ早いぜ。この道をずっと西に行けば、もっとでかい街も、見たこともねえ海も待ってる」
街道の上空を、大型の飛行魔獣を利用した輸送隊が横切っていく。荷を吊るした巨影を見上げ、アッシュは思わず目を見開いた。
「……飛んでる」
「田舎者丸出しだな。あれは飛竜便だ。アイゼン連邦以外はこうして魔導兵器じゃないものに頼ることもあるんだぜ」
街道沿いには、避難民や商人たちが肩を寄せ合う簡素な休憩所が点在していた。
行き交う数十台の馬車、重厚な鎧に身を包んだ傭兵団、そして泥を啜るようにパンを奪い合う難民の子供たち。街道は活気に満ちていると同時に、アイゼン軍の侵攻がもたらした「世界の歪み」を色濃く反映していた。
ニールは旅慣れた足取りで人混みをすり抜け、怪しげな奴隷商の視線を鋭い眼光で牽制しながら、街道沿いの古びた茶屋へとアッシュを促した。
「おい、アッシュ。そんなにキョロキョロすんな。お登りさんだってバレてカモにされるぞ。……まあ、無理もねえか」
二人が喉を潤すために立ち寄った茶屋で、リカームを出てから久しぶりに「まともな飯」として出された焼きたてのパンと、塩味の効いたスープ。アッシュはその味の濃さに驚き、奪われるのを恐れるように夢中で口に運んだ。
隣の席では、旅人たちが酒を酌み交わしながら笑い合っていた。誰かが商談をし、誰かが喧嘩をし、子供が走り回る。
アッシュはそれを、少し落ち着かない気持ちで眺めていた。アビスでは、強くなければ死ぬ。それが当たり前だった。だが、ここでは誰もが当たり前のように笑い、明日の話をしている。
その光景が、アッシュには妙に不思議だった。
そんな二人のテーブルに、一人の男が接触してきたのは、食事が終わる頃だった。
旅装に身を包んだ、一見どこにでもいる行商人の風体だ。だが、男の目は鋭く、アッシュの腰にある「鉄錆色のコイン」を正確に射抜いていた。
「いい出土品を持っているな。それはカイルから預かったものか?」
男が低い声で投げかけてくる。ニールが微かに頷くと、男は周囲を警戒しながら二人の向かいに腰を下ろした。
「俺は連絡員だ。リカームの状況は聞いている。アイゼンの連中、次の街、城塞都市ステラでも大規模な兵站基地を作ろうとしてやがる」
男は懐から汚れた地図を取り出し、一点を指差し、声を潜めた。
「ステラの地下に、俺たちの仲間が潜伏している。だが、ステラはレジスタンスの数が足りてない。あんたたちのような動ける奴が必要なんだ。ステラのギルドへ行ってくれ。そこで次の指示がある」
男はそれだけ言い残すと、銀貨を一枚置いて雑踏の中に消えていった。
アッシュは手の中のコインを強く握りしめる。
あの日、突如として敵が攻めてきた激動の中で、自分に向けて放たれた「西に向かえ」というじーちゃんの強い声。あの人があんなところで終わるはずがない。あの言葉の真意を知るためにも、ここで立ち止まるわけにはいかなかった。
(待ってろ、じーちゃん。俺がもっと強くなって、必ずそこに戻るから)
じーちゃんが繋いでくれたこの命を、無駄にするわけにはいかない。
これからは、自分だけの「道」を歩まなければならないのだ。
「行くか、アッシュ。ここから先は、今までみたいに山の魔獣だけじゃ済まねえ」
「……ああ。行こう、ニール。俺は強くならなきゃいけないんだ」
アッシュは最後に一度だけ、背後にそびえる険しい山々を一瞥した。
あのアビスの底には、自分がいつか帰るべき場所がある。
今はまだ遠ざかるばかりの道だが、その一歩一歩が、いつか「格上」のじーちゃんと再会するための糧になると信じている。
広すぎる空の下。
少年は、初めて自ら選んだ道を西へ歩き出した。
第1章:深淵の外側、未知への第一歩 完




