第15話:隣り合う背中
パニッシャーの巨体が谷底へ消えてから、数時間が経過していた。
二人は旧要塞の裏手、吹き抜ける高地の風を避けるように突き出した岩陰に身を寄せていた。焚き火は、煙で居場所を悟られぬよう最小限に抑えられている。
遠くの谷底からは、先ほどの死闘を嗅ぎつけた別の捕食者のものか、低く禍々しい遠吠えが風に乗って届いていた。時折、寒暖差で凍てついた岩盤が爆ぜるように鳴り、アッシュはそのたびに無意識に傍らの大剣へと手を伸ばそうとして、脇腹の激痛に小さく息を詰まらせる。
「動くなよ、アッシュ。少し冷たいが我慢しろ」
ニールが手慣れた手つきで、アッシュの脇腹に冷やした湿布薬を当て、清潔な布を巻き付けていく。
アッシュは口を真一文字に結び、漏れ出しそうな呻きを喉の奥で押し殺した。薄い空気のせいか、それとも傷のせいか、呼吸をするたびに肺が焼けるように熱い。
「……っ。すまない、ニール」
「謝るなって。お前が最後の一撃を叩き込まなきゃ、今頃二人まとめてあの鳥の餌だった。これくらい、相棒の務めだ」
ニールは布の端を固く結ぶと、ふう、と白濁した息を吐いて焚き火の傍に腰を下ろした。酸素が薄く、指先の感覚が寒さで消えかけている。
アッシュは岩に背を預け、鈍く痛む脇腹をさすった。
「じーちゃんの修行に比べれば、これくらい大したことはない。……あ、いや、なんでもない」
「おいおい、今さら隠すなよ。どんな修行をしてきたら、同い年でそんな化け物じみた動きを身につけられるんだ?」
ニールが呆れたように、けれどどこか真剣な眼差しで問いかける。
アッシュは揺れる小さな炎を見つめながら、遠い記憶を手繰り寄せた。
「じーちゃんは、厳しかった。朝起きたら、いきなり谷底へ放り込まれるのは日常茶飯事だ。這い上がってこれなきゃ、その日の飯は抜き」
「飯抜きの日は?」
「じーちゃんが『空腹は最大の調味料であり、最高の重りだ』って言って、山をさらに三周走らされた」
「ただの過酷な居残り練習じゃねえか! しかも飯食わせてもらってねえだろ!」
「でも、走り終わった後の水はすごく美味しかった。だから、じーちゃんは正しかったと思う」
「洗脳されてんだよあんたは! ……はあ、崖を登っている最中に、上から岩を投げられたりしなかったのが奇跡だな」
「あ、それは毎日投げられてた。足場が崩れたら、空中で石を蹴って飛び上がれって……」
「投げてんじゃん! 殺す気かよ、それは!」
「最初はそう思った。でも、じーちゃんは笑いながら言ってた。『死ぬような隙を見せるお前が悪い』って。……毒蛇のいる穴に放り込まれて、耐性がつくまで出してもらえなかったこともある」
ニールは口に含んだ水を吹き出しそうになり、激しく咳き込んだ。
「毒蛇……? お前、それ教育じゃねえぞ。ただの生存競争だろ」
「そうかもしれない。でも、おかげで生き残るための感覚だけは研ぎ澄まされた。さっきの【構造把握】も、あの時の感覚に近い。世界が、ただの物の集まりじゃなくて、壊すべき『点』と『線』の集合に見えるんだ」
アッシュの淡々とした言葉に、ニールはしばし沈黙した。
この少年が歩んできた道は、外の世界の「常識」では測れない孤独な地獄だったのだ。
「そりゃ、お前みたいなバケモンが生まれるわけだぜ……」
ニールは苦笑し、干し肉の入った袋をアッシュに放り投げた。
「いいか、アッシュ。これからは俺がいる。じいさんみたいに突き落としはしねえが、道案内と情報のサポートは任せろ。お前が剣を振るうための『隙』は、俺が作ってやる」
ニールの言葉に、アッシュは冷えた干し肉を噛み砕きながら問いかけた。
「なあ、ニール。お前はどうしてそんなに器用なんだ。スカウトの技術も、戦い方の組み立ても、普通の案内人には見えない。お前だって、俺と同い年だろ」
ニールは一瞬だけ、図星を突かれたように肩を震わせた。それから焚き火を枝でつつき、影の落ちた顔で少しだけ声を落とした。
「……俺はさ、南のゲートの向こう側から来たんだ。閉鎖的な少数部族――カナン族の出身でね。長を務める親父の元で、狩りや追跡は赤ん坊の頃から叩き込まれてた」
ニールは自嘲気味に笑い、煤けた自分の指先を見つめた。
「でも、あそこの生活は退屈で、何より無力だった。アイゼン軍が部族の奴らをさらっていっても、親父たちは『掟を守ればいつか救われる』なんて寝言を言ってるだけだ。……俺は、一緒に狩りをしてた仲間が目の前で連れ去られるのを、ただ隠れて見てるしかなかった。跡継ぎとしての責任を捨てて、逃げるように部族を出たんだ。……卑怯だろ」
ニールが初めて見せた、拭いきれない罪悪感の混じった表情。
焚き火の爆ぜる音が、一際大きく響いた。
一瞬で炎が掻き消える。
「喋るな」
次の瞬間、崖上を何か巨大な影が通り過ぎた。石を砕くような足音だけが、闇の向こうへ遠ざかっていく。
数十秒後。ニールはようやく浅く息を吐いた。
「……高地狼だ。血の匂いに寄ってきやがった」
ニールは気を取り直し、先ほどの話を続けた。
「外の世界に出れば何か変わるかと思ったけど、どこへ行ってもアイゼンがいて、世界はめちゃくちゃだ。俺は生き残るために、部族の狩猟術を外の世界向けに作り変えて、どこの勢力にも媚びずに一人で立ち回ってきた。……お前の危うさが放っておけねえのは、たぶん、あの時隠れてた自分を見ているみたいで胸糞悪いからさ」
ニールは空を見上げ、深く息を吐いた。
アッシュはじっとニールの横顔を見つめていた。じーちゃんは尊敬すべき憧れの師であり、畏怖すべき超越者ではあったが、こうして痛みを共有し、背中を預け合える相手ではなかった。
不意に、風が止んだ。
静寂の中で、アッシュの口から自然と言葉が零れ落ちる。
「……ああ。よろしく頼む、ニール。お前の隙は、俺が埋める」
「…………」
ニールは言葉を失ったように目を見開いた。
アッシュ自身、自分が何を言ったのか一瞬戸惑った。だが、不思議と後悔はなかった。
「……ふっ、よせやい。俺たちは相棒だろ」
ニールは照れ隠しに乱暴に頭を掻き、焚き火に新しい枝を放り込んだ。
「ほら、当分休んでる暇はねえ。街道はアイゼンがいるかもしんねえから、これからはさらに険しい山道を進む。しっかり寝ておけよ」
夜の帳が下り、冷気が一段と厳しさを増していく。
だが、隣り合う背中から伝わる微かな体温が、アッシュの凍てついた生存本能を、静かに、けれど確かに溶かしていた。
誰かの体温をこれほど心強く感じたのは、いつ以来だろう。
眠りに落ちる直前、アッシュは自分の警戒心がかつてないほど緩んでいることに驚き、そしてそれを心地よいと感じている自分を、ぼんやりと受け入れていた。




