第14話:古の守護者
切り立った断崖が、二人の行く手を無慈悲に遮っていた。
かつてトウラン王国が北の防衛要衝とした隠し路は、数年前の崩落により、道そのものが数百メートルにわたって谷底へ消え去っている。残されているのは、絶壁に打ち込まれた錆びついた巨大な鎖と、風化した王国の紋章が刻まれた石造りの支柱のみだ。
「アッシュ、動くなよ。俺が先に渡って支柱を打ち込む。ロープを張るまでその岩を抱えてろ」
ニールはスリングショットを構え、対岸のわずかな突起に極細のガイドラインを通した。スカウト技術を駆使し、慎重に命綱を構築していく。
アッシュはその間、今にも剥離しそうな岩盤の亀裂に指を掛け、自らの肉体そのものを支柱として岩を食い止めていた。背負った二人の荷物が肩に食い込み、指先からは血が滲むが、じーちゃんに背負わされた、山ほどもある岩に比べれば……と自分に言い聞かせ、必死に奥歯を噛み締める。
二人がようやく難所を越え、旧要塞の頂へと足を踏み入れた瞬間、山嶺の空気が完全に凝固した。
そこは、かつて竜の侵攻を監視したであろう見張り台の廃墟だった。
直後、天を衝く山々の合間から、太陽の光さえも完全に遮る漆黒の質量が姿を現した。
大気そのものを圧殺するような羽ばたき。雲を割って現れたのは、漆黒の鱗に覆われた古の巨竜だった。
それは魔獣という枠組みすら超えた、歩く天災そのものだ。息を吸うことさえ許さない絶対的な王者の威圧感に、アッシュの【点視】は光を失って完全に白く軋み、ただの「点」すら捉えることができない。実力差が、あまりにも次元を異にしていた。
「ひっ……あ、ああ……」
ニールは完全に腰を抜かし、石畳に這いつくばったまま指一本動かせずにガタガタと震えている。
巨竜は、足元にいる羽虫のような人間など歯牙にも掛けず、ただ悠然と山々の奥深くへと飛び去っていった。その巨躯が引き起こした凄まじい暴風が廃墟を容赦なく叩き、古い石柱がいくつも砕け散る。
――生き延びた。
ただの気まぐれで、踏み潰されずに済んだだけだ。
アッシュは冷や汗を拭い、乱れた呼吸を整えた。潰れかけていた思考が、ようやく現実へ戻ってくる。じーちゃん以外の存在で、ここまで己の無力さを突きつけられたのは初めてだった。
だが、安堵したのも束の間、要塞の天守から、別の不吉な金属音が響いた。
巨竜という絶対強者が去った歪みの残る空間、まるでそのおこぼれを狙うように、もう一匹の捕食者が姿を現したのだ。
この高地の凶悪な支配者『尖峰の断罪者』。金属光沢を帯びた鋼鉄の如き羽毛を持つ怪鳥が、巨竜の去り際に興奮した様子で黄金の瞳を剥き、弾丸のような速度でアッシュたちへ急降下してきた。
「ドラゴンのあとにまだいるのかよ!」
ニールはドラゴンを見た後だからか、落ち着きを取り戻し毒づいた。
アッシュは瞬時に大剣を引き抜き、迎え撃つ。
パニッシャーの鋭い嘴がアッシュの眉間を狙う。アッシュは剣を垂直に立て、最小限の動きでその突進を逸らした。キィィィィン、と鼓膜を劈く金属音が響き、激しい火花が石畳を焦がす。
休む間もなく放たれた巨大な鉤爪の薙ぎ払いを、今度は剣の腹で滑らせるようにいなした。だが、その巨体から繰り出される重量までは殺しきれない。
三度目の重い一撃。回避がわずかに遅れ、パニッシャーの副爪がアッシュの脇腹を真横から叩いた。
鈍い衝撃音と共に、アッシュの体が石畳の上を激しく転がる。
「アッシュ!」
ニールは恐怖を振り切るように立ち上がり、悲鳴のような声を上げる。アッシュは肺から空気を無理やり絞り出され、一瞬だけ視界を白ませた。脇腹に走る、焼けるような激痛。
咄嗟の【高密度化】による防御が刹那でも遅れていれば、肋骨は粉砕され、内臓は破裂して即死していただろう。辛うじて致命傷を免れたものの、肋骨に走る嫌な感触と溢れ出す冷や汗が、死への距離を突きつけてくる。
アッシュは大剣を杖代わりにし、震える膝を叩いて、無理やり立ち上がった。
パニッシャーは獲物の生命力に苛立ちを見せ、再び上空へと舞い上がる。アッシュは必死に【点視】を集中させたが、先ほどの竜の残光と怪鳥の変則的な飛翔が重なり、視線が追いつかない。
「アッシュ、左だ! 俺が隙を作る、合わせろ!」
ニールが叫び、特製の煙幕弾を風上へと叩きつけた。
単なる目潰しではない。煙の流れる速度と密度で怪鳥の飛行進路を限定し、その死角を突く計算された援護だ。ニールはさらに石礫を連射してパニッシャーの視線を逸らし、その羽毛の隙間を狙って二振りのダガーを投擲した。
翼の付け根を叩かれたパニッシャーが、姿勢を立て直そうと空中でほんの一瞬だけ静止する。
その刹那、アッシュの視界の中で「点」が完全に固定された。
(――見えた。そこだ!)
極限の集中が、アッシュの脳内で既存の定義をブチ破る。
霞んでいた「点」が、骨格と筋肉の連動を伴った明確な「構造」として視界に浮かび上がった。
脳裏に、水晶の時と同じ文字が走った。
【点視】深化
→【構造把握】
アッシュは脇腹の激痛を、瞬時の【高密度化】による肉体の固定で強引にねじ伏せる。
予備動作を一切排した【無歩】で、ニールが作り出した僅かな隙を突いて肉薄。大剣の切っ先を、構造として捉えた防御の「隙間」へと滑り込ませた。
渾身の【透過撃】。
剣先は表面の鋼鉄羽を透過し、深化によって正確に捉えた核へと、破壊の衝撃を直接送り込んだ。
内側から生命の根源を打ち砕かれた絶叫が、山々に木霊した。
高地の主は力なく翼を広げたまま、断崖の下へと真っ逆さまに落下していった。
断崖に、ようやく静寂が戻る。
アッシュは荒い息を吐きながら、血の気の引いた手で大剣を握りしめていた。
折れそうな肋骨を片手で押さえ、心配そうに駆け寄ってくるニールの方を向く。
「……ニール。さっきの、助かった。お前がいなかったら、もっと苦戦してた。……ありがとう」
少しだけ照れくさそうに、けれど真っ直ぐに告げられた謝辞に、ニールは目を丸くし、それから乱暴に自分の頭を掻いた。
「……よせやい。俺たちは相棒だろ。ほら、休んでる暇はねえ。安全な場所に出るまで肩を貸してやるよ」
二人の機転と技が噛み合った瞬間、アッシュは自身の技術がさらなる深みへ至ったことを確信していた。じーちゃんの背中を追うための力が、また一つ、その手に宿った。




