第13話:鉄の戒律
リカームの南門は、もはや門としての機能を失っていた。
街道を埋め尽くしているのは、立ち往生した商人たちの怒号と、それを冷酷に撥ね退けるアイゼン兵の長槍の列だ。熱気に当てられた馬の嘶きと、行き場を失った人々の罵声が混ざり合い、重苦しい停滞感が大気を支配している。
「――現在、テロリストの捜索中につき、一般の通行は一切禁じられている! 解放は一ヶ月後だ、速やかに立ち去れ!」
拡声魔法で増幅された兵士の無慈悲な宣告に、ニールは舌打ちをして即座に踵を返した。
「一ヶ月か。クソっ、そんなに待てるかよ。アッシュ、予定変更だ。ギルドの壁にあったあの巨大な地図、覚えてるか? あそこに描いてあった『トウラン時代の古い防衛路』を抜ける。今はただの断崖絶壁だが、兵士の目は届かねえはずだ」
二人は混乱する群衆を背に、街の北西へと向かった。アイゼン軍が「大規模行軍不能」と断定し、監視すら放棄した切り立った山岳地帯。道なき岩肌をよじ登り、一歩踏み外せば雲の下まで真っ逆さまという、道幅数センチの断崖の縁を渡る過酷な行軍が始まった。
だが、ニールが四肢を駆使し、爪の間に泥を噛ませながら必死に岩壁を這い上がる傍らで、アッシュは重い背嚢を背負いながら、まるで平地を歩くような足取りで岩場を跳ねていた。重心の移動に一切の揺らぎがなく、その姿は重力の影響を無視しているかのようだった。
「なあニール。お前、さっきから苦しそうだけど大丈夫か? ……少し、背嚢を持とうか?」
「……はあ、はあ。ふざけんな……これでも俺は、ギルドの養成所じゃトップクラスだったんだよ。お前、じいさんにどんな修行させられてたんだ。肺の構造が人間と違うんじゃねえのか……」
「え? 崖のぼりは、じーちゃんを背負って毎日やってた。足場が崩れたら、空中で石を蹴って飛び上がれって……。ニール、これくらい普通じゃないのか?」
「普通なわけあるか! ……ったく、あんなギルドの石で、おかしな代替定義が出るわけだぜ。お前の『普通』は、この世界の『異常』なんだよ」
その時、突風が岩肌を叩いた。
ミシリ、と頭上の岩棚が軋む。
「――アッシュ!」
ニールが顔を上げた瞬間、馬車ほどもある巨岩が崩落した。逃げ場はない。だがアッシュは、落下してくる岩から目を逸らさなかった。
一歩。
崩れた足場へ踏み込みながら、大剣を抜き放つ。鈍重な鉄塊のような剣が、最小限の軌道で振り抜かれた。
次の瞬間。
ゴォン――ッ!!
凄まじい衝撃音と共に、巨岩の中心が砕け散る。真っ二つではない。内側から耐えきれなくなったように、岩そのものが崩壊したのだ。
砕けた岩片が二人の脇を激しく通り過ぎ、断崖の下へ消えていく。
「……は?」
ニールは喉を鳴らし、数秒遅れて大きな息を吐いた。
「……だから言ってんだろ。お前のそれ、普通じゃねえんだよ」
アッシュは砕けた岩の破片が断崖の下へ落ちていくのを眺め、それから、ギルドで新調した大剣の重みを確かめるように見つめた。
先ほど岩を砕いた瞬間の、衝撃が硬い物質の芯へと直接通り抜けていった感覚。
それは、あの地下水路でスライムイーターの核を撃ち抜いた時の手応えと、全く同じものだった。
その時、ギルドの水晶に刻まれた言葉が脳裏をよぎる。
(【透過撃】……)
「なあニール」
「今度はなんだ」
「その『代替定義』って、結局なんなんだ?」
ニールは「今さらそこかよ」とでも言いたげに顔をしかめた。岩陰で腰を抜かしたように座り込み、呼吸を整えながら続けた。
「あの石は、魂に刻まれてる経験を読み取って、この世界の『スキル』として名前をつける装置だ。だが、お前の技術はこの世界の既存の型――剣術だの魔術だのといった枠組みに収まらなかった。だから、この世界の理屈に無理やり当てはめるために、石が必死にひねり出したラベル。それが『代替定義』ってやつだ」
アッシュは自分の握る大剣へ視線を落とした。脳裏には、あの日、水晶を塗り替えるように刻まれた四つの言葉が浮かんでいる。
(【透過撃】【無歩】【高密度化】【点視】)
「じーちゃんは一度も、俺の動きに名前なんてつけなかった。ただ、身体をこう動かせ、とだけ。ただの『動き』だったのに」
「名前がついたことで、お前自身がそれを技術だと認識し始めたんだよ。今までは無意識だったものが、ハッキリと言語化されちまった。お前はじいさんに、名前のねえ『ナニカ』をそのまま体に叩き込まれたんだろ。それはもう、呪いみたいなもんさ」
「……じゃあ、この名前は変わるのか? じーちゃんの教えてくれたものは、まだ未完成なのか?」
「『深化』すれば変わるさ。今の定義じゃ届かねえ壁にぶち当たった時、お前の認識が既存の定義をさらにブチ破る。そうしてランクが上がるたびに、その名前はお前自身の本質に近づいていくはずだ。……まあ、お前の場合は、どこまで化け物になるか想像もつかねえけどな」
アッシュはじっと目を閉じた。水晶が無理やり名付けた四つのスキル。それはじーちゃんが「凡人」の自分に持たせてくれた武器であり、この世界の理が自分を測り損ねた証明だ。
(じーちゃんは、これを知っていたのか。だから、名無しのままで俺に教え込んだのか。この世界に、俺の居場所を隠すために……)
研がなきゃいけないのは、名前じゃない。じーちゃんに叩き込まれた、この感覚そのものだ。
その時、先行していたニールが、不意に自分の耳を押さえてうずくまった。
「待て……。アイゼンの連中は……いねえ。だが、なんだこれ……空気が、重すぎる……。耳鳴りが、止まらねえ……」
ニールの耳から、細い血が筋を引いて流れた。
隠し通路の出口。旧要塞へと続く石畳の先で、不自然な空気の歪みが揺らめいていた。周囲に生えていた高山植物は一瞬で水分を失って枯れ果て、吹き付ける激しい風さえも、そこを避けるように歪な渦を巻いている。
音すらも吸い込まれるような、異様な静寂。
それは魔導兵器による障壁などではない。周囲の獣すら、この場所を避けているのが分かる。あまりにも強大な生命がそこに「在る」だけで、既存の生存競争が意味をなさなくなり、空間そのものが呼吸を忘れている。
アッシュの【点視】が、その歪みの中心にある、輝く「核」を捉える。
だが、今の力では、その核はあまりにも遠く、太陽を直視したかのように激しく揺らめいて見えた。アッシュはその存在の「重さ」に、視界そのものが白く軋む。
空高くから、山々を粉砕せんばかりの咆哮が降り注いだ。それは振動というより、魂を直接揺さぶる震波だった。
アッシュが見上げた瞬間――。
頭上を過る、山そのもののような、あまりにも巨大な影。
雲を裂きながら旋回する何かを見た瞬間、ニールの顔から血の気が引いた。
「……冗談だろ。こんな高地の奥に、あんな化け物がいやがるなんて……」
それは、この山域の生態系の頂点に君臨する災害そのものだった。




