第12話:宿場の出立
リカームの朝は早い。
宿の食堂では、南のカナンを目指す商人たちが慌ただしく飯を掻き込み、馬車の車輪を点検する音が窓の外から絶え間なく響いている。
ニールは手慣れた様子で、湿地帯用の強力な防虫香や、長持ちする特製の乾燥肉を背嚢の隙間に効率よく詰め込んでいた。
「いいかアッシュ、南はここよりずっと蒸し暑い。体力を削られるぞ。今のうちに食えるだけ食っておけよ。向こうじゃまともなパンすら贅沢品になる場所もあるからな」
アッシュはニールの忠告に従い、山盛りのパンを黙々と口に運んでいた。
カウンターの奥では、宿の主人が忙しなく手を動かしながらも、何度もこちらを振り返っては、何かを言いかけて口を閉ざすのを繰り返している。この数日間、彼が時折向けてきた「探るような視線」の正体を、アッシュは測りかねていた。
二人が席を立とうとした時、主人がカウンターを拭きながら、すれ違いざまにぐっと顔を寄せてきた。
「……兄ちゃん。出立の前に一つだけ、こっそり聞いていいかい」
潜められた低い声に、アッシュは足を止めた。主人は周囲の客に聞き耳を立てられていないかさりげなく確認すると、さらに声を落として囁く。
「この数日、ずっと気になってたんだが……。あんたのその翡翠の瞳、それに鼻筋。昔この宿に泊まっていた、あるお人にあまりに似ててな。二十年以上前、俺が親父の跡を継いだばかりの頃の話だ」
主人は懐かしむように目を細め、だがどこか深刻な色を混ぜて続けた。
「えらいべっぴんさんと一緒にいてな。冗談を言っては周りを笑わせる、どこにでもいるような、でもよく目立つ明るい御仁だった。名前はゼノスとか言ってた。あんた、あの方の血縁か何かかい? 面影が、あまりに重なるもんでな」
主人はそう言うと、カウンターの下から古びた一枚の「板」を取り出した。それはかつての宿の看板だったのか、裏側には落書きのような彫り跡がある。
「見てみな。これ、あの方が酔った勢いで彫りやがったんだ。『代金は将来この価値が上がった時に受け取れ』なんて笑いながらな。……歩き方も、椅子の立ち方も、周囲を見る時の目つきまでそっくりでな。理屈じゃねえ、身体に染み付いた癖みたいなもんがな」
そこには、稚拙だが力強い線で一輪の花と、その横に小さく『Z』の文字が刻まれていた。
アッシュが固まった。
じーちゃんからは、拾い子で血の繋がりはないと聞かされて育った。じーちゃん以外の人間も鏡も知らずに生きてきたアッシュにとって、それは疑いようのない世界の前提だったはずだ。
(……俺は、じーちゃんと同じ目をしている……それに顔が似てるのか? 血が繋がっていないのに? それに、この彫りの形……じーちゃんがよく、木に彫ってた)
昨日は、伝説の英雄だと聞かされた。
今日は、似てると囁かれた。
そして、自分を育てたのは、いつも厳しく、けれど時に包み込むように優しかった「じーちゃん」だ。
どれが本当の姿なのか。なぜ、自分と「似ている」なんて言われるのか。
拾い子、英雄、家族。あまりにバラバラな断片が頭の中で渦巻き、アッシュの思考は激しくかき乱された。
「……兄ちゃん」
主人は最後に、少しだけ迷うような顔をした。
「もし本当に、あの人の縁者なら……西へ行く時は気を付けな。あの人の名前を嫌う連中は、今でも多い」
「おい、何をぼーっとしてる。行くぞ、アッシュ」
荷物をまとめ終えたニールが、アッシュの肩を叩く。
ニールは主人の話の内容までは聞き取れなかったようだが、アッシュの表情がかつてないほど困惑に揺れたのを見て、あえて明るく声をかけた。
「店主さん、世話になった。飯、美味かったぜ」
「ああ、気をつけてな」
二人は宿を出る。外に出ると、朝の冷気が心地よい。
南門へと続く大通りは、すでに出立を待つ馬車で溢れかえっている。
「アッシュ。……あんた、何を言われたか知らないけどよ」
ニールが歩きながら、探るようにぼそりと呟いた。
「別に、何もない。……ただ、少しだけ、じーちゃんのことを思い出してたんだ」
アッシュは短く答えた。だが、その声はどこか確信を欠いている。
じーちゃんの正体も、自分が何者なのかも、霧の中に消えてしまったような感覚だった。
ニールはそれ以上追求せず、少しだけ真剣な顔をしてアッシュを見てきた。
「いいか。あんたが誰で、何を隠してようが、俺はあんたを西まで連れてく。 昨日、レジスタンスに協力するって決めたのも、あんたを西まで連れてくためだ。危ないことは自分一人で抱え込むな。分かったな?」
ニールの言葉はぶっきらぼうだったが、そこには確かな意志があった。
アッシュは、じっとニールを見つめた。
向けられた言葉の意味を咀嚼するのに数秒かかり、それから、今まで経験したことのない感情が胸の奥を温めた。
「……ありがとう、ニール。そんなこと言われたの、初めてだ」
アッシュは言葉を探すように俯いたが、やがて顔を上げると、年相応の、どこか幼さの残る笑みを浮かべた。自分自身の輪郭さえ曖昧になったような不安の中で、目の前の少年の言葉だけが唯一の救いだった。
「俺は世の中のことは知らないけど、あんたのことは信じる。頼りにしてる、ニール」
その真っ直ぐすぎる瞳に見つめられ、ニールは一瞬見とれたあと、猛烈な恥ずかしさを隠すように乱暴に頬をかいた。
「っ……、重てぇんだよ、その信頼! これだから非常識な世間知らずは……。ほら、行くぞ! 門が混み始める!」
ニールは照れ隠しに歩調を速め、アッシュはその背中を追って南門へと続く大通りを歩き出した。
ニールは振り返らないまま、せっせと腕を振って先を歩く。
アッシュは、早足で歩くニールの背中を黙って追いかけた。
不思議と、その背中は昨日までより小さく感じなかった。




