過去を追う◇かごの中の鳥
日の出よりも早い時間。ユギハはバルコニーの戸を開けて外に出た。山の冷気が容赦なくユギハの体を包む。
このバルコニーから見える西の塔。
――…そこに昔、あの子がいた。
「…」
夏場でも涼しい蒼の気候。冬に子供の背丈ほどの積雪となる年もある。そんな厳しい寒さでも、あの子の部屋に暖炉はなかった。
もしも暖炉から火の手が上がった場合、あの子は施錠した室内から逃げられない。…そんな不安があったためだが…。
「……ユウは…、本当に小さかったな…」
あれは…、ユウガが5歳ほどの頃だったか。
あの子の部屋の鍵を外し、剣術の稽古のために庭で待っていると、ユウガが怪我を負った小鳥を拾ってきた。
小さな手に、そぅ…っ、と小鳥を包んだユウガが、哀しげな目で自分を見上げる。
『と、とーさん…。この鳥さん、ケガしてるの』
『どこから拾ってきたんだ?』
『あっちの草むらの中だよ。ピィピィ鳴いてたの…』
『…手と袖が血で汚れたな。その辺に放しなさい』
『で、でも…』
『放しなさい』
『…お、お空が飛べないんだよ? おうちに帰れないよ…』
『ユウガ』
『タ、タカさんが食べちゃうかも…』
『放す気がないのか?』
『………』
『飼いたい、とは言わないだろうな? 本気で怒るぞ?』
『――…た…、助けたいの…』
『…え?』
『ぼ…ぼく、飼いたいんじゃないの。ケガをなおしたいの。おうちに帰してあげたいの。
それだけだよ、とーさん…』
『……。そうか…』
『………』
『――見せなさい』
『えっ?』
『父さんに見せなさい。…怪我を見るだけだ、そのまま投げ捨てたりはしないよ。
――…あぁ、羽が折れているな。背中のこれは鷹の爪痕だ。襲われたんだろう』
『………』
『――いいかユウ、父さんは一切手伝わないぞ? お前ひとりで世話をするんだ。手当ても、餌やりも、全部な。それでも、稽古は毎日ちゃんと真面目にこなすこと。
約束できるか?』
『……はいっ!』
元気いっぱいに頷いたユウガ。
不安で埋め尽くされていた幼い顔が、夏の日差しに煌めく大輪のヒマワリのように輝いた瞬間だった――。
「起きているぞ。入れ」
ドアの外に気配を感じ、ユギハは許可を出す。
入室してきたのは、友であり腹心であるクルテン。数日前、使者として送り出したのだが。
「今帰りか? 長く掛かったな」
不思議そうなユギハに、クルテンは意味深な苦笑を返す。
「まぁ、いろいろとな」
「いろいろ…?」
「お前の小僧に会ったり、な」
怪訝顔のユギハにわざと澄まして言うと、ユギハは何度も目を瞬かせてクルテンを見た。
「あれに――…ユウガに会ったのか?」
「ああ、朱とガヌアスを結ぶ街道付近でな。
俺と目が合った瞬間は警戒したが…、俺の顔を覚えていてな。逃げはしなかった。いろいろと昔話をしたよ」
「…そうか」
「お前がユタバに託した物は、ユウガはちゃんと持っていたぞ」
「………。
何か…、言ってはいなかったか?」
――…こんな話を聞いてしまうと、ますます「会いたい」という気持ちが強まってしまった。
もう二度と、会うことなどできないだろうに――。
クルテンが静かに息を吐いた。
「自由に生きる、と。そう言っていた」
「…。そうか……」
――これで、いいのだ。
これは裏切りではない。自分が勝手に期待を抱いただけ。
あれほど酷い目に遭わせておきながら、ほんの一瞬だけでも都合の良い夢などを見ただけだ。
「クルテン、あれはどう成長していた?」
「シュウからは聞いていないのか?」
「黒蛇退治の件を隠したことを根に持ち、私に教えようとしない」
友にソファを勧めたユギハは難解な息子を思い失笑し、対してクルテンは声を出して笑った。
「そうだな…、昔のお前にとてもよく似ていた。特に、あの剣を背にした姿はな」
「……そうか…」
「あの剣…、お前が先代から授かったものだろう? お前はとても大事にしていて…。
それを、良かったのか?」
「…。今の俺には、不釣り合いな代物だからな」
あとは祈るだけだ。あの子があの剣を血に染めないことを。
ユレンの忘れ形見が、幸せな人生を歩んでいくことを――。
深いため息をつくユギハ。
そんな友に、クルテンは痛ましいものを見るかのような眼差しを向けていた。
「なんだユギハ、そのため息は…。ユウガは今のお前とは正反対の、活きた目をしていたぞ。
俺と別れた後、ガヌアスでやんちゃをしているらしいな。ユウガがお前を嫌っているなら、そんな真似はしないだろう。お前とのわだかまりが少しは解けるのではと、そう喜ぶ者も多い。
――蒼に集う者達は、お前という人間を慕っている。お前を信じ慕うからこそ、総裁として甘過ぎるお前に、これまでついてきた」
それなのに…、と。
クルテンは寂しげに呟く。
「お前は心の底から他者を信じることができない」
「…」
「そうだろう? 俺はお前をガキの頃から知っている。お前という人間を、他の連中よりはわかっているつもりだ」
「…」
「完全には信じられていないと無意識に感じ、お前の信を得ようと必死になっている連中もいる。
野心や悪意ではなく、ただ純粋に人として信を得たい――。こんな健気な連中が他の〔組織〕にいると思うか?」
「…」
だからこそ、とクルテンは表情を和らげる。
「お前がユウガの信を得ようともがく姿に手を貸したくなる。自分を孤独だと追い詰めるお前を助けたくなる。
…これはまぎれもなくお前の人柄、人望だぞ?」
「――…俺は…、あれの信を得たいわけじゃない…」
そう呟くと――…、目に熱いものが込み上げてきて、唇を噛み締めることでそれを耐えた。
沸き上がった感情をやり過ごして目を開けると…、なんとも複雑な表情を浮かべたクルテンがいた。
「…俺は憎まれたままでもいい。俺を憎悪することで、それであれが救われるというなら――…。俺はこのままで構わない…」
堅く目をつむるユギハ。
右手の甲を額に押し当て、ため息をついた。
「…俺が死んだら、シュウを守ってやってくれ」
「おい…」
「腹心の中で一番信用できるのはお前なんだ。
――…頼む」
心身ともに疲弊した気配の友。
クルテンは「縁起が悪いな」と呟き、席を立つ。
「お前の口から、その言葉が出るとはな…。
お前を信じる者をお前は信じられず、お前を信じられない者をお前は信じられる。
…さて、俺はどうなのやら」
「…どうとでも言ってくれ。
俺が何を言おうが、言い訳にしか聞こえないだろうさ」
言い返す気力さえないらしい…。クルテンは軽くため息をつき、部屋を出ていく。
ユギハは前髪を掻き乱すと、立ち上がって窓辺へと歩んだ。
ユウガが小鳥を拾ったと知り、シュウは弟のために鳥かごを手に入れた。自由時間が限られている弟の代わりに鳥の本を探し、医師から薬品を分けてもらった。
弟の役に立ちたいがために、シュウはひたすら駆けずりまわった。
『父上はユウをどうしたいのです? まさか何の考えもなく、塔に閉じ込めているのですか?』
『シュウ…』
『絶対に忘れないで下さい。ユウの将来はすべて、あなたが握っているんだ。
あなたがユウにすることはすべて、ユウに影響を与えるんだ。
あなたがユウにしないことはすべて、ユウは知らないまま生きていくんだ』
――…10歳にも満たない子供の諫言だ。
シュウは昔から本当にしっかりとした子だった。ユギハを恐れずにピシャリと諫める姿はユレンに似ていた。
穏やかな気質で周囲に細かな気配りができ、多くの人から愛される――…「いい子」だった。
だが、それは本当に良いことだろうか……?
ひんやりと冷たいガラスに額を押しつけていたユギハは、首に下げた懐中時計を手にとる。
その中を開いた目が、愛しく哀しげに細められた。
「なぁユレン…。俺は本当に駄目で最低な父親だよ……」