理解すること◇蒼の総裁
※残酷な描写が含まれています。
総裁であるユギハが護衛も付けずに要塞を出るなど、滅多にないことだ。
しかし彼は今蒼から離れ、たったひとりで無防備に大岩の上で片膝を抱えるように座り、ぼんやりと空を見ている。
ふと…、空に境などないんだな、と思った。
――…同じこの空の下、あれは今何をしているのだろう…。
「…ユギハ、さま…?」
疑い半分の弱々しい声。
地を踏む音と崖を転がる小石の音に顔を向けると、血色の悪い顔が見えた。
「帰りが遅かったな」
「総裁…、申し訳ありませんでした…」
剣を杖に体を支え、満身創痍で佇む男。シュウやアリカムと蒼を発ったひとり。
「申し訳ありません…。黒蛇の実力、侮っていました…」
「そうか…。イル・ティワ、よく戻ってきたな」
労いの声音に、嗚呼…、と思う。
誰が何処に属し誰の下にいるか――、この総裁はそれをほとんど把握している。顔と名を覚えているということは、物ではなく人として見ている、ということだ。兵卒を消耗品と見ない組織の総裁は珍しい。
就任当初は、こんな男に総裁が務まるのか、と蒼の中で反発もあったと聞く。そしてそれは多からず今もある。だがどんなに周囲が騒ごうが、ユギハは自分を貫き通す。自分がやり方を変えることは絶対にない、不満があるのならば出ていけ、自分が満足する他組織で自分が思うように生きればいい、と。
そんなユギハ総裁を、イルは心から敬愛している。今蒼にいる者達は、イルのようにユギハを慕っている者が大半だ。…でなければ、今の蒼はなかった。
「――…だがな。少し余計なことをしてくれたな」
「? 総裁…?」
フッ…、と。
敬愛する総裁は呆れたように一笑し――…刹那。
彼はほんの一瞬で剣を抜き、イル目掛けてそれを投げつけた!
「いっ…!?」
驚きと恐怖に固まったイルがバランスを失って倒れるのと同時に、その背後で無言の断末魔が無数起こり、地へと沈む。
グチャ…ッ
ド…ッ
ブシュ……ッ
――…砂埃と霧のような血飛沫が未だに舞う中、ユギハは岩を飛び降りて歩みを進める。
「…この私の剣の錆になれたこと、光栄に思うことだな」
頭を貫いた剣で岩壁に貼り付けとなった男に足を掛け、ユギハは無感情な呟きと同時に剣を一気に引き抜いた。一気に吹き出した血がユギハの外套をあっという間に赤く染める。
呆然と総裁を目で追ったイルは、自分の背後に展開した光景にようやく気づき…、言葉を失う。
――累々と転がる屍、その数10体はあるだろう。
未だに痙攣しているモノ、腹に矢を生やしたモノ。あるモノは口から血の泡を吹き、あるモノは頭部が潰れ目玉が飛び出し――…。そして、それらは全て一瞬で絶命していた。
「――ユギハ、怪我は?」
「ない」
そこらの骸の布で剣の血を拭ったユギハが、下っ端のイルにはあまり聞き覚えのない声に慣れた様子で短く答えた。他に気配など感じていなかったイルはハッと周囲を見る。
ユギハの側近――その中で腹心中の腹心である五人衆、そのうちの4人。
「驚かせてすまなかったな」
呆然としているイルに、ユギハは少し苦笑した。
「だがな。負傷した身とはいえ、これだけの尾行に気づかないとは少し問題だぞ?
クレン、シャンク、ゼス。これらの始末を頼む」
「だから『やめておけ』と言ったものを」
「悪い悪い。面倒をかける」
気心の知れた腹心の呆れに笑い、ユギハは返り血に染まった外套を脱ぎ捨てた。剣を素早く鞘に、カチンッ、と戻す。
「シュウなら無事だ。お前より早く戻り、再度使者として送り出した。そのシュウが逆に伝令を出してな。何事かと思えば、お前が大量の客を引き連れて帰路にいる、ときた」
「…」
「腹心達には止められたが、黒蛇の腕を実際に確かめたくてな」
「後を片付けるのは我々だぞ、ユギハ」
「だから詫びているだろうが。今度何かおごってやる」
「やれやれ…、困った総裁だ」
巻き起こる呆れと信愛の笑い。ユギハもまた朗らかに笑っている。
だが――…この人達はつい先ほど、この数の刺客を、たった5人で、しかも一瞬で片付けてしまった…。
「クルテン、イルをディンの所に連れていけ。くれぐれも他の連中の目には触れるなよ」
不必要な波紋は広げないに限る。腹心は心得たように頷き、イルの腕を肩に回した。
その姿が見えなくなり、さてこの血を落としに風呂に入るかな、などと呑気に考えていたユギハ。だが。
――…突然のめまいに、近くの岩に軽く手をつく。
「…っ」
「ユギハ? お前まさか――」
「いや、違う。昨夜も少し呑み過ぎただけさ」
怪訝そうな腹心達にユギハは弱く笑みを返し、軽く右手をあげてその場から立ち去った。
自分と腹心五人衆だけが知る秘密の通路を使い、ユギハは蒼の中へと戻ってきた。湯で返り血を落とし、自室のソファに身を沈める。
深く重いため息が漏れた。
「この俺がこの程度でバテるとはな…。
――…まだまだくたばるつもりもないが」
自分のくだらぬぼやきに失笑してしまう。
ぼんやりと室内を見渡し…、ふいに優しく目を細めた。
暖炉の上に置かれた肖像画を手にしてしばらく見つめ――…、ため息をつく。
「…お前とあれに対する罪の罰か。それとも散々馬鹿をやった俺を、親父が怒っていやがるのか。
なぁ――…ユレン」
幼いシュウを膝に抱いて笑う妻を見つめ、ユギハは目を細める。
「…あれは今どこにいる? 何をしている? お前は見ているんだろう…?
シュウを反対したお前に、俺はあれを反対した。――…くだらないよな。何も悩む必要などなかったのにな…」
フッ…と自嘲し、ユギハはそっと肖像画を下ろす。そして服の中に手を入れ、首に掛けている懐中時計を引き出した。
蓋を開けたユギハの目が優しく和む。
――…そこには、決して叶うことのない夢があるのだ。




