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古い忠誠の末路

数日が過ぎた。


屋敷は、表面上は完全に落ち着きを取り戻していた。


朝には決まった時間にカーテンが開けられ、廊下には新しい花が飾られる。


食堂には夫婦のための朝食が整えられ、サロンの棚には夫婦の写真が増え始めていた。


佐川家の名残は、目に見える場所からほとんど消えている。


肖像画もない。

骨董品もない。

家紋もない。

古い写真もない。


代わりにあるのは、夫と妻のものだけだった。


夫が妻に与えた屋敷。


妻が選んだ家具。


妻が飾る花。


妻が決める規律。


それでも、消しきれないものがあった。


人の中に残った、古い忠誠。


成島は、まだ時折、佐川を影で「奥様」と呼んでいた。


もちろん、人前では呼ばない。


相馬の前では決して。

妻の前では絶対に。


だが、使用人用の細い廊下や、洗濯室の隅、早朝の誰もいない階段下で、成島はつい昔の呼び方を零してしまう。


「奥様、お身体は」


そのたびに、佐川は顔を歪めた。


「やめてと言ったでしょう」


「申し訳ございません」


「もう奥様じゃないわ」


「ですが、私にとっては」


「やめて」


佐川の声は、以前より弱くなっていた。


怒りきる力が、少しずつ削られている。


彼女は今、雑巾掛けだけではなく、妻の買い物の荷物持ちまで命じられていた。


外出時には、他のメイドよりも一歩後ろを歩かされる。


妻が選んだ包み。

酒瓶の入った重い紙袋。

花屋の大きな箱。

菓子店の手提げ袋。

衣料品店の箱。


それらを佐川は両手いっぱいに抱え、妻の後ろを歩いた。


かつて自分が女主人として使用人に持たせていた荷物を、今は自分が持っている。


道行く人は何も知らない。


ただ、高貴な雰囲気の妻と、その後ろで荷物を抱える疲れたメイドを見るだけだ。


佐川がかつてこの屋敷の所有者だったことなど、誰も想像しない。


もはや、元家主の面影はなかった。


白髪混じりの髪。

疲れた顔。

五十円の茶色いカーディガン。

手には雑巾の匂い。

肩には荷物の跡。


妻は他の使用人には冷たくなかった。


相馬には丁寧に話す。


「相馬さん、こちらの手配をお願いします」


「かしこまりました」


「いつも助かります」


「恐縮でございます」


若いメイドが失敗しても、妻は淡々と注意するだけだった。


「次から気をつけてください」


「申し訳ございません、奥様」


「怪我はありませんか」


「はい」


「なら、片づけを」


厳しいが、必要以上には踏まない。


だが佐川に対してだけは違った。


「佐川」


「はい、奥様」


「遅い」


「申し訳ございません」


「荷物を落としたら、あなたの給金から引きます」


「……はい」


「返済どころではなくなるわね」


「……申し訳ございません」


「謝罪は要らない。歩きなさい」


妻の声には、他の使用人へ向ける温度がなかった。


佐川だけは、別だった。


妻にとって佐川は、ただの使用人ではない。


かつてこの屋敷の主人だった女。


まだ心の奥で、妻を元家政婦と見下している女。


そして、夫の決定に従うふりをしながら、過去に縋っている女。


妻は、それを見逃さなかった。



その日の午後。


妻は相馬を伴って、二階の廊下を歩いていた。


新しく整えられた廊下は、以前よりずっと明るい。


壁には柔らかな色の絵画。

棚には季節の花。

一角には、夫婦で撮った写真が飾られている。


妻はその前で足を止めた。


「この写真、少し傾いていますね」


相馬がすぐに確認する。


「失礼いたしました。すぐに直します」


「お願いします」


「奥様、次の写真の額も本日中に届きます」


「ありがとうございます。旦那様のお戻りまでに飾れますか」


「可能でございます」


妻は小さく頷いた。


その時だった。


廊下の奥、使用人用の通路の方から、小さな声が聞こえた。


最初は、ただの会話のようだった。


だが、妻は足を止めた。


相馬もすぐに気づき、黙る。


声は成島のものだった。


「奥様……お手は大丈夫ですか」


妻の目が、わずかに冷える。


奥様。


その一言で、空気が変わった。


続いて、佐川の疲れた声がした。


「だから、その呼び方はやめて」


「でも、あまりにも……あまりにもおいたわしいです」


「今さら何を言っても変わらないわ」


「いいえ。こんなのはおかしいです。あのご主人様は、あまりに理不尽すぎます」


妻の横で、相馬の表情が硬くなった。


妻は無言だった。


ただ、静かに通路の方へ歩き出す。


足音を殺してはいない。


しかし、二人は気づかない。


成島の声は、押し殺した怒りを含んでいた。


「肖像画を踏みつけ、花瓶を割り、写真まで燃やして……あれが人のすることでしょうか」


佐川は小さく言った。


「成島、もういいわ」


「よくありません。お母様の花瓶まで……あんなふうに」


「やめて」


「ご主人様は冷酷すぎます。あれほどのお金をお持ちなら、少しぐらい慈悲をくださってもよいではありませんか」


妻の足が止まった。


相馬が一歩下がる。


彼は、妻の表情を見た。


冷たい。


だが、まだ爆発していない。


次の瞬間、成島はさらに続けた。


「それに、今の奥様も……」


佐川が慌てた声を出す。


「成島」


「分かっております。分かっておりますけれど、私は悔しいのです」


成島の声には、長年抑え込んできたものが滲んでいた。


「佐川様と三つしか違わない。華やかさがあるわけでも、名家の出でもない。元は家政婦だった方です。それなのに、あの方がこの屋敷の奥様として振る舞い、佐川様が荷物持ちなど……」


「成島、もう黙って」


「いいえ。私は納得できません」


成島の声が震える。


「元家政婦の分際で、佐川様を見下すなど」


その瞬間。


妻が通路へ入った。


「それで?」


凍るような声だった。


佐川と成島は、同時に振り返った。


佐川の顔から血の気が引く。


成島は完全に固まった。


妻は、ゆっくり二人へ近づいた。


背後には相馬。


その姿を見ただけで、佐川は膝から崩れ落ちそうになった。


「奥様……」


妻は佐川を見なかった。


視線は成島だけに向けられている。


「続けなさい」


成島は震えながら頭を下げた。


「……申し訳ございません」


「続けろと言ったの」


「奥様、今のは……」


「今のは、何?」


妻の声が荒くなった。


普段の静かな丁寧さが、剥がれていく。


「聞き間違いかしら。お前、今、旦那様のことを悪く言ったわね」


成島の肩が震える。


「そのようなつもりでは」


「言った」


妻は一歩近づく。


「理不尽。冷酷。慈悲がない。そう言ったわね」


成島は唇を噛んだ。


「……事実ではございませんか」


佐川が青ざめる。


「成島!」


だが、成島は一度口を開いてしまった。


長年の忠誠と屈辱が、判断を狂わせていた。


「申し訳ございません。しかし、佐川様があのような扱いを受ける理由など――」


乾いた音が響いた。


妻の手が、成島の頬を打っていた。


佐川が息を呑む。


相馬は動かなかった。


成島は打たれた頬を押さえ、呆然と妻を見る。


妻の目は、恐ろしいほど冷たかった。


「お前」


声が低くなる。


「まだ佐川を奥様と呼ぶの」


成島は震える。


「……」


「まだ、この屋敷が佐川家のものだと思っているの」


「私は……」


「口答えするな」


成島は黙った。


妻は怒っていた。


佐川のことを奥様と呼んだことにも。

妻を元家政婦と侮ったことにも。

この屋敷の主が誰かを理解していないことにも。


だが、一番許せなかったのは。


夫を悪く言ったことだった。


妻は成島を見下ろし、吐き捨てるように言った。


「私のことなら、好きに言えばいい」


佐川が顔を上げる。


妻は続ける。


「元家政婦。華やかさがない。名家の出ではない。何でも言えばいいわ」


成島の目が揺れる。


「奥様……」


「でも」


妻の声が鋭くなる。


「旦那様のことを悪く言うことだけは、断じて許さない」


廊下の空気が張り詰めた。


妻は成島の前に立つ。


「誰のおかげで、お前たちはこの屋敷にいられると思っている」


成島は答えられない。


妻は言う。


「本来なら、佐川家に仕えていた使用人は全員解雇する予定だった」


佐川が息を呑む。


成島も顔を上げた。


妻は冷酷に続ける。


「私は、最初からそうするつもりでした」


「……」


「この屋敷に古い忠誠など必要ない。佐川家の匂いが残る人間など、邪魔でしかない」


成島の顔が歪む。


妻は佐川へ視線を向けた。


「佐川も同じ」


佐川は身体を震わせる。


「……はい」


「私はあなたを雇いたくなかった」


佐川の胸に、その言葉が突き刺さる。


妻は静かに言う。


「前の所有者。借金を抱えた元女主人。未練と嫉妬を持ち込む面倒な女」


「……」


「そんな人間、私の屋敷には要らない」


佐川は床に膝をついた。


「申し訳、ございません……」


「でも旦那様が許した」


妻の声が、さらに冷たくなる。


「旦那様の温情で、お前たちはここに置かれている」


成島が苦しげに言う。


「温情……?」


妻の目が鋭くなる。


「違うとでも?」


成島は黙った。


妻は一歩近づいた。


「嫌なら辞めればいい」


成島の目が揺れた。


「……」


「借金ごと外へ出ればいい。誰も止めない」


佐川は震えながら頭を下げた。


「奥様、お許しください。成島は私を気遣って……」


「佐川」


妻が初めて佐川を見る。


「お前も黙りなさい」


佐川は息を止めた。


妻は言う。


「庇える立場だと思っているの?」


「……いいえ」


「思っているでしょう」


「……」


「だから、今もその顔をしている」


佐川は唇を噛む。


妻は成島へ視線を戻す。


「成島」


「……はい」


「跪きなさい」


成島は一瞬、動けなかった。


妻の目が冷える。


「聞こえなかった?」


成島は膝をついた。


佐川もその隣で、床に膝をつく。


二人は廊下の片隅で、妻の前に跪いた。


かつてこの屋敷で、成島は佐川の母に深く頭を下げた。


その成島が今、元家政婦と呼んで侮った女の前に跪いている。


妻は二人を見下ろした。


「謝りなさい」


成島は震える声で言う。


「申し訳ございませんでした」


「何に対して?」


成島は唇を噛む。


「奥様を侮辱したことに……」


妻の目がさらに冷える。


「違う」


成島は顔を上げかけた。


妻は言った。


「旦那様を侮辱したことよ」


成島の肩が震えた。


「……ご主人様を侮辱し、申し訳ございませんでした」


「足りない」


成島は床に両手をつく。


「ご主人様の温情を理解せず、愚かな発言をいたしました。申し訳ございませんでした」


妻は佐川を見る。


「佐川も」


佐川は息を呑む。


「私も、でございますか」


「お前の前で言わせていたのでしょう」


「……」


「止めなかった」


佐川は震えながら頭を下げる。


「ご主人様を侮辱する言葉を止められず、申し訳ございませんでした」


「違う」


佐川は顔を上げられない。


妻は冷たく言う。


「止められなかったのではなく、心の中では同意していた」


佐川の身体が強張る。


「……」


「謝りなさい」


佐川は涙をこらえ、床に額をつけた。


「ご主人様のご厚意を理解せず、身の程もわきまえず、申し訳ございませんでした」


妻はしばらく黙っていた。


廊下には、二人の震える息だけが響く。


やがて妻は、背後の相馬へ声をかけた。


「相馬さん」


「はい、奥様」


「成島を、メイドの中でも下働きの仕事に就かせてください」


成島の顔が上がる。


「奥様……!」


妻は容赦なく続ける。


「客間の準備や給仕には出さないで。廊下の雑巾掛け、洗濯場、浴室清掃、ゴミ出し。人前に立つ仕事は不要です」


相馬は静かに一礼する。


「承知いたしました」


「部屋も移してください」


成島の顔が青ざめる。


「部屋、でございますか」


妻は成島を見る。


「ええ。一番粗末な部屋へ」


「奥様、それだけは……」


「何?」


成島は口を閉ざす。


妻は低く言う。


「解雇されないだけありがたく思いなさい」


成島は震えた。


妻は吐き捨てるように続ける。


「本来なら、お前は今日で解雇だった」


「……申し訳ございません」


「旦那様の悪口を言った人間を、この屋敷に残してやるのよ」


妻の目は氷のようだった。


「感謝しなさい」


成島は床に額をつける。


「……ありがとうございます、奥様」


「声が小さい」


「ありがとうございます、奥様」


「誰に?」


成島は唇を震わせた。


「奥様と……ご主人様に」


妻は満足しなかった。


「ご主人様に、でしょう」


成島は絞り出すように言った。


「ご主人様のご温情に、感謝いたします」


妻は佐川を見る。


「佐川」


「はい」


「お前もよく見ておきなさい」


佐川は顔を上げられない。


妻は静かに告げる。


「成島がこうなったのは、お前を奥様と呼び続けたから」


佐川の肩が震える。


「……」


「お前の過去に縋る者は、みんな下に落ちる」


成島が息を呑む。


妻は続ける。


「それでもまだ、自分がこの屋敷の主人だったと思い続ける?」


佐川は涙をこらえながら言った。


「……思いません」


「聞こえない」


「思いません」


「この屋敷の奥様は誰?」


佐川は床に額をつけたまま答える。


「あなた様でございます」


妻は冷たく言う。


「二度と忘れないことね」


「……はい、奥様」


妻は相馬へ視線を向ける。


「相馬さん、すぐに」


「承知いたしました」


相馬は成島を見る。


「成島。立ちなさい」


成島はふらつきながら立ち上がる。


その姿には、もうメイド長だった頃の威厳は一欠片もなかった。


一般メイドの制服。

伏せた目。

赤くなった頬。

震える手。


相馬は淡々と言う。


「本日より、あなたは下働きに移ります。部屋の移動も今日中です」


成島は唇を噛み、深く頭を下げた。


「……承知いたしました」


妻は最後に言った。


「成島」


「はい」


「次に旦那様を悪く言えば、私が追い出す」


成島は顔を青ざめさせる。


「二度といたしません」


妻は低く言った。


「当然よ」



夕方、夫が帰宅した。


玄関ホールには、いつも通り妻と相馬、使用人たちが並んでいた。


ただ一つ、違うことがあった。


成島の姿が、そこにはない。


夫はそれに気づいた。


夫は使用人たちを見渡すことなど普段しない。


だが、妻の屋敷に置かれた人間の配置には敏感だった。


「成島は」


短い問いだった。


妻は一歩前に出る。


「粗相をしましたので、下働きへ移しました」


夫は妻を見る。


「そうか」


「はい」


「お前が決めたのか」


「はい」


夫はそれ以上、その場では聞かなかった。


玄関に並ぶ使用人たちの前で、妻の判断を掘り返すことはしない。


妻の決定は、妻の権威として守られるべきものだった。


夫はただ言った。


「好きにしろ」


妻は静かに頭を下げる。


「ありがとうございます、旦那様」


夫はコートを脱ぐ。


妻が自然に受け取り、相馬へ渡す。


「お疲れではございませんか」


「少し」


「お食事の前に、お茶を」


「ああ」


妻は夫の半歩後ろを歩いた。


いつも通り。


使用人たちは一斉に頭を下げる。


佐川は列の端で、夫と妻の背中を見ていた。


成島の姿がない玄関。


それだけで、屋敷の空気がまた一つ変わったように感じた。


自分を奥様と呼んでくれた人が、下働きに落とされた。


原因は自分だった。


自分の過去に縋ったから。

夫を悪く言ったから。

妻を侮ったから。


佐川は胸が痛んだ。


けれど、その痛みの奥に、恐怖もあった。


次は自分かもしれない。


いや、すでに自分も同じ場所へ落ちている。


五十円のカーディガンを着て、雑巾掛けをして、荷物持ちをして。


元女主人の面影など、もうどこにもない。



夕食後。


夫はサロンで酒を飲んでいた。


妻は隣に座り、夫のためにグラスを整えている。


普段通りの静かな時間。


妻は成島のことを話さなかった。


夫も尋ねなかった。


少なくとも、妻の前では。


やがて妻が立ち上がる。


「旦那様、少しお茶の準備を見てまいります」


「相馬にやらせろ」


「私が確認したいのです」


夫は妻を見る。


「好きにしろ」


「はい」


妻は静かに退室した。


扉が閉まる。


サロンには、夫と相馬だけが残った。


夫はグラスを置いた。


「相馬」


「はい」


「成島は何をした」


相馬は即座には答えなかった。


一瞬だけ、妻の判断をどこまで伝えるべきか考えた。


しかし、夫に隠すことはない。


「使用人通路で不適切な発言をいたしました」


夫の目が冷える。


「内容は」


相馬は淡々と答える。


「まず、佐川を影で奥様と呼び、気遣っておりました」


「まだか」


「はい」


夫の声が低くなる。


「愚かだな」


「加えて、ご主人様の処置について、理不尽である、慈悲がない、と」


空気が凍った。


夫の目が、わずかに細くなる。


だが怒りは表に出ない。


出ないからこそ、冷たい。


「妻は」


「激怒されました」


相馬は続ける。


「奥様は、ご自身に対する侮辱よりも、ご主人様を悪く言ったことを最も許せないと」


夫の手が止まった。


珍しく。


本当に珍しく、夫の表情がわずかに動いた。


口元が、ほんの少しだけ緩む。


微笑と呼ぶには冷たすぎる。


だが、確かに笑っていた。


「そうか」


その声は低く、静かだった。


相馬は頭を下げる。


「はい」


夫はグラスの中の酒を見つめる。


「自分のことでは怒らない女だ」


「奥様は、ご主人様への侮辱を看過できなかったようでございます」


夫はわずかに息を吐いた。


それは笑みに近かった。


「馬鹿だな」


言葉は乱暴だった。


けれど、そこに不快感はなかった。


相馬は続ける。


「なお、成島は奥様についても発言しておりました」


夫の表情が消えた。


「何と」


相馬は慎重に答える。


「元家政婦で、華やかさもなく、佐川と比べて……という趣旨でございました」


夫の目が完全に冷えた。


「解雇だ」


即答だった。


相馬は頭を下げたまま言う。


「ご主人様」


「何だ」


「奥様は解雇ではなく、下働きへの降格と部屋の移動を命じられました」


「甘い」


「はい」


相馬は否定しない。


「ですが、奥様がご自身で下されたご判断です」


夫は黙った。


相馬は続ける。


「ここでご主人様が即座に解雇なされば、奥様の処分が覆ります」


夫の目が相馬へ向く。


「俺に指図するのか」


「いいえ」


相馬は深く頭を下げる。


「奥様の権威を守るための意見でございます」


沈黙。


夫は相馬を見ていた。


相馬は動かない。


やがて夫は、低く言った。


「……今回は残せ」


「承知いたしました」


「次はない」


「そのように心得ます」


「妻には言うな」


「かしこまりました」


夫は再びグラスを手に取った。


「成島が妻を悪く言ったことも、だ」


「はい」


「妻が知らないなら、そのままでいい」


相馬は静かに言う。


「奥様はすでにお聞きになっております」


夫の手がまた止まる。


「聞いた上で、下働きか」


「はい」


夫は少しだけ黙った。


「……やはり甘い」


しかし、その声には先ほどほどの冷たさはなかった。


相馬は何も言わない。


夫は続ける。


「だが、妻が決めたならいい」


「はい」


「成島には、妻に感謝させろ」


「徹底いたします」


「佐川にもだ」


「承知いたしました」


その時、扉の外に気配がした。


妻が戻ってくる。


相馬は一歩下がった。


夫は何事もなかったようにグラスを置く。


妻が扉を開けて入ってきた。


「お待たせいたしました」


夫は静かに妻を見る。


成島の話を知ったことなど、微塵も見せない。


「遅い」


「申し訳ありません」


妻は夫の隣へ戻ろうとした。


その瞬間、夫が腕を伸ばした。


妻の手首を掴む。


妻は少し驚いたように夫を見る。


「旦那様?」


夫は立ち上がり、何も言わずに妻を抱きしめた。


妻の身体が一瞬、固まる。


夫が人前で感情を見せることは少ない。


抱きしめることはあっても、それは命令のような動作で、所有を示すようなものが多かった。


だが今の抱擁は違った。


静かで、深い。


胸の奥にしまっているものが、ほんの少しだけ漏れたような抱きしめ方だった。


妻は戸惑う。


「旦那様……?」


夫は答えない。


ただ、妻の背に腕を回す。


妻は理解できなかった。


自分が何かしただろうか。


成島のことは話していない。

夫には言っていない。

言うつもりもなかった。


夫に余計な不快感を与えたくなかったから。


妻は少し迷ったあと、夫の背に手を回した。


「お疲れなのですか」


「違う」


「では……」


「黙っていろ」


妻は小さく息を吐く。


「はい」


夫は妻を抱きしめたまま、低く言った。


「お前は、俺の妻だ」


妻の目が揺れる。


「はい、旦那様」


「それだけでいい」


妻は、夫の胸に額を寄せた。


意味は分からない。


けれど、夫が珍しく穏やかであることだけは分かった。


妻は静かに抱きしめ返す。


「私は、旦那様の妻です」


夫の腕に、少しだけ力が入る。


「分かっている」


その言葉は短い。


けれど、妻には十分だった。


相馬は静かに目を伏せ、気配を消した。


外の廊下では、使用人たちが無言で働いている。


成島は一番粗末な部屋へ荷物を運ばされていた。


佐川は茶色のカーディガンを着て、廊下の床を拭いている。


成島はもう、メイド長ではない。


佐川はもう、奥様ではない。


この屋敷に残る忠誠は、夫と妻へのものだけ。


それ以外の忠誠は、見つかるたびに踏まれ、落とされ、削られていく。


佐川家の残り香は、また一つ消えた。


そして妻は、夫の腕の中で静かに目を閉じた。


自分がどれほど冷酷に成島を落としたのか、夫に語ることはない。


夫も、それを知っているとは言わない。


ただ、二人だけが同じ方向を向いていた。


この屋敷を、完全に自分たちのものにするために。

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