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6/14

気まぐれと呼ばれた愛

次の日


その日の夕方、屋敷の玄関ホールには、いつものように使用人たちが整列していた。


磨き上げられた床。

新しく飾られた花。

壁には佐川家の肖像画ではなく、夫婦の写真。


夫がほんのわずかだけ穏やかな表情をしている写真が、静かに屋敷の主を示していた。


妻は玄関の中央より少し後ろに立ち、夫の帰宅を待っていた。


相馬はその斜め後ろ。

メイドたちは左右に並び、頭を下げる準備をしている。


その列の端に、佐川もいた。


黒と白のメイド服の上から、あの茶色いカーディガンを羽織っている。


五十円の古着。


袖口には毛玉があり、肩は落ち、裾はよれていた。


掃除の時に着るよう命じられたものだったが、今日は夕方の玄関にもそのまま立たされていた。


佐川は俯いていた。


以前なら、恥辱で頭の中が煮え立つようだった。


どうして自分が。

どうしてあの女が。

なぜ夫はあの女だけを。


そんな妬みと怒りが、胸の奥で燃えていた。


けれど今は少し違う。


怒りが消えたわけではない。


妻への妬みも、夫への恐怖も、相馬への屈辱も残っている。


それでも、その全部の上に、疲労が降り積もっていた。


何かを失うたびに叫んだ。

でも戻らなかった。


花瓶も。

肖像画も。

家族写真も。

夫からのネックレスも。

成島の役職も。


何も戻らなかった。


佐川は、だんだん理解し始めていた。


この屋敷では、泣いても、縋っても、怒っても、何も変わらない。


変わるのは、自分の立場だけ。


下へ。

さらに下へ。


玄関の外で車の音がした。


相馬が小さく言う。


「ご主人様がお戻りです」


使用人たちの空気が一斉に引き締まる。


扉が開いた。


冷えた夕方の空気と共に、夫が入ってくる。


黒いスーツ。

無駄のない歩き方。

感情を見せない目。


妻が一歩前へ出た。


「お帰りなさいませ、旦那様」


夫は妻を見る。


「ああ」


妻は夫のコートへ手を伸ばす。


「お預かりいたします」


夫は無言で任せた。


妻がコートを受け取り、相馬へ渡す。


「今日はお早いお戻りですね」


「予定が終わった」


「お疲れ様でございました」


夫は返事をしなかった。


ただ、妻を一瞥したあと、玄関ホールの使用人たちへ視線を移す。


その視線が、佐川で止まった。


佐川の背筋が凍る。


夫は、茶色いカーディガンを見ていた。


数秒の沈黙。


それだけで、佐川には長く感じられた。


夫が言った。


「みすぼらしいな」


佐川の肩が小さく震えた。


妻はすぐに頭を下げる。


「申し訳ございません、旦那様」


夫は妻を見る。


妻は静かに続ける。


「掃除の時に着用させるものとして用意しましたが、お目に触れる場に立たせるべきではありませんでした。すぐに脱がせます」


夫は興味がなさそうに言った。


「どうでもいい」


妻は顔を上げる。


「ですが」


「屋敷の中なら好きにしろ」


夫の声は冷たい。


佐川を庇うものではなかった。


ただ、本当にどうでもいいという声だった。


「ただし」


夫の目が、もう一度佐川へ向く。


「外にはその格好で連れ回すな」


佐川は息を止めた。


妻も一瞬、夫を見た。


「旦那様」


「目障りだ」


その一言に、佐川の胸がひどく軋んだ。


優しさではない。


情けでもない。


外で恥をかかせるな、ではない。


目障り。


夫にとって、佐川の惨めさは哀れむものではなく、屋敷の外へ出すには見苦しいものだった。


妻は深く頭を下げる。


「承知いたしました。以後、外出時には着用させません」


「そうしろ」


夫はそれだけ言って、妻の方へ手を伸ばした。


「来い」


「はい、旦那様」


妻は夫の半歩後ろにつく。


去り際、妻は佐川をちらりと見た。


その目に、怒りはなかった。


むしろ、冷静だった。


「佐川」


佐川は反射的に頭を下げる。


「はい、奥様」


「あとで脱いで構いません」


「……はい」


「掃除の時だけにしなさい」


「承知いたしました」


妻はそれ以上何も言わず、夫と共にサロンへ向かった。


佐川は頭を下げたまま、二人の足音が遠ざかるのを聞いていた。


胸の奥には、奇妙な感情が残った。


屈辱。

悔しさ。

そして、少しの疲れ。


夫は自分を見ても、憎んでいるわけではない。


興味すらない。


ただ、邪魔なら退ける。

見苦しければ隠す。

価値がなければ処分する。


佐川は、怒りよりも先に、深い虚しさを覚えた。


自分はもう、この屋敷で憎まれるほどの存在ですらないのかもしれない。



サロンには、夜の柔らかな灯りが満ちていた。


新しい黒革のソファ。

磨かれたテーブル。

棚には夫婦の写真。


以前の佐川家の重苦しい空気はない。


けれど、この部屋には別の緊張があった。


夫と妻だけが作る、静かな主従と夫婦の空気。


妻は夫のために酒を用意しようとした。


「旦那様、お酒を」


「後でいい」


夫は短く言った。


妻は手を止める。


「はい」


夫はソファへ腰を下ろす。


妻はその隣に控えようとしたが、夫が視線だけで示した。


「座れ」


妻は少しだけ目を伏せる。


「失礼いたします」


妻が隣に座ると、夫は内ポケットから小さな箱を取り出した。


黒い革張りの箱。


手のひらに収まる程度の大きさだった。


夫はそれを、何でもないもののように妻へ差し出した。


「持て」


妻は両手で受け取る。


「こちらは?」


「開けろ」


「はい」


妻はゆっくり箱を開けた。


その瞬間、言葉を失った。


中にあったのは、ダイヤのネックレスだった。


細く繊細なチェーン。

中央には、光を受けて鋭く輝くダイヤ。


派手すぎない。


けれど、ひと目で上質だと分かる。


光がわずかに揺れるたび、石の奥に冷たい星のような輝きが生まれる。


妻は箱を開けたまま、しばらく黙っていた。


夫はその横顔を見る。


「気に入らないか」


妻は慌てて首を横に振る。


「いいえ」


声が少し掠れていた。


「とても……美しいです」


「ならいい」


夫はいつも通りだった。


短く、そっけない。


まるで、帰り道に適当な菓子でも買ってきたかのように。


妻は箱の中のネックレスを見つめたまま尋ねた。


「ですが、旦那様」


「何だ」


「今日は何かの記念日ではありません」


「ああ」


「私の誕生日でもございません」


「ああ」


「では、なぜ……?」


夫は面倒そうに答えた。


「気まぐれだ」


妻は瞬きした。


「気まぐれ、ですか」


「たまたま見かけた」


「たまたま」


「良さそうだった」


妻は箱を持つ指先に、少しだけ力を込めた。


「それで、買ってくださったのですか」


「ああ」


「私に?」


夫は妻を見る。


「他に誰がつける」


妻は、何も言えなくなった。


胸の奥が熱くなる。


結婚指輪はない。


結婚式もなかった。


夫から結婚を告げられた時の言葉は、優しいものではなかった。


――お前でいい。


それだけだった。


それでも、妻は幸福だった。


夫のそばにいられる。

夫の妻になれる。

それだけでよかった。


指輪がなくても。

式がなくても。

名前を甘く呼ばれなくても。


夫が自分を選んだ。


それだけで十分だった。


けれど今、夫は何でもない日に、ダイヤのネックレスを買ってきた。


気まぐれだと言いながら。


たまたま見かけたと言いながら。


妻のために。


妻は小さく息を吸った。


「旦那様」


「何だ」


「ありがとうございます」


「何度も言うな」


「ですが」


「要らないなら捨てる」


妻はすぐに箱を胸元へ引き寄せた。


「捨てません」


夫は少しだけ目を細める。


「ならつけろ」


妻はネックレスを取り出そうとした。


けれど夫が手を伸ばす。


「貸せ」


妻は静かに差し出した。


夫はネックレスを手に取り、妻の後ろへ回る。


妻は背筋を伸ばした。


夫の指が、妻の髪に触れる。


「髪」


「はい」


妻は自分の髪を片側へ寄せる。


首筋が露わになる。


夫の指先が、そこに一瞬触れた。


冷たい金属よりも先に、夫の指の温度が触れた。


妻の肩がわずかに震える。


「動くな」


「……はい」


夫はネックレスを妻の首へ回す。


細いチェーンが肌に乗る。


留め具を留める夫の指は、思ったより丁寧だった。


妻は息を詰めていた。


夫は何も言わない。


だが、その沈黙の中に、いつもの支配だけではないものがあった。


大切に扱われている。


そう感じてしまうほどに。


留め具が小さく鳴った。


夫は妻の正面へ戻る。


妻はそっと胸元に触れた。


ダイヤが鎖骨の下で光る。


「似合いますか」


妻が尋ねる。


夫はしばらく見ていた。


長い沈黙。


妻は少しだけ緊張する。


やがて夫は言った。


「悪くない」


それは夫にとって、かなり高い褒め言葉だった。


妻は目を伏せ、静かに微笑んだ。


「嬉しいです」


夫はソファに戻る。


妻も隣へ座った。


「旦那様」


「何だ」


「本当に、気まぐれなのですか」


夫は妻を見ない。


「しつこい」


妻はそれ以上聞かなかった。


だが、気になっていた。


なぜ今日なのか。


なぜ突然なのか。


夫は理由を言わない。


言わないだろう。


妻はそういう夫を知っている。


だから、ただ胸元のネックレスに触れた。


その光は、昨日査定された佐川のネックレスとはまるで違った。


佐川の思い出は五十円だった。


妻の首にあるこれは、金額など口に出す必要もない。


その差は、残酷なほど明確だった。


しかし妻は、佐川を思い出して笑うことはしなかった。


今だけは、夫から与えられたものの意味に、ただ静かに浸っていた。


夫は、そんな妻の横顔を見ていた。


言葉にはしない。


絶対にしない。


だが、夫の胸の内には、昨日のことが残っていた。


成島が夫を悪く言った。


妻は怒った。


自分への侮辱よりも、夫への侮辱を許さなかった。


――旦那様のことを悪く言うことだけは、断じて許さない。


相馬から聞いたその言葉が、夫の中に沈んでいた。


嬉しい。


そんな言葉は、夫に似合わない。


自分でも認めたくなかった。


だが、確かに嬉しかった。


妻が自分のために怒った。


自分を庇った。


自分の名誉を守ろうとした。


夫はこれまで、多くの人間を従わせてきた。


金で。

力で。

恐怖で。

契約で。


忠誠を誓う者はいた。

命令に従う者もいた。

媚びる者も、縋る者も、いくらでもいた。


だが、妻のそれは違う。


妻は夫を恐れている。

従っている。

夫の言葉ひとつで動く。


そのはずなのに。


夫のことになると、自分の立場すら忘れるように怒る。


夫はそれを、愚かだと思った。


同時に、手放せないとも思った。


妻を支配しているつもりだった。


家政婦だった女を選び、妻にし、名を与え、屋敷を与え、生活を与えた。


自分の手の中にいる女。


そう思っていた。


けれど、日に日に分からなくなる。


妻が自分を見上げるたび。

妻が当然のように世話を焼くたび。

妻が自分のために怒るたび。

妻が少ない言葉の裏を拾って微笑むたび。


支配しているはずの自分のほうが、心を奪われていく。


それが腹立たしかった。


だが、悪くなかった。


夫は短く言った。


「酒」


妻はすぐに立ち上がる。


「はい、旦那様」


いつもの動き。


迷いなく、夫のためにグラスを選び、酒瓶を手に取る。


ダイヤのネックレスが、妻の胸元で揺れた。


妻が酒を注ぐ。


「こちらでよろしいですか」


「ああ」


妻がグラスを差し出す。


夫は受け取らず、妻を見る。


妻はすぐに察した。


「私の方でグラスをお持ちしてよろしいでしょうか」


「分かっているなら聞くな」


妻は微かに微笑む。


「はい」


妻はグラスを持ったまま夫の隣に座り、口元へ運ぶ。


夫はその手から酒を飲んだ。


一口。


妻はグラスを引く。


「いかがですか」


「悪くない」


「よかったです」


夫は妻の首元を見る。


ダイヤが、サロンの灯りを受けて光っている。


夫は言った。


「外すな」


妻は少し驚いたように夫を見る。


「このネックレスを、ですか」


「ああ」


「眠る時も?」


「好きにしろ」


「では、大切に使わせていただきます」


夫は低く言った。


「お前の物だ」


妻の表情が柔らかくなる。


「はい」


「なくすな」


「絶対に」


「壊すな」


「はい」


「誰にも触らせるな」


妻は夫を見つめた。


その言葉の奥にある独占欲を、妻は感じ取っていた。


「旦那様」


「何だ」


「大切にします」


夫は返事をしなかった。


ただ、妻の手首を掴み、自分の方へ引き寄せた。


妻は逆らわず、夫の隣へ近づく。


夫の指が、妻のネックレスに触れた。


ダイヤではなく、その下の肌に。


「似合っている」


妻の目がわずかに見開かれた。


「……旦那様」


夫は目を逸らす。


「二度は言わない」


妻は静かに微笑んだ。


「はい。今ので十分です」


夫は不機嫌そうに眉を寄せる。


「笑うな」


「嬉しくて」


「面倒な女だ」


「申し訳ありません」


「謝るな」


妻は小さく笑みを抑える。


「はい」


夫は妻の顎に手をかけた。


「お前は」


「はい」


「余計なことを考えるな」


妻は首を傾げる。


「余計なこと、でございますか」


「成島のことも、佐川のことも」


妻は少しだけ黙った。


「旦那様にご不快な思いをさせたくありません」


「俺はお前ほど気にしていない」


「ですが」


「お前が決めたなら、それでいい」


妻の目が揺れる。


「……ご存じなのですか」


夫は答えない。


妻は一瞬で察した。


相馬から聞いたのだろう。


けれど夫は、知らないふりをしている。


妻も、それ以上は尋ねなかった。


「旦那様」


「何だ」


「ありがとうございます」


夫は低く言う。


「何に対してだ」


「私の判断を、許してくださったことに」


「お前の屋敷だ」


「はい」


「お前が裁け」


妻は静かに頷く。


「承知いたしました」


夫は妻を見つめる。


その顔には、いつもの冷たさがある。


けれど、妻には分かった。


今日の夫は、ほんの少しだけ違う。


妻の首元のダイヤを見ている目。

妻の声を聞く間。

手首を掴む指の強さ。


すべてが、普段よりわずかに深い。


妻は静かに言った。


「旦那様」


「何だ」


「私は、旦那様の妻です」


夫の目が動いた。


妻は続ける。


「ですから、旦那様を悪く言う者を許せません」


夫は黙る。


妻は少しだけ目を伏せた。


「それだけです」


長い沈黙が落ちた。


夫は、妻の顎から手を離さなかった。


やがて低く言う。


「馬鹿だな」


「はい」


「俺のために怒る必要はない」


「あります」


妻は即答した。


夫の目が細くなる。


「あるのか」


「はい」


「なぜ」


「私が嫌だからです」


妻の声は静かだった。


「旦那様を悪く言われるのは、私が嫌です」


夫はしばらく妻を見ていた。


そして、わずかに息を吐いた。


「本当に馬鹿だ」


「申し訳ありません」


「謝るなと言っている」


妻は微笑む。


「はい」


夫は妻を引き寄せた。


今度は、はっきりと抱きしめる。


妻の身体が夫の胸元に収まる。


ダイヤのネックレスが、夫のスーツに小さく触れた。


夫は妻の髪に口元を寄せる。


「お前は俺のものだ」


いつもの言葉。


支配の言葉。


だが今日だけは、それだけではなかった。


妻は夫の背に手を回す。


「はい、旦那様」


「離れるな」


「離れません」


「勝手に傷つくな」


妻は少しだけ目を伏せた。


「それは難しいです」


夫の腕に力が入る。


「なぜ」


「旦那様のことになると、勝手に腹が立ってしまうので」


夫は一瞬だけ黙った。


それから、低く笑った。


本当に微かな笑いだった。


妻は驚いて顔を上げようとした。


しかし夫が頭を押さえる。


「見るな」


「今、笑われましたか」


「笑っていない」


「旦那様」


「黙れ」


妻は夫の胸元で小さく笑った。


「はい」


夫は、妻を抱きしめたまま目を閉じた。


支配しているはずだった。


全部、自分の手の中にあると思っていた。


妻の暮らしも。

屋敷も。

立場も。

呼び方も。

触れるタイミングも。


すべて自分が決めている。


だが、妻の感情だけは違う。


妻が夫を思う気持ちは、夫が命じたものではない。


妻が自分のために怒ったことも。

自分を守ろうとしたことも。

自分を見上げて微笑むことも。


それは、夫の命令ではなかった。


だからこそ、夫の心はそこに囚われていく。


妻を支配しているはずなのに。


日に日に、自分のほうが妻に沈んでいく。


それを認める気はない。


言葉にするつもりもない。


だが、妻の首元で光るダイヤを見ると、夫は思った。


この女には、もっと与えたい。


もっと飾りたい。

もっと閉じ込めたい。

もっと自分のものだと示したい。


そして同時に。


誰にも触れさせたくない。


誰にも傷つけさせたくない。


夫は妻の髪に触れた。


「写真」


妻が顔を上げる。


「写真、ですか」


「撮るぞ」


妻は目を瞬かせる。


「旦那様からそうおっしゃるのは、二度目です」


「嫌か」


「いいえ」


妻は首を横に振る。


「とても嬉しいです」


夫は妻のネックレスを見る。


「それをつけて撮る」


妻はそっとダイヤに触れる。


「はい」


「棚に飾る」


「はい」


「佐川家のものがあった場所に」


妻の目が静かに細くなる。


「……はい、旦那様」


夫は低く言った。


「この屋敷は、お前のものだ」


妻は夫を見つめる。


「旦那様がくださったものです」


「なら堂々としていろ」


「はい」


「誰に何を言われても、下を見るな」


妻は少しだけ微笑む。


「旦那様がいらっしゃるので」


夫は視線を逸らした。


「また余計なことを言う」


「申し訳ありません」


「謝るな」


妻は今度こそ笑った。


夫は不機嫌そうに眉を寄せたが、妻を離さなかった。


サロンの灯りの中で、妻の首元のダイヤが揺れる。


それは、何かの記念日の贈り物ではなかった。


夫はそう言った。


気まぐれだと。


たまたま見かけただけだと。


けれど妻は、箱を胸元で抱えた時の自分の震えを忘れないだろう。


そして夫もまた、言葉にはしないまま覚えている。


妻が自分のために怒ったことを。


その夜、佐川は使用人用の廊下で、茶色いカーディガンを脱ぐよう命じられた。


外へは着ていくな。


夫の命令だった。


佐川はそれを聞いても、もう前ほど激しく怒れなかった。


ただ、カーディガンを畳みながら思った。


自分の思い出は五十円になった。


妻には、理由もなくダイヤが贈られる。


同じ屋敷の中で、同じ夜に。


その差を思い知らされることに、佐川は少しずつ慣れ始めていた。


慣れたくなどないのに。


それでも、心は疲れていく。


一方、サロンでは。


妻が夫の腕の中で、静かにダイヤへ触れていた。


夫は何も言わない。


ただ、妻を離さない。


そして胸の奥で、誰にも聞かせないまま思っていた。


この女だけは。


何があっても、自分のそばに置く。


それが支配なのか、執着なのか、愛なのか。


夫自身にも、もう分からなくなり始めていた。

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