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思い出の値段

次の日。


翌朝から、屋敷は冷たく整っていた。


昨日までの混乱は、もう表面からは消えている。


焼かれた写真の灰も、割られた花瓶の欠片も、跪いて泣いた声も、すべて掃除され、磨かれ、見えない場所へ追いやられていた。


廊下には新しい花が飾られている。


棚には夫婦の写真。


夫がほんのわずかだけ穏やかな目をして、妻がその隣に静かに立っている一枚。


かつて佐川家の記念品が置かれていた場所に、今はその写真だけが置かれていた。


それを見るたびに、佐川は胸の奥を針で刺されるようだった。


――ここは、もう私の家ではない。


そう分かっている。


分かっているはずなのに。


足が覚えている。


どの廊下がどこへ続くか。

どの窓から午後の光が一番綺麗に入るか。

どの階段の手すりに幼い頃の小さな傷が残っているか。

どの部屋で母が花を活けていたか。


すべて覚えている。


だからこそ、苦しかった。


佐川はもう、この屋敷の女主人ではない。


メイド見習いだった。


それも、かつて自分の家だった屋敷で。


新しい奥様に仕える、ただの下働き。


午前中。


妻は一人で屋敷を出た。


相馬が玄関で一礼する。


「奥様、お車をご用意いたしました」


「ありがとうございます、相馬さん」


「本日はどちらへ」


妻は手袋を整えながら、静かに答えた。


「少し、買い物へ」


「どちらの店でございましょう。必要であれば、外商を呼びますが」


妻は微かに笑った。


「今日は、そういう店ではありません」


「……承知いたしました」


相馬はそれ以上尋ねなかった。


車は屋敷を出て、都心の華やかな通りを抜けた。


高級ブティックが並ぶ街では止まらない。


妻はさらに奥へ進ませた。


古い商店街の端。


目立たない場所に、小さな古着屋があった。


看板は少し色褪せ、ガラス扉には手書きの値札が貼られている。


店内には、香水や新しい布の匂いではなく、古い衣類独特の乾いた匂いが漂っていた。


ラックに並ぶ服。

箱に詰められたスカーフ。

乱雑に積まれたセーター。

誰かが手放し、誰かに見向きもされず、ただ安値で売られるのを待っているものたち。


妻は、ゆっくりと店内を見て回った。


棚ではなく、奥のワゴンの中。


値引き品が雑に放り込まれている場所で、妻の指が止まった。


茶色いカーディガン。


それは、服というより、くたびれた布に近かった。


色は濁り、袖口には毛玉がいくつもついている。

肘の部分は薄くなり、裾は少し伸びて歪んでいた。

誰かに長く着られた末、飽きられ、捨てられ、最後にここへ流れ着いたような一枚。


他の服に押し潰され、ワゴンの底でくしゃくしゃになっていた。


妻はそれを二本の指でつまみ上げた。


まるで汚れ物を扱うように。


「……これでいいわ」


店員が近づいてくる。


「そちら、かなりお安くなってますよ。状態があまりよくないので」


妻は値札を見た。


五十円。


妻の口元が、わずかに上がった。


「これをください」


店員は少し驚いた。


「こちらだけでよろしいですか?」


「ええ」


「袋にお入れしますか?」


妻はカーディガンを見下ろす。


「いいえ。そのままで」


財布から硬貨を一枚出す。


五十円玉。


その小さな硬貨と引き換えに、みすぼらしい茶色のカーディガンは、妻の手に渡った。


妻は店を出ると、車へ戻った。


膝の上に置かれた茶色いカーディガンを見つめる。


その布は、座席の上で場違いだった。


高級車の革張りの座席。

磨き抜かれた内装。

静かな空気。


そこに置かれた五十円の古着は、見るからに惨めだった。


妻はそれを見ながら、静かに考えていた。


佐川は、まだ分かっていない。


成島も同じ。


言葉では従う。

頭も下げる。

奥様と呼ぶ。


けれど心の底では、まだこの屋敷を佐川家のものだと思っている。


自分たちは奪われた。

本来なら自分が上にいるべきだった。

妻は元家政婦の分際で、運よく夫に選ばれただけ。


そう思っている。


妻は、それが面白くなかった。


怒りというほど熱くはない。


むしろ冷めていた。


冷めているからこそ、確実に潰したかった。


心の中で何を思おうと自由。


けれど、鏡を見た時。

廊下を歩いた時。

使用人たちの前に立った時。


佐川自身が、もう何者でもないのだと思い知らされるように。


目に見える形で、変えなければならない。


昨日、成島はメイド長の制服を奪われた。


なら、佐川にも必要だった。


かつての女主人らしさを剥がすための、見える印が。


妻は茶色のカーディガンを指先で撫でた。


「ちょうどいいわ」


その声は、車内に小さく落ちた。



妻の部屋。


帰宅すると、妻はコートを脱ぎながら言った。


「佐川を呼んでください」


控えていたメイドが一礼する。


「かしこまりました」


しばらくして、佐川が妻の部屋へ来た。


扉の前で一度息を整える。


この部屋は、以前は佐川家の客間の一つだった。


今は妻の私室に変わっている。


壁紙も、カーテンも、家具もすべて替えられ、佐川家の名残はない。


それでも佐川には分かる。


この窓から見える庭の角度。

朝に入る光の向き。

昔、母が来客を迎える時に使っていた部屋。


分かってしまう。


だから余計に、入るたびに胸が苦しかった。


佐川はノックした。


「奥様。佐川でございます」


中から声がする。


「入りなさい」


「失礼いたします」


佐川が入室すると、妻は鏡台の前に立っていた。


手には、茶色いカーディガン。


二本の指でつまむように持っている。


佐川はそれを見て、かすかに眉を動かした。


あまりにもみすぼらしい。


屋敷の中に置くものとは思えないほど。


妻は佐川の反応を見逃さなかった。


「佐川」


「はい」


「あなたに贈り物です」


佐川は一瞬、聞き間違いかと思った。


「私に、でございますか」


「ええ」


妻はゆっくり歩み寄る。


そして、佐川の目の前で、そのカーディガンを床へ落とした。


ぱさり、と乾いた音がした。


次の瞬間、妻のヒールがその上に乗る。


佐川の目が見開かれた。


妻は表情を変えず、カーディガンを踏みつける。


布が床に押しつけられ、毛玉だらけの袖が歪む。


一度。

二度。


それから妻は、ヒールの先で軽く蹴った。


カーディガンは床を滑り、佐川の足元へ転がった。


「拾いなさい」


佐川の喉が詰まる。


「……はい」


膝を折り、床からカーディガンを拾う。


指に触れる生地は薄く、古く、どこか湿ったように重かった。


妻は静かに言う。


「掃除の時は、それを着用しなさい」


佐川は顔を上げた。


「これを、でございますか」


「ええ」


「奥様、掃除の際はメイド服がございます」


「知っているわ」


妻は微笑んだ。


「その上から羽織りなさい」


佐川は言葉を失った。


このみすぼらしい服を。


メイド服の上に。


屋敷の中で。


他の使用人たちの前で。


妻の前で。


「今、着て」


佐川は小さく息を吸った。


「……今、でございますか」


「似合うかどうか、見たいの」


逃げ道はなかった。


佐川は震える指でカーディガンの袖を通した。


袖口の毛玉が手首に触れる。


薄い茶色が、黒と白のメイド服を一気に貧相に見せる。


サイズも合っていない。


肩は少し落ち、裾はだらしなく歪む。


鏡に映った自分の姿を見て、佐川は息を止めた。


そこにいたのは、かつてこの屋敷で客を迎えていた女主人ではなかった。


疲れた下働き。


古びた服を押しつけられ、それでも拒めない女。


妻はゆっくり佐川へ近づいた。


そして、佐川の顔を眺めた。


顎の線。

白髪混じりの髪。

屈辱に耐えようとして震える唇。


妻は指先で佐川の顎を軽く持ち上げるように触れた。


「似合うわ」


佐川の目が揺れる。


「……ありがとうございます」


「本当に似合っている」


妻は佐川を上から下まで眺めた。


「今のあなたに、よく合っているわ」


佐川は拳を握った。


妻は冷たく続ける。


「佐川。あなたと成島は、自分たちの立場を理解していない」


「……」


「頭は下げる。奥様とも呼ぶ。命令にも従う」


妻は佐川のカーディガンの袖をつまんだ。


「けれど、心のどこかでまだ思っているのでしょう」


佐川は身体を強張らせる。


妻の声は静かだった。


「この屋敷は本当は佐川家のものだと」


「……そのようなことは」


「思っていないと言える?」


佐川は言葉に詰まった。


言えなかった。


言えば、嘘になる。


妻はその沈黙を見て、微笑んだ。


「ほら」


佐川の頬が赤くなる。


妻は続ける。


「だから、目に見えるところから変えることにしたの」


「……目に見えるところ」


「ええ。成島はメイド長の制服を脱いだ。あなたには、このカーディガンを着てもらう」


妻は鏡を指した。


「見なさい」


佐川は嫌々ながら、鏡を見る。


茶色い古着を羽織った自分。


惨めだった。


あまりにも惨めだった。


妻は佐川の背後に立ち、鏡越しに言う。


「自分の姿を見るたびに思い出しなさい」


「……何を、でございますか」


「あなたはもう、この屋敷の主人ではない」


佐川の喉が震えた。


妻はさらに言う。


「前の所有者でもない」


「……」


「旦那様に借金を返すため、ここで働かせてもらっているメイド見習いよ」


佐川は目を伏せる。


「承知しております」


「まだ足りないわ」


妻の声に、ほんの少しだけ冷たい楽しさが滲んだ。


「だから、この服を着せるの」


佐川はカーディガンを握りしめた。


妻は尋ねる。


「いくらだと思う?」


佐川は一瞬、理解できなかった。


「……このカーディガンが、でございますか」


「ええ」


佐川は答えたくなかった。


けれど、妻の視線が逃がさない。


「……古着でございますから、千円ほどでしょうか」


妻は目を丸くした。


そして、笑った。


上品にではない。


本当に可笑しくてたまらないというように。


「千円?」


佐川の顔が強張る。


妻は口元に手を当て、肩を震わせた。


「佐川、あなた、本当にまだ分かっていないのね」


「申し訳ございません」


「千円もするわけがないでしょう」


妻は笑いながら言った。


「五十円よ」


佐川は固まった。


「……五十円」


「ええ。ワゴンの底に押し込まれていたの。誰にも選ばれず、雑に扱われて、五十円」


妻はカーディガンの裾をつまむ。


「今のあなたにぴったり」


佐川の目に涙が浮かぶ。


それでも泣かなかった。


泣けば、さらに喜ばせるだけだと分かっていた。


妻は言った。


「ボロ雑巾みたい」


佐川の肩が震える。


妻はさらに楽しそうに続ける。


「昨日、佐川家の家紋入りのハンカチを雑巾にしたでしょう」


「……はい」


「今日はあなたが、ボロ雑巾みたいね」


佐川は深く頭を下げた。


「……掃除の際に、着用いたします」


「ええ。そうして」


妻は満足そうに頷く。


「午後は出かけます」


佐川は顔を上げた。


「査定、でございますか」


「そう」


妻は鏡台の上に置かれた小さな箱を見る。


佐川の夫からの初めての贈り物だったネックレス。


「その格好のまま来なさい」


佐川は息を呑む。


「この格好で、外へ……」


「何か問題がある?」


佐川は唇を噛んだ。


「……ございません」


「よろしい」


妻は冷たく微笑む。


「あなたの大切な思い出が、いくらになるのか。楽しみね」


佐川は答えなかった。


答えられなかった。



午後。


佐川は茶色のカーディガンを着たまま、妻に付き添って査定のため屋敷を出た。


玄関に並んだ使用人たちの視線が刺さる。


誰も笑わない。


誰も何も言わない。


それが逆に残酷だった。


見てはいけないものを見るように、目を伏せるメイド。

気づかないふりをする使用人。

相馬だけは、いつも通り無表情だった。


成島は列の端で立っていた。


佐川の姿を見た瞬間、顔を歪める。


けれど、何も言えない。


昨日、メイド長の役職を解かれたばかりだった。


今の成島に、佐川を庇う力はない。


佐川は俯いたまま、妻の後ろに続いた。


車の中でも、妻は楽しそうだった。


膝の上にはネックレスの箱。


「佐川」


「はい」


「いくらになると思う?」


佐川は少しだけ顔を上げた。


「……分かりません」


「夫からの初めての贈り物なのでしょう?」


「はい」


「なら、それなりの値段はしたのではないの?」


佐川はその言葉に、ほんの少しだけ救われるような気がした。


そうだ。


あれは夫から初めて贈られたものだった。


夫がまだ、佐川家の未来を語っていた頃。


事業が成功する。

家を守る。

佐川家をもっと大きくする。


そんな夢を口にしていた頃。


彼は少し照れた顔で、あのネックレスを渡した。


「似合うと思って」


その言葉だけは、まだ覚えている。


だから佐川は信じたかった。


あのネックレスには、価値があるはずだと。


少なくとも、みすぼらしい五十円のカーディガンとは違うと。


佐川は小さく答えた。


「……詳しくは分かりませんが、それなりの品だと思います」


妻は微笑んだ。


「そう」


その声は優しくない。


期待しているようで、どこか獲物が罠にかかるのを待っているようだった。


質屋は、古い通りにあった。


派手ではないが、長く商売をしているような店。


妻が入ると、店主はすぐに立ち上がった。


「いらっしゃいませ」


妻の服装を見て、ただの客ではないと悟ったのだろう。


佐川はその後ろに控えた。


茶色いカーディガンを着たまま。


店主の視線が一瞬だけ佐川へ向いた。


その視線が、佐川には痛かった。


妻は箱を差し出す。


「こちらの査定をお願いします」


「かしこまりました」


店主は手袋をはめ、箱を開けた。


中からネックレスを取り出す。


ライトにかざし、ルーペで石を見て、金具を確かめる。


佐川は息を止めた。


妻は椅子に座り、涼しい顔でその様子を眺めている。


店主の表情が、少しずつ変わっていった。


最初は丁寧だった。

次に困惑し。

最後には、気まずそうになった。


妻はそれを見逃さない。


「どうですか?」


店主は慎重に答えた。


「率直に申し上げてもよろしいでしょうか」


「ええ」


「こちらは……宝飾品としての価値は、ほとんどございません」


佐川の耳が、きんと鳴った。


「……え?」


思わず声が漏れる。


店主は佐川を見て、申し訳なさそうに言う。


「石は天然石や宝石ではなく、装飾用のガラスに近いものです。金属部分も貴金属ではありません」


佐川は小さく首を横に振った。


「そんなはずは……」


妻が口元に手を当てる。


「では、おいくら?」


店主は言いにくそうにした。


「正直、買い取り自体が難しいお品です」


妻は楽しそうに首を傾げる。


「頑張ったら?」


「頑張りましても……」


店主は少し間を置いた。


「五十円、ほどです」


沈黙。


佐川は、その数字の意味を理解できなかった。


五十円。


五十円?


その瞬間、妻が笑った。


最初は小さく。


けれどすぐに、堪えきれないように声が漏れた。


「五十円……」


妻は笑いながら佐川を見る。


「佐川」


佐川は青ざめた顔で立っていた。


「……はい」


「すごいわ」


「……」


「今日あなたにあげた茶色のカーディガンと同じ値段」


佐川の身体が揺れた。


妻は本当に楽しそうだった。


「夫からの初めての贈り物が、ワゴンの底にあったボロい古着と同じ」


店主は気まずそうに目を伏せている。


「申し訳ございません。お売りになりますか? お持ち帰りになることもできますが」


佐川はわずかに顔を上げた。


持ち帰る。


その言葉に、一瞬だけ縋りつきそうになった。


けれど、妻が先に答えた。


「売ります」


佐川は息を呑む。


「奥様……」


妻は佐川を見ずに言った。


「持ち帰ってもゴミになるだけでしょう」


「ですが、それは……」


「五十円になるなら、借金が五十円減ります」


佐川は言葉を失った。


店主が五十円玉を出す。


小さな硬貨が、トレーの上に置かれた。


軽い音。


それだけだった。


佐川の数年分の思い出が、たった一枚の硬貨になった音。


妻は五十円玉をつまみ上げ、佐川の前にかざした。


「見なさい」


佐川は震えながら見る。


「これが、あなたの思い出の値段」


佐川の目に涙が滲んだ。


妻は笑ったまま言う。


「今日は忘れられない日になったわね」



帰宅後、サロン


屋敷へ戻った時には、日が傾き始めていた。


サロンには夫がいた。


黒いソファに深く腰掛け、書類を片手にしている。


テーブルにはまだ酒は置かれていない。


窓の外は夕暮れで、部屋の中には沈んだ光が差し込んでいた。


妻が入ると、夫は書類から目を上げた。


「戻ったか」


「はい、旦那様」


夫の視線が佐川へ向く。


佐川は部屋の隅で跪いた。


茶色いカーディガンを着たまま。


その姿を見ても、夫は驚かない。


ただ、値踏みするように一瞥しただけだった。


「それは何だ」


妻が微笑む。


「佐川への贈り物です」


「悪趣味だな」


「似合うと思いませんか?」


夫は佐川を見る。


短く言った。


「みすぼらしい」


佐川の肩が震える。


妻は満足そうに笑う。


「私もそう思います」


夫はそれ以上興味を示さず、妻を見る。


「そういえば、いくらだった」


妻はすぐには答えなかった。


夫の隣へ歩み寄り、楽しそうに首を傾げる。


「旦那様はいくらだと思われますか?」


夫は妻の表情を見た。


隠しきれない笑い。

口元に残る愉悦。

わざと答えを焦らしている様子。


夫はすぐに察した。


「高くはなかったな」


「はい」


「十万にもならなかったのか」


妻は口元を押さえた。


「十万どころではありません」


「一万か」


妻は首を横に振る。


「いいえ」


「千円」


妻は笑い始めた。


「旦那様」


「何だ」


「五十円です」


その瞬間、サロンの空気が冷たく固まった。


佐川は跪いたまま、目を閉じた。


夫はしばらく無言だった。


驚いているのではない。


その金額を、頭の中で冷静に処理しているだけだった。


やがて夫は言った。


「五十円」


「はい」


妻は楽しそうに続ける。


「今日、佐川に着せたカーディガンと同じ値段でした」


夫はもう一度、佐川のカーディガンを見る。


「それも五十円か」


「ええ。古着屋のワゴンの中で、雑に扱われていたものです」


「相応だな」


佐川の喉が震えた。


夫の言葉には、嘲笑すらない。


ただ、事実を確認するような冷たさだけがあった。


それが一番残酷だった。


妻は夫に近づき、五十円玉をテーブルに置いた。


小さな硬貨が、硬い音を立てる。


「これが査定額です」


夫はそれを一瞥した。


そして、相馬を呼んだ。


「相馬」


扉のそばに控えていた相馬が一歩前へ出る。


「はい」


「借金は五十円だけ減らしてやれ」


「承知いたしました」


佐川は顔を上げた。


「……五十円、だけ」


声が漏れた。


夫の目が佐川へ向く。


「他に何がある」


佐川は言葉を詰まらせる。


夫は冷たく続けた。


「査定額は五十円だった」


「……はい」


「なら五十円だ」


「……」


「思い出を上乗せしろとでも言うつもりか」


佐川は床に手をついた。


「申し訳、ございません」


「謝罪も価値にならない」


夫は淡々と言った。


「五十円分、減らす。それだけだ」


相馬が静かに一礼する。


「帳簿に反映いたします」


妻は微笑んでいた。


「よかったわね、佐川」


佐川は震える声で答える。


「……はい」


「旦那様のご厚意で、借金が減ったわ」


佐川は夫へ向き直り、深く頭を下げた。


「……ありがとうございます、ご主人様」


夫は何の感情もなく言った。


「働け」


佐川は床に額を近づける。


「はい」


それだけだった。


佐川の夫からの初めての贈り物。


それは、五十円分の借金返済になった。


それ以上でも、それ以下でもない。


妻は夫の隣へ座る。


「旦那様」


「何だ」


「本当に驚きました」


「五十円にか」


「はい」


妻は笑いを堪えるように言った。


「あのカーディガンと同じなのです」


夫は佐川を見る。


「ちょうどいいだろう」


妻は目を細める。


「ええ。私もそう思います」


佐川は、床を見つめていた。


視線を上げられなかった。


目の前にあるのは、新しい絨毯。


佐川家の頃にはなかったもの。


妻が選んだのだろう。


柔らかく、美しく、この屋敷の新しい空気に合っている。


その上に跪く自分は、ひどく場違いだった。


茶色い五十円のカーディガン。

五十円になったネックレス。

五十円だけ減った借金。


佐川は、自分の中の何かが少しずつ削られていくのを感じた。


昨日までは、怒りがあった。


屈辱があった。


憎しみがあった。


まだ、心のどこかで思っていた。


本当は私が奥様だったのに。

この屋敷は佐川家のものだったのに。

あの女は元家政婦の分際で。


けれど今日、その怒りの奥に、別のものが混ざり始めていた。


諦め。


まだ小さい。


まだ認めたくない。


けれど確かに、胸の底で冷たく広がっていく。


どれだけ叫んでも、写真は灰になった。

どれだけ縋っても、花瓶は戻らない。

どれだけ大切にしていたと言っても、ネックレスは五十円だった。

どれだけ自分が元の女主人だと思っても、今は五十円のカーディガンを着せられて跪いている。


それが現実だった。


妻は佐川を見た。


「佐川」


「はい、奥様」


「あなたは、まだ自分が何かを失ったと思っているのでしょうね」


佐川は答えられなかった。


妻は続ける。


「でも違うわ」


静かな声だった。


「あなたはもう、失うほどのものを持っていないの」


佐川の目が揺れる。


「……」


「残っているのは、借金と労働だけ」


妻は微笑んだ。


「だから、働きなさい」


佐川は震えながら頭を下げる。


「……承知いたしました」


夫は立ち上がった。


「下げろ」


相馬が一礼する。


「佐川、下がりなさい」


佐川は立ち上がろうとして、足がふらついた。


茶色のカーディガンの裾が揺れる。


それを見た妻が、静かに言った。


「佐川」


佐川は振り返る。


「はい」


「そのカーディガン、大切にしなさい」


佐川の顔が強張る。


妻は冷たい笑みを浮かべた。


「あなたの夫の贈り物と同じ価値なのだから」


佐川は、もう何も言えなかった。


深く頭を下げる。


「……はい、奥様」


部屋を出る時、佐川は一度だけ、サロンの棚を見た。


そこには夫婦の写真が飾られている。


夫がわずかに穏やかな表情をしている、妻のお気に入りの写真。


その下のテーブルには、五十円玉が置かれていた。


借金から引かれる、たった五十円。


佐川は、その光景を忘れられないと思った。


扉が閉まる。


廊下に出ると、成島が待っていた。


成島は佐川の姿を見て、何か言いかけた。


だが、言葉にならなかった。


佐川も何も言わない。


ただ、茶色いカーディガンの袖を握りしめた。


「……五十円だったわ」


佐川が呟く。


成島の顔が歪む。


「ネックレスが、ですか」


佐川は頷く。


「このカーディガンと同じ」


成島は息を詰まらせる。


「そんな……」


佐川は笑おうとした。


けれど、笑えなかった。


「借金は、五十円だけ減ったそうよ」


成島は目を伏せる。


「佐川さん……」


「母の花瓶も、父の肖像も、家族写真も、夫のネックレスも」


佐川は廊下の先を見つめた。


「全部、なくなった」


「……」


「でも、借金だけは残っているのね」


成島は答えられない。


佐川は、ふらりと壁に手をついた。


この壁も、佐川家の時代からあった。


けれど、壁紙は替えられている。


触れても、昔の感触はしなかった。


佐川は目を閉じる。


悔しい。


妬ましい。


妻が憎い。


夫が恐ろしい。


相馬が冷たい。


成島の無力さも苦しい。


それでも、その全部の奥で、ほんの少しだけ、諦めが息をし始めていた。


ここで逆らえば、さらに奪われる。


ここで泣けば、さらに踏まれる。


ここで思い出に縋れば、それは五十円の価値として笑われる。


佐川は茶色いカーディガンの袖を見た。


毛玉だらけの袖。


ボロ雑巾みたい。


妻の声が、耳の奥で響く。


佐川は小さく呟いた。


「掃除をしなきゃ」


成島が顔を上げる。


「今からですか」


「ええ」


「少し休まれては」


佐川は首を横に振る。


「休んでも、何も戻らないもの」


その声には、昨日までより少しだけ力がなかった。


怒りが消えたわけではない。


憎しみが消えたわけでもない。


けれど、何かが折れかけている。


成島はそれに気づいた。


「佐川さん……」


佐川は答えず、廊下を歩き出した。


茶色いカーディガンを着た背中は、かつての女主人のものではなかった。


この屋敷の中で、佐川は日に日に自分の立場を思い知らされていく。


床を磨くたびに。

棚の夫婦写真を見るたびに。

使用人たちの視線を感じるたびに。

妻から呼び捨てにされるたびに。


そしてこれからも、佐川の苦悩と妬みは続く。


けれど同時に。


ほんの少しずつ、佐川は理解し始めていた。


この屋敷ではもう、自分の過去に価値はない。


価値があるのは、夫が認めたものだけ。


妻が望んだものだけ。


それ以外は、五十円にもならない。


そうして、かつて佐川家の女主人だった女は、五十円のカーディガンを着たまま、静かに床を磨き始めた。

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