灰になった佐川家
五月下旬、引っ越しの日
二週間後。
五月の終わりの空は、薄く白んでいた。
都内の大豪邸は、以前よりもずっと静かになっていた。
静か、というより。
空っぽになっていた。
佐川家の肖像画は消えた。
古びた骨董品も、重い家具も、代々受け継がれてきた銀器も、母が大切にしていた花瓶も、何も残っていない。
壁には新しい絵が掛けられ、床には淡い色の絨毯が敷かれ、応接室の家具もすべて新調されていた。
どれも高級だった。
けれど、以前のような重苦しい威厳はない。
この屋敷は、もう佐川家のものではない。
それを誰よりもはっきり告げていたのは、エントランスホールの棚だった。
そこには、一枚の写真が飾られていた。
夫婦の写真。
まだ本格的に撮ったものではない。
引っ越しの準備中、相馬が何気なく撮ったものだった。
妻が夫の隣に立ち、少しだけこちらを見ている。
夫はいつものように無表情に近いが、ほんのわずか、目元が穏やかだった。
他人なら気づかない。
けれど妻には分かる。
それは、夫が自分にだけ見せる、ほとんど見えないほど小さな柔らかさだった。
妻はその写真の前で立ち止まっていた。
「……こちらを飾ってくださったのですね」
相馬が一礼する。
「奥様のお気に入りと伺いましたので」
「ええ。好きです」
妻は写真を見つめたまま、静かに言う。
「旦那様が、少しだけ優しいお顔をされていますから」
背後にいた佐川は、その言葉に息を詰めた。
優しい顔。
あの男が。
肖像画を踏みつけ、花瓶を叩き割り、佐川家の歴史を跡形もなく消した男が。
妻にとっては、優しい顔をする人間なのだ。
その事実が、佐川には理解できなかった。
いや、理解したくなかった。
その時、夫が玄関から入ってきた。
黒いスーツ。
黒いシャツ。
いつものように、感情のない顔。
相馬が即座に頭を下げる。
「ご主人様。最終搬入、完了しております」
夫は短く答えた。
「そうか」
妻が振り返る。
「旦那様」
夫は妻の前まで来ると、棚の写真を見た。
「これか」
「はい」
「悪くない」
妻は少しだけ目を細めた。
「旦那様からそのように言っていただけるなら、飾った甲斐があります」
夫は写真を見たまま言った。
「まだ少ない」
「写真ですか?」
「ああ」
妻は瞬きをした。
「旦那様が、写真を撮ろうとおっしゃるのですか」
夫は妻を見る。
「不満か」
「いいえ」
妻は静かに微笑んだ。
「とても嬉しいです」
夫は少しだけ顎を引く。
「なら撮る」
「いつにいたしましょう」
「お前が決めろ」
「私が、ですか?」
「ああ」
夫は写真の額縁に視線を戻す。
「この屋敷に飾るなら、俺たちのものだけでいい」
妻は一瞬、黙った。
それから、丁寧に頭を下げた。
「はい、旦那様」
佐川は、その背後で爪が手のひらに食い込むほど拳を握った。
この棚には、佐川家の記憶があった。
今は、夫婦の写真。
これからもっと増えるのだという。
佐川家が消えた場所に、二人の幸福が置かれていく。
その幸福が、佐川には耐えがたいほど眩しかった。
⸻
翌朝。
食堂には、柔らかな朝の光が差し込んでいた。
長いテーブルは撤去され、夫婦二人が向かい合うには広すぎない、落ち着いた大きさのテーブルに替えられていた。
白いクロス。
銀のカトラリー。
新しい食器。
薄く湯気の立つスープ。
焼きたてのパン。
果物。
コーヒー。
すべてが整えられていた。
妻は、夫の正面に座っていた。
けれど、その姿勢にはわずかな緊張がある。
夫はそれに気づいていた。
「硬い」
妻は顔を上げた。
「申し訳ありません」
「謝ることか」
「いえ……」
妻は膝の上で指を重ねる。
「旦那様と一緒に朝食をいただくことに、まだ慣れておりませんので」
夫はナイフを置いた。
「今まで食っていただろう」
「マンションでも、時々は」
「なら同じだ」
妻は少しだけ困ったように笑った。
「違います」
「何が」
「以前は、旦那様のお食事を整えることが先でした」
夫は黙って妻を見る。
妻は続けた。
「旦那様が召し上がるものを準備し、お茶を淹れ、食器を片づけて……それが自然でした」
「家政婦の頃の癖か」
その言葉は、刃のように直接的だった。
けれど妻は傷ついた様子を見せなかった。
静かに頷く。
「はい」
夫は妻を見る。
「結婚して三年経つ」
「はい」
「まだ抜けないのか」
「抜けないのではなく……」
妻は少しだけ目を伏せた。
「旦那様のお世話をすることが、私にとって自然なのです」
夫はしばらく黙った。
二人の間に、食器の小さな音だけが落ちる。
やがて夫が言った。
「なら、座って世話をしろ」
妻は顔を上げる。
「座って、ですか?」
「ああ」
「それは難しいです」
「慣れろ」
短い命令だった。
妻は静かに微笑む。
「はい、旦那様」
夫はコーヒーに手を伸ばす。
妻が反射的に立ち上がりかけた。
夫の目が動く。
「座れ」
妻は動きを止めた。
「……はい」
夫は自分でカップを取った。
妻はそれを見つめる。
「旦那様がご自分で」
「手はある」
「そういう問題ではありません」
「ならどういう問題だ」
妻は少し考えた。
「私の役目です」
夫はカップを置く。
「俺が決める」
「はい」
「お前の役目は、俺の隣にいることだ」
妻は息を止めた。
夫は淡々と言う。
「家政婦ではない」
「……はい」
「妻だ」
妻の指先が震えた。
「はい、旦那様」
佐川は食堂の端で控えていた。
その会話を聞いていた。
夫が妻を家政婦ではないと言った。
妻だと。
それは当たり前のことのはずだった。
けれど、佐川には痛かった。
妻は三十六歳。
佐川とたった三歳しか違わない。
夫は二十九歳。
妻のほうが年上だ。
特別若いわけでもない。
特別華やかな美貌があるわけでもない。
社交界で育ったわけでもない。
名家の娘でもない。
それなのに。
夫はこの女のために屋敷を買い、過去を消し、棚に写真を飾ろうとしている。
――なぜ。
佐川の胸の奥で、暗い感情が膨らんだ。
なぜ、あの女なの。
元家政婦の女が、どうして。
妻は朝食を終えると、夫のカップをそっと確認した。
「おかわりはいかがですか」
「要らない」
「かしこまりました」
「今日は戻りが遅い」
「何時頃でしょうか」
「分からん」
「夕食はお待ちしても?」
夫は少しだけ妻を見る。
「好きにしろ」
「では、お待ちしております」
「無理はするな」
妻は小さく頷く。
「はい」
夫は立ち上がった。
妻もすぐに立ち上がり、夫の鞄を手に取る。
夫はそれを止めなかった。
食堂を出ると、廊下には使用人たちが整列していた。
相馬を先頭に、メイドたちが左右に並ぶ。
成島も佐川も、その列の中にいた。
かつてメイド長として堂々と立っていた成島は、今もまだその役職を保っている。
だが、その顔には疲労と屈辱が滲んでいた。
夫は歩きながら、誰にも目を向けない。
妻が半歩後ろをついていく。
手には夫の鞄。
玄関を出ると、運転手がすでに高級車の扉を開けていた。
夫が車に乗り込む。
妻は鞄を両手で差し出した。
「旦那様、お鞄です」
夫は受け取る。
「ああ」
「お気をつけて行ってらっしゃいませ」
「留守を頼む」
妻は軽く目を伏せた。
「はい」
夫は一瞬だけ妻を見る。
「無理をするな」
「承知しております」
「嘘をつくな」
妻は少しだけ困ったように微笑む。
「……気をつけます」
夫はそれ以上言わず、車内に身を引いた。
扉が閉まる。
車が走り出す。
妻は車が門を出るまで、静かに見送っていた。
使用人たちも一斉に頭を下げる。
佐川は、頭を下げながら、妻の横顔を見ていた。
凛としている。
静かで、乱れがない。
だが、その立ち姿に女主人としての余裕があることが、佐川には腹立たしかった。
車が見えなくなると、妻は振り返る。
「相馬さん」
「はい、奥様」
「佐川家のものが、本当に残っていないか、改めて確認をお願いいたします」
相馬は深く頭を下げる。
「承知いたしました」
成島の肩が、小さく震えた。
妻は続ける。
「屋敷内だけではなく、使用人の私物も含めて確認してください」
佐川が顔を上げた。
「私物も、でございますか」
妻は佐川を見る。
昨日から、呼び方が変わったままだった。
「佐川」
佐川は息を詰める。
「はい」
「この屋敷に佐川家のものは残さないと、旦那様がお決めになりました」
「……はい」
「あなたの部屋も、この屋敷の中です」
佐川は唇を噛んだ。
「承知いたしました」
妻は成島を見る。
「成島」
「はい、奥様」
「あなたもです」
成島は深く頭を下げた。
「……かしこまりました」
妻は静かに言った。
「隠し事は、旦那様がお嫌いです」
相馬が一礼する。
「ただちに確認いたします」
妻は頷いた。
「お願いします」
その声は丁寧だった。
だが、佐川には命令にしか聞こえなかった。
いや。
実際、命令だった。
⸻
夜
夫が帰宅したのは、夜が深くなり始めた頃だった。
玄関ホールには、妻と相馬、使用人たちが並んでいた。
扉が開く。
夫が入ってくる。
黒いコートに、冷えた夜気をまとっていた。
妻が一歩前へ出る。
「お帰りなさいませ、旦那様」
夫は妻を見る。
「ああ」
妻は夫のコートへ手を伸ばす。
「お預かりいたします」
夫は無言で任せた。
妻が慣れた手つきでコートを受け取り、相馬に渡す。
相馬がそれを持つ。
「お疲れ様でございました」
夫は相馬には答えない。
妻だけを見て言った。
「食ったか」
「旦那様をお待ちしておりました」
夫の目が少しだけ細くなる。
「無理はするなと言った」
「はい」
「聞いていないな」
「申し訳ありません」
「謝るな」
妻は小さく目を伏せる。
「では、次から気をつけます」
「そうしろ」
言葉は冷たい。
だが、妻だけはそこに怒りではないものを読み取っていた。
佐川はその後ろで見ていた。
まただ。
夫は妻には言葉をかける。
短くても。
冷たくても。
そこには確かに関心がある。
佐川や成島に向ける声とは違う。
佐川は、自分でも醜いと思うほどの嫉妬を抱いていた。
⸻
夕食後。
サロンには灯りが落とされ、壁の燭台が淡く揺れていた。
新しく入れ替えられた黒革のソファ。
磨かれた丸テーブル。
棚には、夫婦の写真が一枚だけ飾られている。
かつて佐川家の記念品が置かれていた場所だった。
夫はソファに座っていた。
足を組み、無表情のままグラスを見ている。
妻はその隣に立ち、酒瓶を手にしていた。
「こちらでよろしいですか」
「ああ」
妻はグラスに琥珀色の酒を注ぐ。
手つきは丁寧で、慣れている。
結婚してからも、妻は夫の身の回りの世話を当然のように続けていた。
夫はそれを拒まない。
拒まないどころか、当然のように受け取る。
妻はグラスを差し出した。
「どうぞ」
夫は受け取らなかった。
代わりに、妻を見る。
「飲ませろ」
サロンの空気が止まった。
控えていた数人のメイドが、一瞬だけ目を伏せる。
佐川もそこにいた。
成島も控えていた。
妻は驚いた様子もなく、静かに頷く。
「はい、旦那様」
妻はグラスを持ち直し、夫の口元へ運んだ。
夫はわずかに顎を上げる。
妻はまるで侍女のように、慎重に角度を調整し、夫に酒を含ませた。
夫は喉を動かす。
妻はグラスを引く。
「いかがですか」
「悪くない」
「よかったです」
夫は妻の手首を掴んだ。
強くはない。
だが、逃がさない握り方だった。
「座れ」
「はい」
妻は夫の隣に腰を下ろした。
夫は妻の手を掴んだまま、もう一度言う。
「もう一口」
妻は頷き、再びグラスを差し出す。
夫はそれを妻の手から飲む。
その光景は、親密だった。
同時に、支配的だった。
妻はそれを拒まない。
むしろ静かに受け入れている。
佐川は見ていられなかった。
なぜ。
あんな扱いを受けて、なぜあの女は幸せそうなのか。
なぜ夫は、それを当然のように許しているのか。
その時、サロンの扉が静かに開いた。
相馬が入ってくる。
手には黒い革のファイル。
その後ろに、メイドが二人。
メイドたちは銀盆にいくつかの品を載せていた。
妻が顔を上げる。
「相馬さん」
相馬は深く頭を下げる。
「奥様。ご命令いただいた確認が完了いたしました」
夫が相馬を見る。
「何かあったか」
「はい」
サロンの空気が一段冷える。
佐川の胸が嫌な音を立てた。
相馬は淡々と言った。
「佐川の部屋から、佐川家の家紋入りのハンカチが一点。それから、ネックレスが一点、見つかりました」
佐川の顔が真っ青になった。
妻が佐川を見る。
「佐川」
佐川は震えながら一歩前に出た。
「……はい」
相馬は続ける。
「成島の部屋からは、佐川家の家族と使用人が共に写った集合写真が見つかっております」
成島が息を呑んだ。
「相馬様、それは……」
夫が低く言う。
「持ってこい」
メイドたちが銀盆を差し出す。
そこには、折り畳まれた白いハンカチ。
隅に佐川家の家紋が刺繍されている。
そして、小さな箱に収められたネックレス。
古くはない。
おそらく佐川の夫から贈られたものだろう。
今の夫婦が身に着ける宝飾品に比べれば、控えめなものだった。
もう一つの盆には、一枚の古い写真。
佐川家の家族と使用人たちが並んでいる。
若い頃の佐川。
成島。
佐川の両親。
数人の使用人。
その全員が、かつてこの屋敷にいた。
夫は写真を見た。
表情は変わらない。
「不要だ」
それだけだった。
相馬が即座に頭を下げる。
「処分いたします」
佐川が叫ぶように言った。
「お待ちください!」
妻の目が冷える。
「佐川」
佐川は膝をつく。
「お願いいたします。それだけは……それだけは、お許しくださいませ」
夫は無表情のままグラスを手に取った。
妻の手からではなく、今度は自分で。
「何を許す」
佐川は震えながら言う。
「ハンカチは、母が嫁入りの時に持たせてくれたものです。ネックレスは……夫から、初めて贈られたもので……」
夫は酒を一口飲む。
「だから何だ」
佐川の声が止まった。
夫は続ける。
「思い出か」
「……はい」
「思い出で借金は返せない」
あまりにも冷たい一言だった。
佐川の顔が歪む。
夫はネックレスを見る。
「夫からの贈り物だと?」
「……はい」
「その夫が作った借金で、お前はここにいる」
佐川は息を呑む。
「……」
「贈り物を守る前に、借金を返せ」
成島が一歩前に出る。
「ご主人様、お願いでございます。その写真は、私にとっても大切なものでございます。屋敷から持ち出すことはいたしません。ただ、私の部屋で――」
「黙れ」
夫の声が落ちた。
成島は身体を強張らせる。
夫は写真を指差す。
「これは何だ」
成島は唇を震わせる。
「佐川家の……記録でございます」
「この屋敷に必要か」
「……」
「答えろ」
成島は苦しげに言う。
「奥様には、不要かと存じます」
「なら処分だ」
「ですが……!」
夫はグラスをテーブルに置いた。
硬い音が響く。
「相馬」
「はい」
「灰皿とライターを」
相馬は一礼する。
「かしこまりました」
成島の顔が凍った。
佐川が床に手をつく。
「おやめください。お願いします。写真だけは……写真だけは!」
夫は佐川を見下ろす。
「佐川」
「はい……!」
「昨日も聞いたな」
「……」
「この屋敷は誰のものだ」
佐川の目から涙がこぼれた。
「……奥様のものでございます」
「その奥様が、佐川家のものは残さないと決めた」
妻が静かに口を開く。
「その通りです」
佐川は妻を見る。
妻は冷たく、けれど乱れなく言った。
「この屋敷に佐川家のものは残さないと決めたでしょう」
「奥様……お願いいたします」
「佐川」
妻の声は静かだった。
「あなたは何度、同じことを言わせるのですか」
佐川は唇を震わせる。
「ですが……」
「ですが、ではありません」
妻はハンカチを見た。
「家紋入りのハンカチ。佐川家の集合写真。どちらも、この屋敷には不要です」
成島が震えながら言う。
「奥様、せめて写真だけでも……」
妻は成島を見た。
「成島」
呼び捨て。
その声に、成島の目が揺れる。
「はい……」
「あなたはまだ、自分が佐川家のメイド長だと思っているのですか」
成島は言葉を失った。
妻は続ける。
「この屋敷のメイド長なら、私の決定を最初に守るべき立場です」
成島は俯く。
「……申し訳ございません」
夫は相馬が戻るのを待っていた。
やがて、相馬が大きな灰皿とライターを持って入ってくる。
サロンの中央のテーブルに灰皿が置かれた。
重い硝子製の灰皿だった。
夫はライターを受け取る。
その手つきは、あまりにも淡々としていた。
佐川が床に膝をついたまま、必死に身を乗り出す。
「お願いいたします! 写真だけは……! その写真には、父も母も、昔の使用人たちも……!」
夫は写真を手に取る。
「死人と昔の使用人か」
成島が息を呑む。
夫は無慈悲に言う。
「なおさら不要だ」
「ご主人様!」
「残したいなら、墓にでも刻め」
佐川は声を失った。
夫はライターを鳴らす。
小さな炎が灯る。
その瞬間、妻が静かに言った。
「旦那様」
夫が妻を見る。
「何だ」
妻はネックレスへ視線を落とした。
「ネックレスは佐川の私物です」
佐川がわずかに顔を上げる。
「奥様……」
妻は佐川を見ない。
「処分するより、売却して借金の返済に充てるほうがよろしいかと」
夫は無表情にネックレスを見る。
「そうか」
「はい。わずかでも返済にはなります」
佐川の顔が歪む。
ネックレスは守られたのではない。
夫からの初めての贈り物としてではなく、借金の一部として換金されることになっただけだ。
妻は続ける。
「査定は後日、佐川を連れて行います」
夫は短く答えた。
「任せる」
「ありがとうございます」
妻は次にハンカチを見る。
「ハンカチは、雑巾にすればよろしいのではありませんか」
佐川は固まった。
成島が顔を上げる。
「奥様……!」
妻は淡々と言った。
「布ですから。捨てるより役に立ちます」
佐川の唇が震える。
「それは……母が……」
妻は佐川を見る。
「佐川」
「……はい」
「思い出で借金は返せないと、旦那様がおっしゃったでしょう」
夫は妻を見た。
その目に、ほんのわずか満足の色が宿る。
「それでいい」
妻は静かに頭を下げる。
「はい」
夫は相馬に命じる。
「ネックレスは保管。売却まで妻に管理させろ」
「かしこまりました」
「ハンカチは雑巾にしろ」
「はい」
佐川は小さく首を横に振った。
「嫌……」
夫が見る。
それだけで、佐川の身体は硬直した。
夫は低く言った。
「嫌なら出ていけ」
佐川は息を止める。
夫は続ける。
「借金ごと外に放り出されたいか」
「……」
「できるならそうしろ」
佐川は床に額をつけた。
「申し訳ございません……」
「謝罪は要らない」
「……はい」
「働け」
その一言で、佐川は完全に沈黙した。
夫は写真を改めて持った。
成島が震える声で言う。
「ご主人様……お願いでございます……」
佐川も泣きながら言う。
「父と母が写っているのです……どうか……」
夫は二人を見た。
そこに憐れみは一滴もなかった。
「佐川家は終わった」
成島の顔が歪む。
「ご主人様……」
「終わった家の写真を飾る場所はない」
「飾りません、隠しておきます、どうか……」
「隠すなと言った」
夫は写真の端に火をつけた。
小さな炎が、古い紙を舐める。
佐川が悲鳴のような声を上げた。
「やめてください!」
成島も膝から崩れる。
「奥様……奥様ぁ……!」
夫は動じない。
炎が写真の隅を黒くしていく。
写っていた使用人の顔が消える。
屋敷の背景が焦げる。
佐川の父の肩が焼け落ちる。
母の顔へ、炎が近づいていく。
佐川は手を伸ばしかけた。
相馬が素早くそれを制した。
「佐川」
「離してください!」
「火傷します」
「離して! お願い、お願いだから……!」
夫は写真を灰皿の上へ落とした。
炎が広がる。
佐川は泣き叫ぶ。
「お母様……!」
成島は両手で口を覆い、涙を流しながら見ている。
妻は、その燃える写真を静かに見下ろしていた。
夫は言う。
「よく見ろ」
佐川は泣きながら顔を上げる。
夫の声は、冷たく澄んでいた。
「これが残した結果だ」
「……」
「隠せば燃える」
炎が写真を喰らう。
黒く丸まり、形を失っていく。
夫は続ける。
「次に何か見つかれば、物だけで済むと思うな」
成島が震えた。
妻が静かに相馬を見る。
「相馬さん」
「はい、奥様」
「成島のメイド長の役職を解きます」
成島は顔を上げた。
「奥様……?」
妻は成島を見下ろす。
「あなたはこの屋敷のメイド長として、私の決定を守れませんでした」
「……」
「佐川家への忠誠を、この屋敷の規律より優先しました」
成島の唇が震える。
「私は……長年、この屋敷に……」
「だからです」
妻は遮った。
「長年この屋敷にいたあなたが、もっとも過去を捨てられない」
成島は言葉を失った。
妻は相馬へ言う。
「しばらくメイド長は置きません。相馬さんと私で管理します」
相馬は深く頭を下げる。
「承知いたしました」
成島は震える声で言う。
「奥様、どうか……メイド長の役だけは……」
夫が冷たく言った。
「まだ懇願するのか」
成島は固まった。
夫は燃え尽きていく写真を見ながら続ける。
「役職は飾りじゃない」
「……はい」
「役に立たないなら外される」
「……はい」
「不満か」
成島は涙をこらえて頭を下げた。
「ございません」
夫は相馬を見る。
「制服は」
相馬は即座に答える。
「明日から他のメイドと同じものを用意いたします」
妻は頷く。
「お願いします」
成島の顔に、深い屈辱が浮かんだ。
メイド長の制服。
長年、成島が誇りとしてきたもの。
使用人たちの上に立つ証。
それすら奪われる。
佐川は灰皿の中の灰を見つめていた。
写真はもう、ほとんど形を残していない。
母の顔も。
父の顔も。
かつての自分も。
成島も。
すべて黒い灰になっていた。
夫は立ち上がった。
妻もすぐに立つ。
夫は相馬にライターを返す。
「片づけろ」
「かしこまりました」
夫は佐川と成島を見下ろした。
「二度目はない」
成島は震えながら頭を下げる。
「……承知、いたしました」
佐川も床に額をつける。
「申し訳ございませんでした……」
夫は冷たく言う。
「謝罪で借金は減らない」
佐川の身体が震える。
「働け」
「……はい」
妻は最後に、銀盆の上のネックレスを見る。
「佐川」
佐川は顔を上げた。
「はい……奥様」
「これは、後日査定に出します」
「……はい」
「あなたも同行しなさい」
佐川の目が揺れる。
「私も、でございますか」
「ええ」
妻は静かに言う。
「自分の思い出が、いくらになるのか見届けなさい」
佐川は声を失った。
夫はわずかに妻を見る。
何も言わない。
だが、止めもしない。
妻の言葉を、夫は許した。
それが余計に残酷だった。
妻は相馬に向き直る。
「ハンカチは、明日の朝から使えるように」
「承知いたしました」
佐川は両手で床を握った。
家紋入りのハンカチ。
母が持たせてくれたもの。
それが、雑巾になる。
この屋敷の床を拭くために。
自分が仕える新しい奥様の屋敷を綺麗にするために。
成島は静かに泣いていた。
けれど、もう声は出さなかった。
声を出せば、さらに奪われると分かったからだ。
夫は妻の腰に手を添えた。
「行くぞ」
「はい、旦那様」
二人はサロンを出ていく。
扉が閉まる直前、夫の声が落ちた。
「相馬」
「はい」
「この屋敷に残していい忠誠は、俺と妻へのものだけだ」
「承知しております」
「徹底しろ」
「必ず」
扉が閉まった。
サロンには、灰の匂いだけが残った。
佐川は崩れるように座り込み、灰皿を見つめていた。
成島はその隣で、震える手を握りしめている。
もう、メイド長ではない。
明日からは、他のメイドと同じ制服。
佐川家の記録は灰になり、家紋のハンカチは雑巾になる。
ネックレスは、借金の一部になる。
佐川はかすれた声で呟いた。
「……何も残らない」
成島は泣きながら答えた。
「佐川家が……本当に……」
言葉は最後まで続かなかった。
その時、相馬が静かに近づいてきた。
「成島」
成島は反射的に顔を上げる。
以前なら、相馬は彼女を“成島さん”と呼んでいた。
だが今は違う。
「はい……」
「明日から、あなたは一般メイドです」
「……はい」
「役職者としての部屋も移っていただきます」
成島の顔がさらに白くなる。
「部屋も、でございますか」
「当然です」
「……承知いたしました」
相馬は次に佐川を見る。
「佐川」
「はい……」
「灰を片づけなさい」
佐川の目が見開かれる。
「私が……?」
相馬は冷静に言う。
「ご主人様の命令です。片づけろ、と」
佐川は灰皿を見る。
そこには、家族の写真だったものがある。
佐川は震えながら手を伸ばした。
成島が思わず言う。
「相馬様、それはあまりにも……」
相馬は成島を見た。
「あなたはもう、指示を出す立場ではありません」
成島は口を閉ざした。
佐川は灰皿を持ち上げる。
灰がわずかに舞った。
その中に、写真の白い端がほんの少しだけ残っていた。
佐川はそれを見つめる。
母の顔だったかもしれない。
父の手だったかもしれない。
幼い自分の服の一部だったかもしれない。
でも、もう分からない。
相馬は言った。
「こぼさないように」
佐川は涙で視界を滲ませながら答えた。
「……はい」
その夜。
佐川家の最後の写真は、佐川自身の手で片づけられた。
そして翌朝。
成島はメイド長の制服を脱いだ。
家紋のハンカチは、雑巾として使用人控え室に置かれた。
棚の上では、夫婦の写真だけが静かに飾られていた。
夫がほんのわずか穏やかな表情をしている、その一枚だけが。
この屋敷の新しい記憶として。




