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跡形もなく処分

翌日


翌日の屋敷は、昨日とは別の顔をしていた。


五月の陽射しは同じだった。


庭の緑も、白い外壁も、車寄せに落ちる木漏れ日も、昨日と変わらない。


けれど、玄関をくぐった瞬間、空気が違っていた。


重かった匂いが消えている。


古い油絵の匂い。

磨かれた骨董品の金属の匂い。

古い布張りの椅子や、長年閉じ込められていた家の記憶の匂い。


それらが、ほとんど消えていた。


エントランスホールの壁は、ところどころ不自然に白く空いている。


昨日まで肖像画が並んでいた場所。

年代順に佐川家の当主たちが睨むように飾られていた場所。


そこには、もう何もなかった。


大階段の踊り場にあった大きな花台もない。

暖炉の上に置かれていた置時計もない。

飾り棚の中の銀器も、絵皿も、古い写真立ても、すべて運び出されていた。


空白。


ただの空白が、屋敷のあちこちに口を開けていた。


黒い高級車が車寄せに停まる。


運転手が後部座席の扉を開けた。


先に降りたのは、夫だった。


昨日と同じように黒い服をまとい、感情の読めない目で屋敷を見上げる。


次に、妻が降りた。


昨日よりも深い色のドレス。

華美ではないが、屋敷の古い空気を押し返すような冷たい美しさがあった。


夫は妻の手を取る。


「足元」


「はい、旦那様」


妻は夫の手を借りて、車から降りる。


玄関前には相馬が控えていた。


その後ろに、成島と佐川。


使用人たちは昨日より少なかった。

不要な者を下げたのか、あるいはこの場に立たせる価値がないと判断されたのか。


相馬は深く頭を下げる。


「ご主人様、奥様。お待ちしておりました」


夫は短く答えた。


「ああ」


妻は屋敷を見上げる。


「昨日より、空気が軽いですね」


相馬は静かに言った。


「奥様のご希望に沿うよう、昨夜から順次移動いたしました」


「早いですね」


「ご主人様のご命令でしたので」


夫は玄関へ歩きながら言った。


「当然だ」


その声は低かった。


褒めてはいない。


できて当然。

遅れれば罰する。


それだけの響きだった。


玄関扉が開かれる。


夫婦が中へ入る。


その瞬間、佐川は無意識に顔を上げた。


昨日まで、壁にあったはずの肖像画がない。


祖父の肖像。

父の肖像。

母の肖像。


すべて外されていた。


代わりに、壁には四角い跡だけが残っている。


佐川は唇を噛んだ。


隣の成島も、硬く目を伏せていた。


夫はエントランスホールを見渡す。


そして、短く言った。


「随分すっきりしたな」


妻は隣で静かに頷いた。


「はい。昨日より、ずっと見やすくなりました」


「まだ重い」


「そうでしょうか」


「壁が空いた」


夫は階段横の空いた棚を見た。


そこは、昨日まで古い銀の燭台と、佐川家の家紋入りの小箱が置かれていた場所だった。


今は何もない。


磨かれた木の棚だけが、ぽつんと残っている。


夫はそれを眺め、淡々と言った。


「俺たちの写真でも飾るか」


妻が、一瞬だけ夫を見た。


珍しく、表情が動いた。


「……旦那様が、写真を?」


「嫌か」


「いいえ」


妻はゆっくり首を横に振った。


「嬉しいです」


夫は妻を見る。


「そうか」


「はい」


「なら飾れ」


「どの写真を飾りましょうか」


「好きにしろ」


妻は少しだけ考え込むように、空いた棚を見つめた。


「二人で写っているものは、あまりありませんね」


「撮ればいい」


「旦那様は、写真がお好きではないのかと思っておりました」


「お前とならいい」


妻は目を伏せた。


ほんのわずか、口元に柔らかさが宿る。


「……ありがとうございます」


佐川は、そのやりとりを聞きながら、胸の奥が焼けるようだった。


あの棚は。


母が季節ごとに小物を替えていた棚だった。


春には花の絵皿。

夏には青いガラス細工。

秋には小さな香炉。

冬には銀の燭台。


その棚に、あの二人の写真。


佐川家の記憶を追い出したあとに、あの女と夫の写真。


佐川の指先が震えた。


成島が小さく囁く。


「佐川さん」


佐川は返事をしなかった。


返事をすれば、声が壊れそうだった。


相馬が一歩前に出る。


「ご主人様」


夫が視線だけを向けた。


「何だ」


「処分する品は、応接室にまとめてございます。ご確認いただけますでしょうか」


「行く」


夫はすぐに歩き出した。


妻もその隣につく。


相馬が先導し、成島と佐川が後ろに続く。


応接室へ近づくにつれて、佐川の呼吸が浅くなった。


扉が開かれる。


中は、惨めなほど変わっていた。


昨日まで整然と置かれていた家具は壁際に寄せられ、絵画や骨董品は床の上に並べられていた。


額縁。

燭台。

花瓶。

置時計。

銀器。

小箱。

写真立て。

古い書物。

装飾皿。

小さな彫像。

家紋入りの茶器。


佐川家の誇りだったものたちが、まるで不要品のように集められている。


成島の喉が小さく鳴った。


「……」


佐川は思わず一歩踏み出しかけた。


その時、相馬が静かに言う。


「佐川さん。そこまでです」


佐川は止まった。


「……はい」


夫は部屋の中央へ進んだ。


床に並べられた品々を、感情のない目で見下ろす。


「これで全部か」


相馬は答える。


「主要なものはすべて。倉庫、地下室、客間、書斎の品も確認済みです。細かなものは本日中に追加でまとめます」


「遅い」


「申し訳ございません」


相馬は即座に頭を下げた。


夫は冷たく言う。


「昨日、全部と言った」


「はい」


「全部とは、全部だ」


「承知しております」


「なら言い訳をするな」


相馬はさらに深く頭を下げた。


「失礼いたしました」


妻は床に並ぶ品を見つめていた。


「随分、多かったのですね」


相馬が答える。


「佐川家から長く引き継がれていた品々ですので」


夫は鼻で笑うことすらしなかった。


「長く置かれていただけだ」


その言葉に、成島の顔が強張る。


佐川は顔を上げた。


夫は続ける。


「価値があるように見せて、場所を取っていただけだ」


成島が震える声で言った。


「ご主人様……恐れながら、それらは本当に価値のある品でございます」


夫はゆっくり成島を見た。


「誰が喋れと言った」


成島の顔から血の気が引く。


「……申し訳ございません」


「黙っていろ」


「はい……」


妻は成島を一瞥した。


昨日までの丁寧さは残っている。


だが、温度が違っていた。


一夜で、線が引かれた。


夫の隣に立つ妻と。

その下にいる使用人たち。


妻は静かに言った。


「成島さん。旦那様の前です」


成島は頭を下げる。


「失礼いたしました、奥様」


夫は相馬に視線を戻す。


「処分の手配は」


「業者の選定を進めております。ただ、最終確認として一点だけお尋ねしてもよろしいでしょうか」


夫の目が冷える。


「言え」


相馬は淡々としていたが、わずかに慎重な声になった。


「美術品や骨董品には市場価値の高いものもございます。ご主人様がご不要であれば、売却という形でも――」


言い終わる前だった。


夫の足が、床に置かれていた一枚の肖像画の前で止まった。


大きな額縁。


昨日まで階段の中央に飾られていた、佐川家の先代当主の肖像だった。


佐川の父。


威厳ある姿で椅子に座り、片手に杖を持っている。


佐川は息を呑む。


「それは……」


夫は聞いていなかった。


ゆっくりと片足を上げる。


そして。


肖像画の顔の上に、靴底を置いた。


成島が短く叫んだ。


「おやめください!」


佐川も声を失った。


夫はそのまま、無表情で体重をかけた。


額縁が軋む。


ガラスが嫌な音を立てる。


ひびが走った。


肖像画の顔が、靴底の下で歪む。


夫は相馬を見た。


「俺は昨日、何と言った」


相馬は頭を下げた。


「処分、と」


「聞こえていたか」


「はい」


夫の声がさらに低くなる。


「なら、なぜ売却という言葉が出る」


相馬は動かない。


「申し訳ございません。確認のためでございました」


「確認」


夫は足に力を込めた。


ガラスが砕けた。


乾いた音が、応接室に響いた。


佐川は肩を震わせる。


成島は口元を押さえ、目を見開いている。


夫は、割れた肖像画を踏んだまま言った。


「これは商品か」


相馬は答える。


「いいえ」


「記念品か」


「いいえ」


「保存する価値があるか」


「奥様が不要とおっしゃった以上、ございません」


「なら、二度と聞くな」


「承知いたしました」


夫はようやく足をどけた。


肖像画の顔には、ひび割れたガラスと靴跡が残っていた。


佐川の父の顔が、歪んでいた。


夫は冷たく命じる。


「跡形もなく処分しろ」


相馬は深く一礼する。


「かしこまりました」


「燃やせるものは燃やせ。砕けるものは砕け。残すな」


「はい」


「誰かの手元に流すな」


「承知いたしました」


「佐川家の痕跡を、この屋敷の外で生き残らせるな」


その言葉に、成島が崩れるように膝をついた。


「ご主人様……!」


相馬がわずかに動く。


だが夫は止めなかった。


成島は膝をついたまま、床に手をつき、必死に頭を下げる。


「お願いでございます。すべてとは申しません。どうか、どうか一部だけでも……私に買い取らせてくださいませ」


夫は見下ろした。


「金があるのか」


成島は息を詰まらせた。


「……多くは、ございません」


「なら黙れ」


「ですが、私は長くこの家に仕えてまいりました。佐川家の品々が、すべて失われるのを見るのは……」


「お前の感傷を聞くために来たんじゃない」


「お願いでございます」


成島は夫の足元に縋るように手を伸ばした。


「ご主人様、どうか。せめて、せめて一つだけでも」


夫は眉ひとつ動かさない。


妻はその様子を静かに見ていた。


佐川は唇を震わせている。


成島は床に並んだ品々の中から、視線だけで一つを探した。


「花瓶を……」


佐川の顔が変わった。


「成島……!」


成島は振り返らない。


「小さな花瓶だけで結構でございます。白地に青い模様の、小さな花瓶です。あれは……あれだけは……」


夫は床に置かれた品の中から、該当する花瓶を見つけた。


白い陶器。

青い細い模様。

派手ではない。

むしろ、他の骨董に比べれば地味な品だった。


成島の声が震える。


「それは、佐川様のお母様が大切になさっていたものでございます」


佐川は顔を歪めた。


「やめて……」


成島は涙を浮かべて続ける。


「高価なものではございません。市場価値も高くはないでしょう。ただ、奥様が……前の奥様が、大切に……」


夫は花瓶を手に取った。


指先で軽く持ち上げる。


妻もそれを見る。


「綺麗な模様ですね」


夫は妻に尋ねた。


「欲しいか」


妻は少しだけ見たあと、首を横に振った。


「いいえ」


「そうか」


夫は成島を見る。


「要らないそうだ」


成島は床に額がつくほど頭を下げた。


「どうか……どうか、お慈悲を……」


夫の目が、まるで凍ったように冷たくなる。


「慈悲」


短い言葉。


その響きだけで、部屋の温度が下がった。


夫は言った。


「俺に、それを求めるのか」


成島は泣きながら言う。


「お願いでございます……」


「相手を間違えている」


「ご主人様……」


「慈悲が欲しければ、借金を返してから言え」


佐川の肩が震えた。


夫は花瓶を見下ろす。


「返せないから、ここにいるんだろう」


成島は言葉を失う。


夫は佐川に目を向けた。


「佐川」


初めて、呼び捨てだった。


佐川は身体を強張らせる。


「……はい」


「これは誰の物だ」


佐川の喉が動いた。


答えたくなかった。


答えられなかった。


相馬が冷静に言う。


「佐川」


その声に促され、佐川は震えながら答えた。


「……奥様の、物でございます」


夫はさらに問う。


「どの奥様だ」


佐川の目に涙が滲んだ。


妻が静かに佐川を見る。


佐川は唇を噛み、息を吸う。


「……こちらの、奥様の物でございます」


夫は満足したようでも、不満そうでもなかった。


ただ、事実を確認しただけの顔で言った。


「なら、前の女の思い出など要らない」


次の瞬間。


夫は花瓶を床に叩きつけた。


乾いた音。


白い陶器が砕け散った。


青い模様が、床の上で無残な破片になる。


佐川は声を上げなかった。


上げられなかった。


成島が悲鳴を上げた。


「奥様……!」


それは、誰に向けた呼び声だったのか。


亡き佐川の母か。

かつての佐川か。

それとも、この屋敷そのものか。


夫は砕けた花瓶を見下ろし、冷たく言った。


「これで、一つ減った」


成島は崩れ落ちるように床に手をついた。


佐川は震えながら破片を見つめている。


あの花瓶は、母が好きだった。


幼い頃、佐川が触れようとすると、母は優しく笑って言った。


「これはね、派手ではないけれど、綺麗でしょう。長く見ていても飽きないものが、本当にいいものなの」


その声が、今、粉々になった。


夫は相馬を見る。


「全て処分だ」


相馬は頭を下げる。


「かしこまりました」


「例外はない」


「はい」


「買い取りも、保存も、移管もない」


「承知いたしました」


「二度と、俺に同じことを確認するな」


「申し訳ございませんでした」


夫はさらに冷たく言った。


「使用人の教育がなっていない」


相馬の背筋がわずかに強張る。


「私の不行き届きでございます」


「昨日、命令した」


「はい」


「今日、懇願された」


「申し訳ございません」


「次はない」


「承知いたしました」


「この屋敷に置く使用人は、妻に従う者だけだ」


夫は成島を見下ろした。


「過去に忠誠を誓う人間は要らない」


成島は震えた。


夫は佐川を見る。


「お前もだ」


佐川は顔を上げる。


「……はい」


「この屋敷が誰のものか、忘れるな」


「……はい」


「忘れたら、働く場所も選ばせない」


その言葉に、佐川の顔が青ざめた。


夫はそれ以上説明しなかった。


する必要がないと言わんばかりに。


妻は静かに夫の隣へ寄った。


「旦那様」


夫が妻を見る。


「何だ」


「もう、よろしいのではありませんか」


「飽きたか」


「はい」


夫は床に広がる骨董品と、膝をついた成島と、青ざめた佐川を見た。


それらを同じ価値のものとして見下ろすように。


「帰るぞ」


「はい、旦那様」


夫は相馬に言う。


「今日中に終わらせろ」


「かしこまりました」


「破片も残すな」


「はい」


「妻が次に来た時、佐川家の匂いが残っていたら、お前の責任だ」


相馬は深く頭を下げる。


「必ず整えておきます」


夫は妻の腰に手を添え、応接室を出ようとした。


その時、妻が足を止める。


振り返り、成島を見る。


昨日までの丁寧な呼び方は、消えていた。


「成島」


成島は顔を上げた。


「……はい、奥様」


「床を汚さないでください」


成島は一瞬、意味が分からない顔をした。


妻は砕けた花瓶の破片と、床に落ちた成島の涙を見ている。


「この屋敷は、旦那様からいただいたものです」


静かな声。


「私の屋敷です」


成島は震えながら頭を下げた。


「……申し訳、ございません」


妻は次に佐川を見る。


「佐川」


佐川は背筋を震わせた。


「はい……奥様」


「あなたは、この花瓶の破片を片づけてください」


佐川の目が大きく揺れた。


「私が、でございますか」


「ええ」


妻は淡々と告げる。


「あなたが一番、思い入れがあるのでしょう」


それは、慰めではなかった。


確実に刺すための言葉だった。


佐川の唇が震える。


「……承知いたしました」


「怪我をしないように」


妻は冷たいほど丁寧に言った。


「血で床を汚されても困りますから」


佐川は声を失った。


夫は少しだけ妻を見る。


ほんのわずか、目が細くなる。


それは満足に近かった。


「行くぞ」


「はい」


夫婦は応接室を出た。


廊下を歩きながら、妻は夫の袖に軽く触れた。


「旦那様」


「何だ」


「棚に飾る写真、今度撮っていただけますか」


「構わない」


「旦那様も一緒に写ってくださいますか」


「俺がいなければ意味がないだろう」


妻は小さく笑った。


「そうですね」


夫は短く言う。


「お前の誕生日祝いだ」


「十分すぎるほどいただきました」


「足りなければ言え」


「……では」


妻は少し考える。


「この屋敷を、少し明るくしたいです」


「好きにしろ」


「家具も変えてよろしいですか」


「全部変えろ」


「では、写真を置く棚も」


「ああ」


「旦那様と私のものだけにします」


夫は足を止めずに言った。


「それでいい」


玄関ホールへ戻る。


空いた壁。


何も置かれていない棚。


昨日まで佐川家の歴史があった場所。


妻はそこを見て、静かに微笑んだ。


「本当に、すっきりしましたね」


夫は扉の前で振り返る。


「まだだ」


「まだ?」


「人間が残っている」


妻は目を伏せた。


「……成島と佐川のことですか」


夫は答えなかった。


それが答えだった。


相馬が玄関扉を開ける。


外の光が差し込む。


夫は車へ向かいながら言った。


「相馬」


「はい」


「教育しろ」


「承知いたしました」


「泣くな、縋るな、過去を語るな」


「はい」


「妻の前で不快な顔をするな」


「徹底いたします」


「できなければ、替えろ」


「かしこまりました」


妻は車に乗る前、もう一度だけ屋敷を振り返った。


「成島にも佐川にも、よく伝えてください」


相馬は頭を下げる。


「はい、奥様」


「ここで働くなら、昔の名前ではなく、今の主人に仕えるように、と」


「必ず」


夫が妻の手を取る。


車内へ乗せる。


扉が閉まる直前、夫は相馬に言った。


「明日、報告しろ」


「承知いたしました」


車の扉が閉まる。


高級車は、滑るように屋敷を離れていった。


相馬は車が見えなくなるまで頭を下げていた。


やがて顔を上げ、静かに屋敷の中へ戻る。


応接室では、まだ成島が床に座り込んでいた。


佐川は砕けた花瓶の前に膝をつき、震える手で破片を拾っている。


小さな白い破片。

青い模様の欠片。


佐川はそれを拾うたびに、母の声を思い出していた。


けれど、泣くことも許されない。


血で床を汚すな。


妻の言葉が、耳の奥に残っている。


相馬が入口に立った。


「成島」


成島は顔を上げる。


「……はい」


「佐川」


佐川も震えながら答えた。


「はい」


相馬は冷静に言った。


「ご主人様と奥様のご命令です。今日中に、すべて処分します」


成島は掠れた声で言う。


「相馬様……本当に、すべてを?」


「はい」


「一つも?」


「一つも」


「写真も、手紙も、奥様の……前の奥様の品も?」


「奥様が不要と判断されたものは、すべて」


成島は目を閉じた。


「そんな……」


相馬の声は変わらない。


「またそのような態度を奥様の前で見せれば、あなたの処遇も変わります」


成島は唇を噛んだ。


「私は……佐川家に仕えてまいりました」


「今は違います」


「心まで変えることはできません」


「なら、心を見せないことです」


相馬の言葉は冷たかった。


「この屋敷では、役に立たない忠誠は不要です」


成島は深く俯いた。


佐川は破片を握りしめそうになって、慌てて手を開いた。


鋭い縁が指に触れる。


痛みが走る。


しかし血は出なかった。


佐川は小さく息を吐いた。


相馬は言った。


「片づけが終わり次第、地下倉庫の確認に入ります」


成島は震える声で尋ねる。


「地下倉庫も……」


「はい」


「奥様の子どもの頃の品も、ございます」


佐川の肩が跳ねた。


相馬は淡々と答える。


「現在の奥様に不要なものです」


佐川は思わず言った。


「やめてください」


相馬が見る。


佐川は自分でも止められなかった。


「お願いです。母のものも、父のものも、もうほとんどありません。せめて、せめて箱一つだけでも……」


相馬は静かに言った。


「佐川」


佐川は固まる。


「先ほど、ご主人様の前で答えたはずです」


「……」


「この屋敷の品は、誰のものですか」


佐川の目に涙が浮かぶ。


「……奥様のものです」


「なら、あなたに守る権利はありません」


佐川は俯いた。


「はい……」


「続けてください」


相馬はそれだけ言い、部屋を出ていった。


扉が閉まる。


応接室に、成島と佐川だけが残された。


しばらく、二人とも何も言わなかった。


床には、砕けた花瓶。

踏みつけられた肖像画。

積み上げられた額縁。

古い時計。

銀器。

家紋の入った箱。


すべてが、処分されるものとして並んでいる。


成島が、ぽつりと言った。


「……佐川家の歴史が」


佐川は破片を拾う手を止めた。


成島の声は震えていた。


「何代も、守ってきたものです」


佐川は小さく笑った。


笑いではなかった。


壊れかけた息だった。


「守れなかったのよ」


「奥様……」


「その呼び方はやめて」


「ですが、私にとっては今でも」


佐川は顔を上げた。


目は赤かった。


「やめてと言っているでしょう!」


成島は黙った。


佐川は床に落ちた青い破片を見つめる。


「母の花瓶だった」


「存じております」


「母が、好きだったの」


「はい」


「壊されたわ」


「はい……」


「私の目の前で」


成島の涙がこぼれた。


「申し訳ございません。私が余計なことを申し上げたばかりに……」


「違う」


佐川は首を横に振った。


「遅かれ早かれ、壊された」


「でも、あそこまでなさる必要は」


「必要なんて、あの方には関係ないのよ」


佐川の声に、憎しみが混じった。


「あの男は、私たちが苦しむのを見ているわけでもない。ただ邪魔なものを踏んでいるだけ」


成島は拳を握る。


「奥様も……あまりにも」


佐川は顔を歪めた。


「奥様?」


その言葉に、皮肉が滲む。


「家政婦だった女が?」


成島は周囲を警戒するように扉を見る。


「佐川さん、声が」


「だってそうでしょう」


佐川は抑えきれずに言った。


「あの女は、夫の家で働いていたのよ。人に仕える側だったのよ。それが今、私の屋敷に立って、私の母の花瓶を片づけろと言う」


成島は唇を噛む。


「血で床を汚すな、などと……」


佐川の目に悔し涙が滲む。


「笑っていたわ」


「笑ってはおられませんでした」


「同じよ」


佐川は吐き捨てる。


「冷たい顔で、丁寧な言葉で、人を踏みつける。あの男と同じ」


成島は低く言う。


「元家政婦の分際で……」


その言葉は、ぽろりと零れた。


長年、佐川家に仕えてきた女の、最後の抵抗のようだった。


佐川は顔を上げた。


「成島」


「申し訳ございません」


「いいえ」


佐川は小さく首を振る。


「その通りよ」


床に散らばった花瓶の破片を見つめながら、佐川は囁いた。


「元家政婦の分際で、私を佐川と呼び捨てにした」


「……」


「母の花瓶を、私に片づけさせた」


「……はい」


「この屋敷を、私の屋敷ではないと言った」


成島は震える声で言った。


「この屋敷は、佐川家のものでした」


佐川は目を閉じた。


「でした」


その過去形が、何より残酷だった。


成島は床に置かれた肖像画へ近づく。


ひび割れたガラスの下で、先代当主の顔が歪んでいる。


靴跡がついている。


成島は手を伸ばしかけ、止めた。


触れれば、さらに惨めになる気がした。


「旦那様は……本当に無慈悲なお方です」


佐川は低く言った。


「あの人にとって、私たちは人間ではないのよ」


「……」


「借金の形。邪魔な過去。妻を喜ばせるための、踏み台」


成島は泣きながら頷く。


「それでも、ここで働くしかありません」


「分かっている」


佐川は破片を拾う。


今度は、指先に小さな傷ができた。


赤い血が一滴、滲む。


佐川は慌てて指を握った。


妻の言葉がよみがえる。


血で床を汚されても困りますから。


佐川は、泣きながら笑った。


「本当に、奥様になったのね」


成島は答えられなかった。


佐川は続ける。


「あの女はもう、仕える側じゃない。私たちに仕えさせる側なのね」


「佐川さん……」


「悔しい」


佐川は、血の滲む指を握りしめた。


「悔しい……!」


成島は佐川の肩に手を伸ばしかけた。


だが、その手を止めた。


ここはもう、佐川家の屋敷ではない。


不用意な慰めさえ、誰かに見られれば咎められるかもしれない。


だから成島は、ただ頭を下げるように俯いた。


「申し訳ございません……奥様」


佐川は、今度は怒らなかった。


ただ、破片を拾い続けた。


一つ。

また一つ。


母の花瓶だったものを。


佐川家の記憶だったものを。


新しい奥様の命令どおり、処分するために。


窓の外では、五月の光が明るく庭を照らしていた。


屋敷は静かだった。


けれどその静けさの奥で、佐川家の歴史は、音もなく終わり始めていた。

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