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五月、都内の大豪邸

五月の光は、残酷なほど明るかった。


都内とは思えない広大な敷地。


手入れの行き届いた芝生。

左右対称に刈り込まれた植え込み。

白い石造りの門柱。

長い車寄せの先にそびえる、古い洋館。


それは、ただ大きいだけの屋敷ではなかった。


何代にもわたり、佐川家が守ってきた屋敷だった。


客を威圧するための天井の高さ。

一族の栄華を見せつけるための大階段。

先祖の肖像画。

海外から取り寄せたシャンデリア。

職人に特注させた家具。

代々受け継がれてきた骨董品。


この屋敷の空気そのものが、かつての佐川家の誇りだった。


少なくとも、佐川にとってはそうだった。


「……奥様」


低い声で呼ばれ、佐川は肩を震わせた。


呼んだのは、成島だった。


黒いメイド服に身を包んだ、55歳のメイド長。

背筋は伸び、髪はきっちりとまとめられている。

年齢相応の皺はあるが、その目にはまだ強い忠誠が宿っていた。


佐川は、慌てて顔を上げる。


「成島……」


「いけません」


成島は静かに言った。


「今は、その呼び方をなさらないでください」


佐川は唇を噛んだ。


白髪混じりの髪が、五月の風にわずかに揺れる。


39歳。


本来なら、この屋敷の女主人として、使用人たちを従え、客を迎える側の人間だった。


生まれた時からこの屋敷にいた。


幼い頃は、この庭で遊んだ。

少女の頃は、この大階段をドレスで下りた。

結婚した日も、この屋敷の客間で親族に祝福された。


それが今は。


白いエプロン。

黒いワンピース。

胸元には、まだ慣れない見習い用の小さな飾り。


メイド見習い。


「……分かっているわ」


佐川は小さく答えた。


だが、声は震えていた。


成島は一歩近づき、佐川の手元を直すようにエプロンの皺を払った。


「本日は、新しいご主人様と奥様がお見えになります」


「奥様……」


佐川は、その言葉だけを繰り返した。


苦いものを飲み込むような顔だった。


「奥様、ではないわ。あの人は……」


言いかけて、佐川は黙った。


成島の視線が鋭くなったからだ。


「佐川さん」


成島は、あえてそう呼んだ。


「ここでは、あなたは見習いです」


「……分かってる」


「分かっておられるなら、顔に出してはいけません」


佐川は俯いた。


悔しかった。


惨めだった。


夫が事業に失敗した。


婿養子として佐川家に入った男。

最初は、家を立て直すと大きなことを言っていた。

佐川家の名を守ると、親族にも使用人にも笑顔で語っていた。


だが現実には、彼は何一つ守れなかった。


投資は失敗し、会社は傾き、負債だけが膨らんだ。


最後に彼が縋ったのが、今日この屋敷に来る男だった。


29歳の若き実業家。


冷酷で、容赦がなく、金を貸す時も笑わない男。


そして、佐川家の屋敷を買った男。


しかも。


佐川は玄関前に並ぶ使用人たちを見た。


執事の相馬が、中央に立っている。


41歳。

もともとは新しい主人の秘書だった男。

端正な顔立ち。

無駄のない所作。

誰よりも早くこの屋敷に入り、使用人の配置と規律を整えた。


彼は佐川家の人間ではない。


新しい主人に絶対忠誠を誓う男だった。


その相馬が、静かに言う。


「皆、姿勢を正してください。まもなく到着されます」


使用人たちの空気が変わった。


門の向こうから、黒い高級車が滑るように入ってくる。


佐川の胸が締めつけられた。


かつて、自分が客を迎えるために使っていた車寄せ。


そこへ今、別の女が来る。


この屋敷の新しい女主人として。


車が止まった。


運転手が素早く降り、後部座席の扉を開ける。


先に降りたのは、男だった。


黒いスーツ。

黒いシャツ。

濃い色のネクタイ。


29歳とは思えない、冷えた威圧感があった。


若い。

だが、若さに似合う軽さがない。


彼が一歩地面に足を下ろしただけで、使用人たちは自然と息を詰めた。


夫は周囲を見なかった。


屋敷も、庭も、並ぶ使用人も。


まるで最初からそこにあるものすべてが、自分の所有物であると知っているようだった。


次に、夫は車内へ手を差し出した。


「来い」


短い声。


その手を取って、妻が降りた。


36歳。


淡い色のドレスに、繊細なレースの羽織。

首元には上品な宝飾品。

手には小さなクラッチバッグ。


派手ではない。


けれど、立っているだけで場の空気を変える女だった。


美しい、というより冷たい。

優雅、というより隙がない。


妻は夫の手を取り、ゆっくりと車から降りた。


その足元が地面についた瞬間、佐川は無意識に拳を握った。


――あの女が。


あの女が、この屋敷の奥様になる。


かつて夫の家で家政婦をしていた女。


そう聞いていた。


結婚して三年。

その前の二年は、家政婦として夫の身の回りの世話をしていたという。


家政婦。


仕える側の女。


それが今、佐川が生まれ育った屋敷の女主人として、夫に手を引かれて降りてくる。


佐川は、喉の奥に熱いものが込み上げるのを感じた。


妻は、屋敷を見上げた。


「……こちらが?」


夫は短く答えた。


「ああ」


「随分、大きいですね」


「足りなければ増やす」


妻が少しだけ夫を見た。


「増やす、とは」


「隣の土地も買える」


妻は一瞬だけ沈黙した。


それから、淡々と微笑む。


「旦那様らしいお考えです」


「気に入らないなら、別を買う」


夫は屋敷を一瞥した。


「これは候補の一つだ」


その言葉に、佐川の身体が小さく震えた。


候補。


この屋敷が。


佐川家が何代も守り、誇り、すべてを注いできたこの屋敷が。


夫にとっては、妻への誕生日祝いの候補の一つに過ぎない。


妻は夫の手を離さなかった。


「……私への、贈り物ですか?」


「今日、お前の誕生日だろう」


「覚えていらしたんですね」


「忘れない」


声は冷たい。


けれど、妻だけはその短い言葉の奥を知っているように、わずかに目を細めた。


「ありがとうございます、旦那様」


妻は静かに頭を下げた。


「けれど、私は何も聞いておりませんでした」


「言っていない」


「驚かせるためですか?」


「ああ」


「……旦那様は、相変わらず説明が少ないです」


夫は妻を見た。


「不満か」


「いいえ」


妻は、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「慣れております」


夫は返事をしなかった。


ただ、妻の手をさらに深く握った。


相馬が一歩前へ出る。


「ご主人様。奥様。本日はお越しいただき、ありがとうございます」


夫は軽く視線だけを向けた。


「相馬」


「はい」


「準備は」


「滞りなく」


妻が相馬を見た。


「相馬さん、お久しぶりです」


相馬は深く一礼する。


「奥様にまたお仕えできますこと、光栄に存じます」


「まだ、こちらに住むと決まったわけではありません」


「ご主人様がお選びになった以上、奥様に相応しいよう整えるのが私の役目です」


妻は静かに微笑んだ。


「頼もしいですね」


「恐縮です」


佐川は、そのやりとりを聞きながら奥歯を噛みしめた。


自然だった。


まるで、最初からこの男たちは妻に仕えるためにここにいたかのようだった。


相馬が振り返る。


「使用人一同、挨拶を」


全員が一斉に頭を下げる。


「ご主人様、奥様。お帰りなさいませ」


その声が、広い玄関前に響いた。


佐川も頭を下げた。


だが、心の中では叫んでいた。


――お帰りなさいませ?


違う。


ここは、この女の帰る場所ではない。


私の家だった。


私の屋敷だった。


私が、奥様だった。


頭を下げたまま、佐川の視界に妻の靴先が入った。


上品な淡い色のヒール。


汚れ一つない。


かつて佐川がこの玄関を歩く時も、使用人たちは同じように頭を下げた。


だが今は、自分がその列の中にいる。


妻は、佐川の前で足を止めた。


「あなたは?」


佐川は息を止めた。


相馬が答えようとしたが、成島が先に一歩出た。


「こちらは、佐川でございます。現在はメイド見習いとして勤めております」


妻は佐川を見た。


その目には、軽蔑も勝ち誇りもなかった。


ただ、冷静だった。


それが余計に佐川を刺した。


「佐川さん」


妻は丁寧に呼んだ。


「本日から、よろしくお願いいたします」


佐川は顔を上げられなかった。


「……よろしく、お願いいたします」


声が掠れた。


夫の目が、佐川に向いた。


一瞬だけ。


それだけで、佐川の背筋に冷たいものが走った。


夫は何も言わなかった。


だが、その沈黙が言っていた。


お前の感情など必要ない。


ここで生きるなら、従え。


相馬が再び口を開いた。


「それでは、屋敷をご案内いたします」


夫は妻を見た。


「歩けるか」


「はい、旦那様」


「疲れたら言え」


「ありがとうございます」


「言わなくても分かるがな」


妻がほんの少しだけ眉を上げた。


「それなら、先に言ってくださってもよろしいのに」


「言う必要がない」


「……本当に、旦那様は」


妻はそれ以上言わず、夫の隣を歩き出した。


玄関の扉が開く。


広いエントランスホール。


白と黒の大理石。

吹き抜けの天井。

中央に吊るされた巨大なシャンデリア。


正面には大階段。


壁には、佐川家歴代の肖像画が並んでいた。


かつては誇りだった。


客がこのホールに入るたび、必ず顔を上げて見た。

佐川家の歴史に圧倒された。


成島が自然に前へ出る。


「奥様。こちらのシャンデリアは、先々代の当主がフランスより取り寄せたものでございます。支柱部分は当時の職人が手作業で仕上げたもので、現在では同じものを作ることは難しいとされております」


妻は見上げた。


「綺麗ですね」


「ありがとうございます」


成島の声に、わずかな誇りが滲んだ。


「こちらの床材も、佐川家が特別に取り寄せた大理石でございます。玄関から階段にかけての模様は、家紋を意識して設計されております」


夫は何も言わない。


興味がないのは、明らかだった。


妻だけが、静かに話を聞いている。


成島は続けた。


「階段上の肖像画は、初代当主から順に並んでおります。中央の大きなものが、先代ご当主様。その右が奥様の――」


成島は言いかけて、言葉を止めた。


佐川の父。


そして、佐川の母。


佐川は唇を噛んだ。


妻はその沈黙を察したように、肖像画を見つめた。


「ご立派ですね」


成島は深く頭を下げた。


「恐れ入ります。佐川家は長く、この地で多くの文化事業にも携わってまいりました。こちらの絵画も、単なる装飾ではなく、歴史そのものでございます」


夫が、そこで初めて口を開いた。


「長いな」


成島の背筋が固まった。


「失礼いたしました」


夫は妻を見た。


「疲れたか」


「いいえ。聞いております」


「ならいい」


それだけ言って、夫はまた黙った。


成島は奥歯を噛むように一瞬だけ表情を硬くしたが、すぐに整えた。


次に案内されたのは、応接室だった。


重厚な家具。

深い赤の絨毯。

壁一面の油絵。

暖炉の上には、古い置時計と銀の燭台。


成島は、まるで最後の砦を守るように説明を続けた。


「こちらの応接室は、佐川家にとって最も重要なお客様をお迎えする場所でございました。中央のテーブルは英国のアンティークで、椅子の刺繍は全て手作業でございます」


妻は指先で椅子の背に触れた。


「古いものなのですね」


「はい。代々、大切に受け継がれてまいりました」


「座り心地は?」


成島は一瞬戸惑った。


「……大変、よろしいかと」


妻は夫を見た。


「旦那様、座られますか?」


「いや」


「お気に召しませんか?」


「古い」


「古いものがお嫌いですか」


「お前に似合わない」


その一言で、部屋の空気が止まった。


佐川は顔を上げそうになった。


成島も、目を伏せたまま動かない。


妻は夫を見つめた。


「私に?」


「ああ」


夫は部屋全体を見渡した。


「暗い」


妻は少しだけ考えるように、壁の絵画を見た。


「確かに、重い印象はありますね」


成島が静かに口を挟む。


「奥様。こちらの調度品は、佐川家が長年守ってきた由緒ある品々でございます。すぐに馴染むものではないかもしれませんが、屋敷の格を保つには――」


「成島」


夫の声が落ちた。


低く、短い。


それだけで成島は言葉を止めた。


夫は成島を見ていなかった。


見ていないのに、成島の言葉を潰した。


「奥様に説明を」


相馬が静かに補足する。


「意見は求められた時のみで結構です」


成島は深く頭を下げた。


「……失礼いたしました」


妻は成島を見た。


「成島さん」


「はい、奥様」


「説明は続けてください。私は聞きます」


成島の表情に、ほんのわずか安堵が浮かんだ。


「ありがとうございます」


佐川は、妻を見た。


その瞬間だけ、少し戸惑った。


この女は、何を考えているのだろう。


見下しているのか。

哀れんでいるのか。

それとも、本当にただ聞いているだけなのか。


どれであっても、佐川には屈辱だった。


次に案内されたのは、食堂。


長いテーブル。

二十人以上は座れる椅子。

天井にはまた別のシャンデリア。

壁には銀食器の飾り棚。


成島は説明した。


「こちらの食堂では、かつて多くの晩餐会が開かれました。佐川家は政財界との交流も深く――」


夫は妻の隣を歩きながら、淡々と聞き流していた。


妻は時折、質問をした。


「この飾り棚の中の銀器は?」


「先代奥様が大切にされていたものです」


「使われていたのですか?」


「特別な夜にだけ」


「そうですか」


「奥様にも、ぜひこちらをお使いいただければ――」


そこで佐川は、思わず顔を上げた。


奥様にも。


その言葉が胸に刺さった。


母が使っていた銀器。


自分が幼い頃、触れてはいけないと言われたもの。

いつか自分が正式な女主人になったら使うのだと、少しだけ憧れていたもの。


それを、この女が使う。


佐川の目が揺れた。


妻は飾り棚を見たまま言った。


「とても丁寧に保存されているのですね」


成島は頷く。


「はい。佐川家の記憶でございます」


夫が、そこで妻を見た。


「欲しいか」


妻は首を傾げた。


「私が、ですか?」


「ああ」


「……まだ、分かりません」


「分からないなら、要らない」


成島の指先が震えた。


佐川は思わず一歩出そうになった。


だが相馬の視線が、それを止めた。


冷たい視線だった。


お前は黙っていろ。


そう言われた気がした。


屋敷の案内は続いた。


書斎。

音楽室。

客間。

二階の廊下。

庭に面したサロン。


どこへ行っても、佐川家の痕跡があった。


絵画。

花瓶。

古書。

家具。

写真。

飾り皿。

古いピアノ。

手入れされた庭園。


成島は、すべてに意味があるのだと説明した。


それは必死だった。


この屋敷が、ただの建物ではないと。

佐川家が、ただの失敗した家ではないと。

その歴史だけは、まだ価値があるのだと。


妻はずっと聞いていた。


夫はずっと興味がなさそうだった。


相馬は冷静に控え、佐川は後方で俯いていた。


やがて、一行は再びエントランスホールに戻った。


玄関の大きな扉から、五月の光が差し込んでいる。


その光の中で、妻は静かに立ち止まった。


「旦那様」


夫が妻を見た。


「何だ」


妻は少しだけ夫に近づいた。


「お願いがございます」


空気が変わった。


相馬がわずかに目を伏せる。


成島も佐川も、同時に妻を見た。


夫は黙った。


妻から願いを言われることは、滅多にない。


妻は夫に従う。

丁寧に話す。

身の回りの世話も、結婚後も当然のように続けている。


彼女は夫の妻でありながら、どこかでまだ夫の世話をする者としての所作を残していた。


だからこそ、妻が自分から何かを望むのは珍しかった。


夫の目が、少しだけ細くなる。


「言え」


妻はホールを見渡した。


肖像画。

骨董品。

重厚な家具。

飾られた花瓶。

佐川家の歴史。


それらを一つずつ見てから、妻は静かに言った。


「この屋敷に残っている、先代の佐川家の絵画や骨董品、家具などを、すべて処分していただけませんか」


その瞬間。


成島の顔から血の気が引いた。


佐川は息を呑んだ。


使用人たちの間にも、微かな動揺が走った。


妻は続けた。


声は穏やかだった。


「とても立派なものだとは思います。成島さんのご説明も、丁寧で分かりやすかったです」


「奥様……」


成島が思わず声を漏らす。


妻は成島に目を向けた。


「けれど、ここは旦那様が私にくださった屋敷です」


静かな声。


だが、そこに迷いはなかった。


「私が住むなら、他家の記憶に囲まれて暮らしたくありません」


佐川の胸が、引き裂かれたように痛んだ。


他家。


佐川家が、他家。


この屋敷で生まれ、この屋敷で育った自分が、もうよその人間なのだと、妻の言葉が告げていた。


成島は震える声で言う。


「奥様、恐れながら……それらは、この屋敷の歴史でございます。すべてを処分するとなれば、この屋敷の品格にも関わります」


夫の視線が、成島に向いた。


「品格」


短い声だった。


成島は唇を閉じた。


夫はゆっくりと妻の前に立った。


「お前の願いは、それか」


妻は夫を見上げた。


「はい、旦那様」


「全部か」


「はい」


「一つも要らないか」


妻は少しだけ考えてから答えた。


「旦那様と私に関係のないものは、要りません」


夫は黙った。


ほんの一瞬。


その沈黙が、広いホール全体を支配した。


次の瞬間、夫は妻の顎に手をかけた。


妻の顎を持ち上げる。


使用人たちの前で。


相馬の前で。

成島の前で。

佐川の前で。


妻は逃げなかった。


むしろ、夫を見上げたまま静かに待った。


夫が身を屈める。


そして、妻にキスをした。


軽いものではなかった。


所有を示すような、長く濃いキス。


妻の指先が、夫の袖を軽く掴む。


ホールにいる誰も、声を出せなかった。


佐川は目を逸らしたかった。


だが、逸らせなかった。


それは愛情というより、宣告だった。


この女が、この屋敷の女主人だ。


この女の願いは、俺の命令だ。


この女に逆らう者は、ここに居場所がない。


やがて夫は唇を離した。


妻の顎に触れたまま、低く言う。


「好きに処分しろ」


妻は少しだけ息を整えた。


「よろしいのですか」


「お前の物だ」


「屋敷も、ですか」


「土地も屋敷も、全部お前にやる」


成島の顔が歪んだ。


佐川の目に、悔しさが滲む。


夫は続けた。


「気に入らないなら壊せ」


妻は静かに夫を見つめた。


「壊す必要はありません」


「なら、変えろ」


「はい」


「ここを、お前の屋敷にしろ」


妻はゆっくり頷いた。


「ありがとうございます、旦那様」


夫は妻の顎から手を離す。


そして相馬を見た。


「相馬」


「はい」


「処分するものをまとめろ」


「承知いたしました」


「明日、確認に来る」


「かしこまりました」


成島が一歩前に出た。


「ご主人様」


相馬の目が動いた。


だが、夫は成島を見た。


「何だ」


成島は深く頭を下げたまま言う。


「恐れながら、一部だけでも保存をご検討いただくことはできませんでしょうか。先代から受け継がれたものの中には、美術的価値の高い品もございます。奥様のお屋敷にふさわしいものも、きっと――」


「要らない」


夫は即答した。


成島の肩が震えた。


「ですが」


「妻が要らないと言った」


「……」


「聞こえなかったか」


成島は言葉を失った。


夫の声は荒くない。


怒鳴ってもいない。


だが、切り捨てる刃のようだった。


妻は成島を見た。


「成島さん」


「……はい」


「長く大切に守ってこられたのですね」


成島は顔を上げられなかった。


「……はい」


「それは分かりました」


妻の声は丁寧だった。


丁寧だからこそ、残酷だった。


「ですが、私には必要ありません」


佐川は息を呑んだ。


成島の目が潤んだ。


「奥様……」


妻は続けた。


「この屋敷の前の記憶を、私が背負う理由はありません」


その言葉は、まっすぐ佐川にも届いた。


佐川の胸の中で、何かが崩れた。


妻は、佐川を見た。


「佐川さん」


呼ばれて、佐川は身体を強張らせた。


「はい……奥様」


初めて、佐川はその言葉を口にした。


奥様。


自分が呼ばれていた言葉を、目の前の女に向けて。


妻は淡々と言った。


「この屋敷のことは、あなたがよくご存じなのでしょう」


「……はい」


「では、相馬さんの指示に従って、処分するものの確認を手伝ってください」


佐川は目を見開いた。


「私が、ですか」


「はい」


妻は首を傾げる。


「何か問題がありますか」


問題。


問題しかなかった。


自分の家の記憶を。

自分の母が選んだ家具を。

父の肖像画を。

幼い頃から見てきた花瓶を。


自分の手で、処分するものとしてまとめろというのか。


佐川の唇が震えた。


「……いえ」


妻は穏やかに言った。


「お願いします」


お願い。


その言葉すら、命令より残酷だった。


佐川は深く頭を下げた。


「承知いたしました、奥様」


成島が小さく呻くように言った。


「佐川さん……」


佐川は顔を上げなかった。


夫が、その様子を冷ややかに眺めている。


「相馬」


「はい」


「抵抗する者は」


「この屋敷に不要な者として扱います」


相馬は淡々と答えた。


夫は頷いた。


「そうしろ」


「承知いたしました」


成島は唇を噛みしめる。


佐川は涙をこらえた。


夫はもう二人に興味を失ったように、妻のほうを向いた。


「行くぞ」


妻は小さく頷く。


「はい、旦那様」


「夕食の予約をしている」


「どちらへ?」


「お前が前に、窓からの景色が綺麗だと言った店」


妻は少しだけ目を見開いた。


「覚えていらしたのですか」


「言っただろう」


「忘れない、と?」


「ああ」


妻は静かに微笑んだ。


「ありがとうございます」


夫は返事をしなかった。


ただ、妻の腰に軽く手を添えた。


それだけで、妻は自然に夫の隣へ寄る。


相馬が玄関扉を開ける。


外の光が、再びホールへ差し込む。


妻は一度だけ振り返り、屋敷の中を見た。


もうそこに、佐川家の屋敷を見る目はなかった。


自分のものを見る目だった。


「相馬さん」


「はい、奥様」


「明日までに、確認しやすいようにお願いいたします」


「かしこまりました」


「成島さん」


成島が硬い表情で頭を下げる。


「はい」


「今日はご説明、ありがとうございました」


「……恐れ入ります」


「佐川さん」


佐川は震えながら頭を下げた。


「はい、奥様」


「慣れないお仕事でしょうけれど、よろしくお願いいたします」


佐川は、喉の奥から声を絞り出す。


「……はい。精一杯、務めます」


妻はそれ以上何も言わなかった。


夫が車へ向かう。


運転手がすぐに扉を開ける。


乗り込む直前、夫は妻を見た。


「誕生日おめでとう」


あまりにも短い。


感情の起伏もない。


けれど妻は、まるでそれが何よりの贈り物であるかのように、静かに目を伏せた。


「ありがとうございます、旦那様」


夫は妻の手を取り、車へ乗せた。


その動作は淡々としていた。


けれど、使用人たちの誰もが分かっていた。


この男は、妻にだけは触れ方が違う。


妻を飾るためなら屋敷を買う。

妻が望めば歴史を消す。

妻が要らないと言えば、価値あるものですら躊躇なく捨てる。


車の扉が閉まる。


夫も反対側から乗り込んだ。


黒い高級車は、音もなく走り出す。


門へ向かって遠ざかっていく車を、使用人たちは頭を下げたまま見送った。


やがて、車が完全に見えなくなった。


それでも、誰もすぐには動かなかった。


ホールの中に戻った成島は、肖像画を見上げた。


そこには、佐川家の先代たちが変わらぬ顔で並んでいる。


だが、その視線にもう力はなかった。


成島は小さく呟いた。


「……あまりにも、むごい」


佐川はその場に立ち尽くしていた。


白髪混じりの髪が頬にかかる。


手は震えている。


「成島……」


「佐川さん」


成島は振り返る。


その目には涙が浮かんでいた。


けれど、使用人の顔を崩してはいけないと必死に耐えていた。


「奥様」


小さな声だった。


人目を避けるような、かつての呼び方。


佐川の顔が歪んだ。


「やめて」


「ですが……」


「やめて!」


佐川の声が、ホールに響いた。


数人のメイドが驚いて振り向く。


相馬が静かに近づいてきた。


「佐川さん」


その声で、佐川は凍りついた。


相馬は感情のない目で佐川を見る。


「この屋敷で大声は不要です」


佐川は唇を噛んだ。


「……申し訳、ございません」


相馬は次に成島を見る。


「成島さん」


「はい」


「明日の確認までに、一覧を作成します。絵画、骨董品、家具、装飾品。すべて現物確認を行います」


成島は苦しそうに言った。


「すべて、ですか」


「奥様のご希望です」


「……」


「ご主人様のご命令です」


その一言で、成島は黙るしかなかった。


相馬は佐川へ視線を移す。


「佐川さん」


「はい」


「あなたは、この屋敷の前所有者として、品物の由来を把握しているはずです」


前所有者。


その言葉が、佐川の胸に突き刺さる。


奥様ではない。

当主夫人でもない。

前所有者。


過去形の人間。


「はい……」


「由来の説明は不要です。処分対象の判別に必要な情報だけを伝えてください」


成島が思わず言う。


「相馬様、それではあまりにも――」


「成島さん」


相馬は穏やかに遮った。


「ここは、もう佐川家の屋敷ではありません」


成島は息を呑んだ。


佐川も、顔を上げた。


相馬は淡々と続ける。


「本日、ご主人様と奥様が正式に確認されました。今後、この屋敷に残すべきものは、奥様に相応しいものだけです」


「……佐川家の歴史は」


成島の声は震えていた。


相馬は答えた。


「奥様の暮らしには、必要ありません」


沈黙。


五月の光が、窓から差し込む。


先ほどまで美しく見えていたシャンデリアも、肖像画も、階段も、急に冷たいものに変わっていく。


佐川は拳を握った。


「……あの方は」


相馬が見る。


佐川は吐き出すように言った。


「あの奥様は、家政婦だったのでしょう」


成島が鋭く振り向く。


「佐川さん」


だが、佐川は止まらなかった。


「人に仕えていた人が、なぜ……なぜこの屋敷の女主人に……」


相馬の目が、わずかに冷えた。


「それ以上は」


佐川は口を閉じた。


相馬は静かに言った。


「奥様は、ご主人様が選ばれた方です」


「……」


「それで十分です」


佐川は俯いた。


相馬は続ける。


「佐川さん。あなたがこの屋敷で働くことを許されている理由を、忘れないでください」


佐川の身体が震えた。


借金。


億単位の負債。


夫が作った穴。


返せない金。


そして、新しい主人の判断ひとつで、自分たちの生活はさらに落ちる。


佐川は掠れた声で言った。


「……忘れておりません」


「なら、働いてください」


相馬は踵を返した。


「まずは応接室から始めます」


成島は苦しげに目を閉じた。


佐川は、ホールの肖像画を見上げる。


父。

母。

祖父。

曾祖父。


皆、何も言わない。


当然だった。


もう、彼らの声が届く場所ではない。


この屋敷の主は変わった。


車で去っていった若い男と、その妻。


たった数時間の滞在で、彼らは佐川家の誇りを過去にした。


しかも、怒鳴ることもなく。


笑うこともなく。


ただ当然のように。


佐川は涙を飲み込んだ。


その背後で、成島がそっと囁く。


「……奥様」


佐川は振り返らなかった。


「違うわ」


声は震えていた。


「もう、奥様じゃない」


成島は唇を噛む。


佐川はゆっくりと、応接室へ向かって歩き出した。


かつて客人を迎えた部屋。


母が愛した椅子。

父が選んだ絵。

自分が誇りだと思っていた空間。


そのすべてを、明日までに処分対象としてまとめる。


新しい奥様のために。


佐川は心の中で何度も否定した。


違う。

違う。

違う。


けれど、玄関前で頭を下げた自分の声が、耳の奥に残っていた。


――はい、奥様。


その一言が、佐川家の終わりを告げていた。

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