光芒の白百合 Ⅲ
森を抜けた瞬間、違和感が走った。
空気が、重い。
淀んでいる。
胸の奥がざわつく。
「⋯⋯な、なに?この感じ⋯⋯」
足を止め、視線を上げる。
校舎の方角に、煙が上がっていた。
「⋯⋯っ」
次の瞬間、走り出していた。
門をくぐる。
その光景に、息を呑む。
石畳が割れている。
壁が崩れている。
焦げた跡。
そして──血。
倒れて動かない生徒、教官。
「⋯⋯嘘でしょ」
喉が乾く。
だが、足は止まらない。
すぐそばに倒れている女子生徒へ駆け寄る。
「しっかりして!」
肩を抱き寄せる。
わずかに、反応がある。
血に濡れた唇が、震える。
「シャ⋯⋯ル⋯⋯に⋯⋯げ⋯⋯」
かすれた声。
それだけを残して、脱力した手が地面に落ちた。
もう、呼吸の音も聞こえない。
「⋯⋯っ」
シャルロットは唇を噛んだ。
雄叫びが、響く。
低く、重い。
地面を震わせるような咆哮。
反射的に顔を上げる。
中庭の奥。
音の出どころは、そこだ。
一瞬だけ、視線を落とす。
先程まで元気に言葉を交わしていた姿が脳裏によぎる。
もう二度と、その声は聞こえない。
シャルロットはゆっくり立ち上がり、走り出す。
音のする方へ。
中庭へ抜ける道中、シャルロットは思わず足を止める。
地面に、巨大な赤い殻が、めり込んでいた。
歪んだ楕円。
ひび割れ、内側から弾けるように裂けている。
砕けた破片が、周囲に散らばっていた。
内側は、まだ湿っている。
ぬめるような光沢。
何かが、ここから出てきた。
そうとしか思えない形だった。
「⋯⋯何、これ⋯⋯」
思わず、声が漏れる。
見たことがない。
だが、直感的に分かる。
これは、触れてはいけないものだ。
その時、雄叫びが再び響いた。
はっとし、止めていた足を動かす。
走る──。
無我夢中で。
近づくたびに、凶々しい気配が肌に刺さる。
全身に、嫌な汗が滲む。
それでも、止まらない。
目的の場所に──
それは、いた。
巨大な影。
牛の頭。
歪に膨れ上がった筋肉。
手には、巨大な斧。
──ミノタウロス。
「これが⋯⋯神獣⋯⋯!」
授業で習ったはずの存在。
遠征課目で何度も討伐した魔獣とは──格が違う。
その足元には、教官達が倒れていた。
血が飛び散り──ぴくりとも動かない。
「⋯⋯っ」
息が詰まる。
全身に、寒気が走る。
勝てる相手じゃない。
本能が、告げている。
逃げろ、と。
それでも──
剣を抜き、構える。
真正面から、対峙する。
ミノタウロスが、ゆっくりとこちらを見る。
目が、合う。
殺意──それだけが、そこにあった。
ミノタウロスが動くよりも速く、踏み込む。
全速力の突き。
だが──
刺さらない。
剣先が、止まる。
硬い。
まるで、鋼鉄を突いたかのように。
「っ!?」
衝撃が腕を駆け上がる。
突き刺す手応えが、ない。
──あり得ない。
距離を取る。
もう一度、踏み込む。
高速で突く。
何度も、何度も。
だが、通らない。
「なんで⋯⋯!」
思わず、声が漏れる。
動揺したその一瞬。
ミノタウロスの拳が、直撃した。
背中から、壁に叩きつけられる。
体に激痛が走る。
視界が、霞む。
一瞬、意識が飛んだ。
「かはっ⋯⋯!!」
肺の空気が、一気に押し出される。
呼吸が、できない。
動けない。
それでも──
剣は、離さない。
指に力を込める。
歯を食いしばる。
逃げる、という選択肢は──ない。
逃げられないのではない。
逃げない。
ミノタウロスが、ゆっくりと近づいてくる。
一歩。
また一歩。
巨大な影が、覆いかぶさる。
──怖い。
本能が、叫ぶ。
逃げろ、と。
それでも、目は逸らさない。
震える体で、剣を構える。
──来る。
斧が、振り上げられる。
──悔しい。
涙が、こぼれる。
そして、斧が振り下ろされた。
──痛みは、来ない。
ゆっくりと、顔を上げる。
そこに、鞘に収まったままの細い刀一本で、巨大な斧を受け止めている男がいた。
「⋯⋯ユー⋯⋯リ⋯⋯さん⋯⋯?」
その姿を、認識した瞬間。
時間が、止まったように感じた。
ユーリが、わずかに腕を動かす。
刀で斧を払うと、ミノタウロスの巨躯が、大きくよろめく。
ミノタウロスが威嚇するように、雄叫びをあげる。
次の瞬間、ユーリとの間合いを一気に詰め、巨腕が突き出された。
圧倒的な質量。
圧倒的な速度。
ユーリは、微動だにしない。
対抗するように、拳を突き出す。
衝突する拳と拳。
空気が、震える。
弾かれたのは──
ミノタウロスの拳だった。
「⋯⋯え⋯⋯」
シャルロットの声が、かすれる。
ミノタウロスが、後ずさる。
ユーリは、静かに刀の柄に手を添える。
──刹那。
見えなかった。
気づいた時には、ユーリはミノタウロスの背後に立っていた。
刀が、わずかに抜かれている。
そして──納める。
チン、と澄んだ音が、静かに響いた。
同時に、ミノタウロスの体が、ずれた。
一拍の静止。
次の瞬間、両断。
巨躯が、崩れ落ちる。
そして──霧のように、消えた。
残ったのは、静寂だった。
シャルロットは、その場に崩れ落ちたまま、動けなかった。
震えが、止まらない。
ユーリが、ゆっくりと歩み寄る。
シャルロットの前で止まると、手を差し出した。
「⋯⋯来るのが遅くなった」
短く、言う。
シャルロットは、何も言えない。
その手を見つめ、促されるまま握った。
その温かさに触れ、次の瞬間、ユーリにしがみついた。
「⋯⋯っ⋯⋯ぅあぁああああ!!」
声が、崩れる。
涙が、溢れる。
止まらない。
怖かった。
悔しかった。
何もできなかった。
全部が、一気に溢れ出す。
ユーリは、何も言わない。
ただ、ずっとそこにいた。
どれくらい、そうしていただろう。
ようやく、涙は少しずつ収まっていった。
呼吸を整え、ゆっくりと体を離す。
「⋯⋯ご、ごめん⋯⋯」
顔を赤らめ、小さく謝る。
ユーリは何も言わない。
その時──
遠くから、複数の足音が響いてきた。
統制された動き。
「⋯⋯来たか」
ユーリが、ぽつりと呟く。
やがて、騎士たちが姿を現す。
白銀の鎧。
統一された装備。
ミッドガル王国、国王直属部隊──四聖騎士団。
その先頭に立つ老爺が、歩み寄ってくる。
「無事か、シャルロット」
「⋯⋯クレメント、先生⋯⋯」
クレメント・ホーキンス。
一番隊隊長にして、騎士学校校長。
そして──亡き父の元同僚。
「遅くなった」
短く言い、周囲を見渡す。
「総員、生存者の捜索を優先しろ!」
「はっ!」
「負傷者を見つけ次第、救護に当たれ!」
「了解です!」
即座に指示が飛び、騎士たちが動き出す。
「シャルロット、体の具合は?」
「⋯⋯ちょっと、痛いかも」
そう言って、少しだけ笑う。
「治療を」
指示を受け、隊員が前に出る。
「──ヒルリア」
淡い光が、体を包む。
痛みが、ゆっくりと引いていく。
クレメントは、その様子を確認すると、視線をユーリへ向けた。
「お陰で助かった。礼を言う」
ユーリは、わずかに肩をすくめる。
「やるべき事をやっただけだ」
二人のやり取りに、首を傾げる。
「⋯⋯知り合い?」
シャルロットが小さく聞く。
「何度か戦場で顔を合わせてな」
クレメントは、それ以上語らない。
そうしているうちに、治療が終わる。
体が軽い。
シャルロットが回復したのを見届けると、ユーリが背を向けた。
「⋯⋯じゃあ、そろそろ行く」
あまりにも自然に。
「あ⋯⋯ま、待って!」
反射的に、声が出る。
ユーリの足が止まる。
「⋯⋯何だ?」
短い問い。
シャルロットは、一歩踏み出す。
「私を⋯⋯弟子にしてください!」
深く頭を下げて懇願する。
「私に、神獣との戦い方を、教えて欲しい」
声が、震える。
「もう⋯⋯なにも失わないように」
拳を握りしめる。
視線は逸らさない。
わずかな沈黙。
「⋯⋯無理だ」
ユーリは、短く答えた。
「どうして!?」
食い下がる。
ユーリが、わずかに振り返る。
「先を急ぐ。止まって教える暇はない」
淡々とした事実。
シャルロットは、息を詰まらせる。
だが──引かない。
引くわけにはいかない。
「⋯⋯じゃあ」
一歩、踏み込む。
「私も連れてって⋯⋯!」
「⋯⋯⋯⋯は?」
空気が止まる。
「あなたのそばで、あなたの戦いを見るから。覚えて⋯⋯盗んで⋯⋯強くなる!」
真っ直ぐに言い切る。
沈黙──
やがて、クレメントが、口を開く。
「頼めるか」
「正気か⋯⋯?」
「どうせ、この子は止まらん。突き放しても、勝手に付いていくぞ」
ユーリは、しばらく黙る。
そして──
「⋯⋯好きにしろ」
短く言った。
それで、十分だった。
「よろしくお願いします!」
シャルロットは歓喜を抑えて、深く、頭を下げる。
ユーリは何も言わない。
そのまま、歩き出す。
「あ⋯⋯待って!」
シャルロットは、慌てて追いかける。
その背中に、希望を見た。
今はただ、前へ進む。
──強くなるんだ。
この黒衣の剣士のように。




