魔喰い
酪農の町──ラクティス。
広大な柵の中では、牛たちがのんびりと草を食んでいる。
穏やかな風が吹き抜け、乳の香りがほのかに漂う。
この町は、乳製品の名産地として知られていた。
加えて、パストールから運ばれる上質な羊毛の集積地でもある。
人々は働き、笑い、日常を営んでいる。
──だが、その町外れ。
広がる草原では、まったく別の光景があった。
「はぁっ⋯⋯はぁっ⋯⋯ま、まだ⋯⋯やるのかぁ!?」
情けない悲鳴が、青空に響く。
地面に手をつきながら、荒い呼吸を繰り返すアルベルト。
全身は汗まみれで、すでに限界に近い。
その隣では──
「あと少し!頑張って、アルベルト!」
まるで別人のように元気な声。
シャルロットが、軽やかな動きで同じトレーニングをこなしている。
「な、なんで⋯⋯シャルロットは⋯⋯そんな元気なんだよ⋯⋯?」
「え?だって、朝から思いっきり動いて汗かいたら、気分爽快に──」
「なるかぁぁぁ!!」
叫びながらも、アルベルトは腕を震わせて体を持ち上げる。
──数分後。
ようやくトレーニングが終わり、二人はその場に座り込んだ。
「はぁ⋯⋯はぁ⋯⋯死ぬ⋯⋯」
「お疲れ様!」
息を整えるアルベルトとは対照的に、シャルロットはまだ余裕がある。
だが──その休息は、長くは続かなかった。
すっと、影が落ちる。
二人の前に立っていたのは、リリアーナだった。
「あと五分休んだら、次」
「⋯⋯は?」
「魔力感知の訓練。座禅、二時間」
「え⋯⋯」
「ちょっとでも動いたら、やり直し」
淡々と告げる。
アルベルトの顔が、見る見るうちに引きつっていく。
「⋯⋯マジで言ってる?」
「うん」
即答だった。
「⋯⋯はぁぁぁぁぁぁ」
地面に倒れ込みたくなる衝動を、なんとか堪える。
だが──
(⋯⋯いや、これくらいで音を上げてる場合じゃないよな)
アルベルトは、ゆっくりと拳を握った。
神との戦い。
あの絶望的な差。
あれを思い出せば──文句など言えるはずもない。
「⋯⋯わかった」
アルベルトが、小さく呟く。
シャルロットは、その様子を見て少しだけ微笑んだ。
そして、ふとリリアーナへ視線を向ける。
「ねえ、リリアーナ」
「なに?」
「どうして、アルベルトに修行つけようと思ったの?」
シャルロットが首をかしげて尋ねる。
「最初、断ってたよね?」
「うん。面倒だったから」
リリアーナは即答する。
「じゃあ、何で?」
少しだけ間が空く。
リリアーナは、この場にいないユーリの向かった方角を見ながら答えた。
「ユーリばかりに負担、かけられない」
その表情は、真剣だった。
「アルベルトが戦力になれば、ユーリの負担、減る」
その声音だけで、リリアーナがどれほどユーリを大切に思っているのか伝わってきた。
「それに──」
「それに?」
一瞬だけ、リリアーナの頬がわずかに赤くなる。
「ユーリと同じ、師匠ポジション」
小さく、続ける。
「ユーリと⋯⋯おそろ」
ほんの少しだけ、嬉しそうに微笑んだ。
(そっちが本音!?)
シャルロットは、思わず顔を引きつらせた。
アルベルトは、宣言通り五分の休憩を終えると、その場で姿勢を正した。
胡座をかき、ゆっくりと目を閉じる。
──その頭上に、そっと影が落ちる。
リリアーナが無言で手を伸ばし──
赤いリンゴを、アルベルトの頭に乗せた。
「⋯⋯え?」
目を閉じたまま、アルベルトがわずかに反応する。
「落としたら、やり直し」
淡々と告げる。
「は!?ちょ──」
「動いたら、その時点でアウト」
ぴしゃりと遮られた。
「⋯⋯っ」
抗議の言葉を飲み込み、アルベルトは歯を食いしばる。
微動だにできない。
──草原の風が、そっと頬を撫でる。
だが、アルベルトはそれすらも拒むように、呼吸を整えていく。
その様子を見ながら、シャルロットはぽつりと呟いた。
「ねえ、リリアーナ」
「なに?」
「この修行⋯⋯私の時と、全然違うんだけど?」
あの時の光景が、脳裏に浮かぶ。
魔獣が蔓延る森に、一人で放り込まれた一ヶ月。
ユーリに課されたのは、生き延びることただ一つ。
極限の中で、魔力を感じ取る力を身につけた。
「私の時は、もっとこう⋯⋯命懸けだったというか」
苦笑混じりに言うと、リリアーナは小さく首をかしげた。
「シャルロット、じっとしてるの苦手でしょ?」
「うっ⋯⋯」
図星だった。
言葉に詰まり、そのまま苦笑いが漏れる。
ユーリは、シャルロットの性格を知ったうえで、最も適した方法を選んだのだろう。
「それとも、こっちの方がよかった?」
リリアーナの視線の先にいるアルベルトを見る。
体をぷるぷるさせ、頭上のリンゴを落とさぬよう必死に耐えている。
「⋯⋯ううん。サバイバルの方が合ってたかも」
「でしょ?」
リリアーナは、当然だと言わんばかりに小さく頷いた。
そこへ、草を踏む音が、静かに近づいてくる。
シャルロットが振り返る。
「あ、おかえりユーリ。宿取れた?」
「⋯⋯ああ」
短い返答。
だが、その声音にわずかな違和感があった。
「どうしたの?」
シャルロットが首を傾げて尋ねる。
ユーリは一瞬だけ間を置き、淡々と告げる。
「宿は取れた⋯⋯が」
視線は手に持つ革袋。
「金が無い」
「え!?」
シャルロットが思わず声を上げる。
「ちょっと待って!?魔獣も神獣も⋯⋯神だって倒したじゃない!魔石いっぱいあるよね!?」
「ああ」
ユーリは頷く。
「だが、換金できない」
「⋯⋯え?」
「魔石の換金は、ギルド支部でしかできない。王都からここまでの町や村には無かった」
その一言で、全て理解した。
シャルロットの顔から血の気が引く。
「じゃあ⋯⋯」
「宿には泊まれるが、物資は買えない」
切実な問題だった。
換金できる魔石があるのに、使えない。
高価な魔石も──今は、ただの石だ。
「シャルロットは、お金持ってないの?」
「前の村でも物資買っちゃったからなぁ⋯⋯」
そう呟きながら、革袋をひっくり返す。
掌に落ちてきたのは、銀貨三枚。
金額にして、わずか三千N──四人だと一食分にも満たない。
「リリアーナは?」
「そもそもお金、持ってない」
即答だった。
「アルベルトは!?」
シャルロットがアルベルトへと声をかける。
領主の子息である彼なら、もしかしたら余分にあるのでは、と期待を込めて。
「い、今っ⋯⋯それどころじゃないんですけど!?」
頭にリンゴを乗せたまま、全身を震わせているアルベルトが、必死の抗議を訴える。
その反動により──
──ボト。
リンゴが、地面に落ちた。
辺りに流れる静寂──。
「やり直し」
「うわあああああああ!!?」
破滅の魔女の冷徹な宣告に──
アルベルトは、発狂した。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
アルベルトを草原に残し、三人は一度、町へ戻ることにした。
頭にリンゴを乗せたまま、微動だにできない彼を置いていくのは少し気が引けたが──彼の師であるリリアーナが「待て」を言い渡したのだ。
シャルロットは後ろ髪引かれる思いで、先を歩く二人の後を追った。
ラクティスの中心部にある小さな宿は、外観こそ質素だが、清潔感があり、旅人には十分すぎる造りだった。
荷物を置いた後、シャルロットはカウンターに立つ店主へと声をかける。
「すみません、この辺で仕事ってありませんか?」
店主が顔を上げる。
「仕事?」
「はい。ちょっとお金が足りなくて⋯⋯何か依頼とか、あれば」
少し困ったように笑いながら言うシャルロット。
店主は腕を組み、少し考えた後──
「ああ、それなら⋯⋯」
と、顎で外を指した。
「数軒隣に酒場がある。あそこは、ギルドの依頼を仲介してるんだ」
「ギルドの?」
「ああ。正式な支部じゃねぇが、簡単な依頼なら受けられる。金が欲しいなら、行ってみるといい」
その言葉に、シャルロットの表情がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます!」
シャルロットは礼を言うと、そのまま二人と酒場へ向かった。
石畳の通りを進み、やがて酒場の前に立つ。
昼間だというのに、扉の向こうは既に賑やかだった。
シャルロットは一度だけ、隣に立つユーリへと視線を向ける。
酒場など入ったこともない。
ほんの一瞬だけ、足が止まった。
──だが、ユーリは迷いなく一歩踏み出し、扉を押し開けた。
店内は、多くの客で賑わっていた。
酒の匂いと喧騒が充満している。
その中を、ユーリは周囲に目もくれず、まっすぐカウンターへ向かった。
「仕事を紹介してほしい」
短く告げる。
酒場のマスターは、ユーリを一瞥すると、淡々と答えた。
「ギルドの登録証を出しな」
「ない」
ユーリが即答する。
「なら紹介はできねぇな」
シャルロットが慌てて口を挟む。
「依頼って、登録証が必要なんですか?」
「ああ。ランクに応じて仕事を振る仕組みだからな」
当然だろ、と言わんばかりの口調だった。
ユーリはわずかに間を置き、再び問う。
「ギルドが介入していない仕事は?」
その一言に、マスターの眉がわずかに動いた。
「⋯⋯あるにはある」
低く、続ける。
「だが、やめとけ。非正規の依頼ばかりだ。命の保証はねぇぞ」
「構わない。見せろ」
迷いはなかった。
マスターは肩をすくめると、カウンターの下から数枚の書類を取り出し、無造作に広げた。
──並ぶ依頼。
密輸した武器の運搬。
要人の暗殺。
犯罪組織の首領の護衛⋯⋯
まともな依頼は、一つもない。
シャルロットの頬が、わずかに引きつる。
その中で、ユーリの手が一枚の紙を取る。
「これにする」
差し出された書類に、シャルロットは目を落とした。
──護衛依頼。
依頼主は商人。
ラクティスから東にある花の村『フロリドゥス』が神獣に占拠されている。
フロリドゥスには貴重な植物があり、それを採取したい。道中の護衛をしてくれる者、求む──。
ギルドを通していない時点で、依頼主もまた、どこかきな臭い。
それでも──他に選択肢は、ない。
──お金が、ないのだから。




