第9話 京子が忘れた事件
午後の数学の授業が始まってから、西条京子はほとんど黒板を見ていなかった。
花沢結華は隣の席から何度か京子を見た。多目的室で小型カメラが見つかってから、京子は時々こうして黙り込む。聞いても返ってくるのは「変」とか「まだ」とか、その程度だったので、結華も途中から放っておいた。
黒板の前では、黒田が長い数式を書き終えたところだった。
「ここから先はちょっと難しいぞ。今のお前らに解けなくても気にするな。大学の入試問題で出てもおかしくないくらいだからな」
教室のあちこちから嫌そうな声が上がった。
その時、京子が顔を上げた。
「分かった」
そのまま立ち上がった京子を、黒田が振り返る。
「おっ。西条この問題分かるのか? これは大学の入試問題レベルだぞ」
「うん」
京子は前へ出ると黒田からチョークを受け取り、黒板に式を書き始めた。途中で手を止めることもなく最後まで解き終えると、チョークを戻して席へ帰ってくる。
黒田は書かれた式を確認した。
「正解だ」
結華は自分のノートと黒板を見比べた。
「私だって出来るわよ。タイミングがちょっと遅れただけ」
「違う。事件の謎が全部わかった」
「え?」
「授業中だぞ、花沢」
「分かってます!」
結華は前を向いたが、隣では京子がもう何事もなかったように座っていた。
◇ ◇ ◇
授業が終わると、京子は鞄を持って立ち上がった。
「行こ」
「どこに?」
「水野先生」
「ちょっと待ちなさい。全部分かったんでしょう? 先に説明してよ」
「水野先生に聞く」
「何を?」
「いろいろ」
「それを説明しなさいって言ってるのよ」
「あとで」
「……もう。分かったわよ」
二人が職員室へ向かっていると、廊下の向こうから水野真帆が歩いてきた。
「あら、二人ともどうしたの?」
「話したい」
「私に?」
「うん」
水野は少し不思議そうな顔をしたものの、近くの空き教室へ二人を連れていった。教室へ入ると、水野は手にしていた書類を教卓の上に置き、京子と結華へ振り返った。
「それで、何の話?」
「木村先生」
水野の顔に残っていた笑みがわずかに薄れた。
「木村先生が辞めた理由、なんで知ってるの?」
「……前にも言ったでしょう。詳しくは知らないって」
「でも知ってた」
「誰かに聞いたのよ」
水野はそう答えながら、教卓の上の書類を揃え直した。結華には、京子がなぜ木村のことを気にしているのか分からない。
「そっか」
京子はそれ以上追及せず、水野を見たまま続けた。
「もう一個いい?」
「……何?」
「多目的室で見つかったやつ」
書類を整えていた水野の手が止まった。
「あれがどうしたの?」
「先生が二人映ってた」
「……そう」
「二人とも、人に見られたくないことしてた」
水野は一度だけ結華へ目を向け、それから京子へ戻した。
「藤崎先生と河合先生が映ってたからって、私には関係ないでしょう」
京子が首を傾げた。
「名前、言ってないよ」
水野の手が教卓から離れた。
結華も京子を見る。確かに京子は、教師が二人映っていたとしか言っていない。
「……誰かが話してるのを聞いたのよ」
さっきまでの柔らかな口調が消えていた。
「木村先生のことも?」
「だから、誰かに聞いたのよ」
水野は今度ははっきりと苛立った声で答えた。
「でも、辞めた理由は違うよ」
「どうしてあなたに分かるの?」
「知ってるから」
「だから、どうして知ってるのよ」
水野が教卓から離れ、京子との距離を一歩縮めた。結華は二人を見比べたが、京子は水野が近づいても表情を変えない。
「校長室にも置いたよね」
水野の足が止まった。
「……何を?」
「カメラ」
「何の話をしてるの?」
水野の声が少し大きくなった。
「校長先生、気づいてたよ」
結華は思わず京子へ身体を向けた。校長室にカメラがあったなど、自分は聞いていない。
「ちょっと待って。校長室にもあったの?」
京子は結華には答えず、水野を見ていた。
「藤崎先生と河合先生が、校長室で何するか見たかった?」
「違うわよ」
「じゃあ校長先生に聞く」
京子が教室の出口へ身体を向けた。
「待って!」
それまで京子との間にあった距離を、水野がすぐに詰めた。京子が振り返ると、水野はもう教師が生徒を注意する時の顔ではなかった。
「……私だけが悪いみたいに言わないで」
京子は黙っている。
「あの二人だって、自分たちのことを黙っていろって言ったのよ。その代わり昇給させるって言ったくせに、信用できるわけないでしょう。それに藤崎先生は昔のことまで持ち出して、校長をどうにかするって……私は巻き込まれたくなかっただけよ」
話しているうちに、水野の声は少しずつ強くなっていった。結華は口を挟まず、先ほどまで穏やかに話していた教師が目の前で変わっていくのを見ていた。
「だから校長室を見てたの?」
「何をするのか知っておきたかっただけ。最初のカメラだって、あの二人を撮るために置いたんじゃない。勝手に映っただけなのよ。それなのに、私まであの二人の事情に巻き込まれて――」
そこで水野は、自分がどこまで話したのか気づいたように口を閉じた。
京子はポケットへ手を入れ、小さなレコーダーを取り出した。
「録ってた」
水野の視線がレコーダーへ落ちた。
「……何?」
「最初から」
水野の顔色が変わった。
結華もレコーダーへ目を向ける。
「私も聞いてないんだけど」
「言ってない」
「なんで私にも言わないのよ」
「聞かれなかったから」
「そういう問題じゃないでしょう!」
結華が言い終わる前に、水野が京子へ近づいた。もう京子の顔ではなく、その手にあるレコーダーだけを見ている。
「それ、渡しなさい」
「嫌」
「西条さん。渡して」
「嫌」
水野がさらに一歩踏み込み、レコーダーへ手を伸ばした。
その瞬間、京子は伸びてきた手首を取った。水野の身体が前へ崩れ、その勢いをそのまま使うように京子が身体を入れ替える。結華が何が起きたのか理解するより先に、水野の足が床から離れ、その身体が勢いよく教室の床へ叩きつけられた。
鈍い音がして、水野が動かなくなった。
さっきまで平然としていた京子の顔が、初めて変わった。慌ててしゃがみ込んで水野の呼吸を確かめると、結華も隣からその様子を覗き込む。
「息してる」
「そりゃ良かったけど、ちょっと京子、大丈夫なの?」
「気絶してる」
「見れば分かるわよ!」
「ごめんなさい」
「本人に言いなさいよ。聞こえてないけど!」
京子は困ったように水野を見た。
「畳じゃなかった」
「教室よ! なんで畳だと思ったのよ!」
「素人だった」
「それも最初から分かるでしょう!」
結華は水野の様子を確かめながら、そこで先ほどから引っかかっていたことを思い出した。
「そうだ。京子、木村先生が辞めた本当の理由、なんで知ってるの?」
「おじいちゃん家にいるから」
「……誰が?」
「美代さん」
結華の手が止まった。
「木村美代先生?」
「うん」
「木村先生、今あなたのおじいさまの家にいるの?」
「お手伝いさん」
「いつから?」
「知らない」
「知らないって、あなた――」
「警察呼ぶ」
「ちょっと待ちなさい。そこも気になるんだけど!」
京子はもうスマートフォンを取り出していた。
◇ ◇ ◇
「――それで警察が来て、あとは全部調べられたのよ」
結華が話し終えると、同窓会のテーブルを囲んでいた同級生たちから一斉に声が上がった。
「思い出した。水野先生が運ばれていったやつ!」
「私、救急車来た時に何があったのかと思ったもん」
「事件より京子が先生を投げた方が噂になってなかった?」
「なってた、なってた」
「次の日には中等部まで知ってたよね」
昔の話が一つ出ると、そこからは誰かの記憶が別の誰かの記憶を呼び起こしていった。水野の事件から話は当時の先生たちへ移り、やがて黒田とバレー部の話になった。
「そういえば黒田先生、まだ桜華にいるんでしょ?」
「いるわよ。今はバレー部の部長」
「顧問じゃないの?」
「今の監督、外から呼んだ人だもん。元オリンピック代表」
「すご。私たちの頃と全然違うじゃん」
「あの頃だって関東まで行ったんだから、強くなり始めてたんじゃない?」
「今じゃ寮まであるよ」
「バレー部専用?」
「そう。地方から来る子も多いから」
「そこまでやる?」
結華が当然のように答えた。
「そう。私たちの学校よ。お金はあるの」
みんなが結華を見る。
「腐らないから」
「そういう問題?」
「でも桜華だしね」
「それで納得するのもどうなのよ」
笑いが起きた。
「今スーパーリーグにいる子も桜華でしょ?」
「そうそう。黒田先生が顧問だった頃の子」
「今でも応援行ってるらしいよ。試合会場で見たって子がいた」
「黒田先生らしいね」
そこから今度は同じ体育館を使っていたバスケ部の話になった。
「バスケは?」
「弱い」
「即答」
「今も?」
「今も」
「バレー目当てで高等部から入ってくる子、多いんでしょう? 運動できる子いるんじゃないの?」
「バレー部に入れなかった子がバスケ部に行ったりするらしいよ」
「じゃあ少しは強くなりそうじゃない?」
「大森先生が嫌がるでしょ」
「ああ」
何人かが同時に納得した。
「あの先生、本当に勝ちたがらなかったよね」
「勝ったら次の試合があるから」
「日曜日潰れるってずっと言ってた」
「京子が入った時だけ三回戦まで行ったじゃん」
「あった!」
「あれ、京子が一、二回戦ほとんど一人で勝たせたんだよね?」
「それで三回戦の日にコンビニ行って消えた」
「迷子ね」
「後輩の子、泣きそうになってなかった? 自分が道教えたからって」
「大森先生、探しにも行かなかったよ」
「言ってたもん。『俺は日曜日くらい家に居たいんだ』って」
「教師としてどうなのよ」
「でも大森先生だし」
「それで済ませるの?」
また笑いが起きた。
「ねえ京子、あの時どこまで行ってたの?」
返事がなかった。
質問した同級生が隣を見る。そこにいたはずの京子の椅子は空いていた。
「……京子は?」
みんなが周囲を見回した。
「さっきまでいたよね?」
「いたよ」
「いついなくなったの?」
「知らない」
「また食べ物探しに行ったんじゃない?」
何人かがビュッフェ台へ目を向けたが、京子の姿はなかった。
「ホテルの中なら大丈夫じゃない?」
「京子よ?」
「じゃあホテルの中じゃないかも」
「探す?」
少しだけ間があった。
誰かがグラスを持ち上げた。
「まあ京子だし、そのうち見つかるでしょ」
「そうね」
誰も席を立たなかった。
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私はいつでもMinority




