第7話 忘れた事件
ホテルの車寄せで車を降りると、入口の脇に花沢結華が立っていた。
艶のある長い黒髪をきれいに整え、細身の身体には落ち着いた色のワンピースを合わせている。姿勢がよく、整った顔立ちも相まって、何も知らずに見れば少し近寄りがたい印象を受けるかもしれない。
京子が近づくと、結華は走り去っていく車を見ながら言った。
「今日もあの男に送ってもらったの?」
「今日はおじいちゃんとこのお手伝いさんの美代さん」
「そう。挨拶くらいしたかったわ」
「もう行っちゃった」
「見れば分かるわよ。まあいいわ。早く受付済ませて入りましょう」
「うん」
ホテルの宴会場では、すでに桜華女学館高等部七十三期卒業生の同窓会が始まりかけていた。受付を済ませたところで結華は同級生に呼び止められ、京子は一人で会場へ入ると、そのまま料理の並ぶテーブルへ向かった。
「来て早々、食べ物しか見てないわね」
追いついてきた結華が隣で皿を取った。
「結華」
「私の名前は覚えてるのね」
「うん」
「そこを確認されると、なんだか喜んでいいのか分からないわ」
そこへ数人の同級生が集まってきた。
「京子、久しぶり!」
「久しぶり」
「私のこと覚えてる?」
京子は相手の顔をしばらく見た。
「見たことある」
「小学校五年から高校一年まで六年間同じクラスになったことあるんだけど!」
「じゃあ知ってる」
「名前は?」
「知らない」
「相変わらずだ!」
笑いが起こる中、別の同級生が京子の皿を覗き込んだ。
「でも変なことは覚えてるんだよね。私が二年の時に階段から落ちてパンツ見えたのとか」
「水色」
「それは忘れて!」
「ほら、そういうの!」
「京子って昔から人の名前は忘れるのに、どうでもいいことだけ妙に覚えてたよね」
結華が首を振った。
「どうでもいいかどうかの基準が私たちと違うのよ」
「そういえば、あれ覚えてる? 隠しカメラの事件」
京子がフォークを止めた。
「覚えてる」
「珍しい。ちゃんと覚えてるのね」
「うん」
◆ ◆ ◆
高校一年の初夏。休日、京子は結華と車に乗っていた。
窓の外を眺めていた京子が、ふいに口を開いた。
「水野先生」
歩道を歩いていた水野は、学校で見る姿とはずいぶん違っていた。いつもまとめている髪を下ろし、明るい色のワンピースを着て、友人らしい女性と楽しそうに話している。
結華も窓の外へ目を向けた。
「休日くらい好きな格好するでしょ」
「あれ食べたい」
「ハンバーガー?」
「うん。食べたことない」
「私は何度かあるわよ。寄ってみる?」
「うん」
◆ ◆ ◆
「ちょっと待って。隠しカメラの事件は秋よ」
京子は皿の料理を食べながら言った。
「ハンバーガー美味しかった」
「そっちを覚えてたのね」
「うん」
結華は額に手を当てた。
「もういいわ。私が話してあげる」
◆ ◆ ◆
その年の秋、桜華女学館高等部では女子バレー部が関東大会への出場を決めた。
当時顧問だった黒田剛志は数学教師で、授業は分かりやすいと評判だったが、バレー部のことになると少々暑苦しかった。大会が近づけば遅くまで練習に付き合い、部員の身体のケアまで自分でやる。運動部でもない生徒まで勧誘するので、廊下で黒田に捕まると長いというのが生徒たちの共通認識だった。
体育の授業を終えた京子も捕まった。
「西条、バレー部入らないか?」
「やだ」
「即答かよ。お前、ジャンプ力あるし球技も上手いだろ。練習すればかなりいけると思うぞ」
「帰りたいから」
「部活終わってから帰ればいいだろ」
「毎日?」
「そりゃ部活だからな」
「やだ」
黒田は腕を組んだ。
「じゃあ大会前だけでも手伝わないか? 人数足りない時とか」
「帰れる?」
「終わったらな」
「すぐ?」
「……お前、そこしか興味ないのか」
「うん」
近くで聞いていた結華が口を挟んだ。
「先生、この子に継続的な努力を期待するのはやめた方がいいと思います」
「花沢までそんなこと言うなよ」
「事実です」
「まあいい。気が変わったら言え。練習終わりに身体痛かったらマッサージくらいしてやるぞ」
「いらない」
「そうかよ」
黒田は苦笑しながら去っていった。
◇ ◇ ◇
数日後、京子と結華は担任に頼まれたプリントを職員室へ届けに行った。
桜華女学館の職員室には、教科以上に性格の違う教師たちが揃っていた。
体育教師の大森健吾は、いつも少し眠そうだった。授業をさぼるわけではないし、生徒から質問されればきちんと答える。ただ、仕事への情熱を聞かれると困った顔をする。バスケットボール部の顧問もしていたが、本人が口にする目標は全国大会でも都大会でもなく、日曜日に家にいることだった。
教頭の藤崎真理子はその正反対で、何事にも細かかった。提出期限、服装、学校行事の進行までよく見ており、大森とは日常的に衝突していた。
進路指導の河合正人は声が大きく、生徒にも教師にも言うべきことをはっきり言う。進路面談で泣かされたという生徒もいたが、卒業生が学校へ来ると真っ先に河合を訪ねることも多かった。
水野真帆は二十五歳、教師になって三年目だった。生徒と年齢が近く、話しかけやすい。休み時間に相談を持ちかけられて、そのまま昼食を食べ損ねている姿も珍しくなかった。
その日も大森が水野の机の横に立っていた。
「水野先生は立ち回りが上手いですよねえ。生徒にも人気あるし、先生たちとも揉めないし」
「そんなことないですよ」
水野は笑って否定した。
「相談に来る生徒が多いのだって、話しかけやすいだけだと思います」
「それが出来るのがすごいんですよ。俺なんて何度も教頭と喧嘩しちゃってますよ」
大森は少し離れた席にいる藤崎へ視線を向けた。
「立ち姿だけならキレイなのに、喋ると……ねぇ?」
「大森先生」
「聞こえてますよ」
「ほらね」
「何が、ほらね、なんですか」
河合が書類から顔を上げて笑った。
「大森先生、それくらいにしないと、また聞かれちゃいますよ」
「河合先生まで何ですか」
「私は止めただけですよ」
「そういう言い方が一番腹立つんです」
大森は時計を見た。
「じゃ、俺は今日はもう帰りますから」
「まだ勤務時間ですよ」
「じゃあ仕事します」
「最初からしてください」
「はいはい」
大森は椅子に座り直した。
「俺は日曜日くらい家に居たいんですよ。平日まで残業したら、いつ休むんですか」
「勤務時間中に帰ろうとした人が言うことじゃありません」
「藤崎先生は厳しいなあ」
「普通です」
そこへ職員室の入口から女子生徒が水野を呼んだ。
「水野先生、ちょっと相談していいですか?」
「いいよ。どうしたの?」
水野はすぐに席を立った。
その後ろから別の生徒が入ってきて、河合の机へ進路希望調査を置いた。
「河合先生、これ」
「遅い。昨日までだぞ」
「忘れてました」
「忘れましたで期限が延びるなら、大学の願書も全部それで済むな」
「ごめんなさい」
「次から気をつけろ。そこ置いとけ」
「怒らないんですか?」
「怒ってるよ。大声出さなきゃ分からないのか?」
「分かります」
「なら帰れ」
生徒が笑いながら職員室を出ていった。
大森が感心したように河合を見た。
「優しいじゃないですか」
「何がです?」
「もっと怒るかと思った」
「出してきたものを怒鳴っても期限は戻りませんよ」
「なるほど。俺なら明日出してもいいって言っちゃうな」
「だから駄目なんですよ」
「河合先生まで俺に厳しくない?」
「普通です」
「この職員室、俺にだけ厳しいな」
「仕事してください」
藤崎に言われ、大森は黙って机に向かった。
プリントを置き終えた結華が京子を見ると、京子はすでに職員室の出口へ向かっていた。
「ちょっと、待ちなさいよ」
「終わったから」
「そうだけど、一言くらい言いなさい」
「帰ろ」
「はいはい」
◇ ◇ ◇
翌日、京子と結華は授業で使う備品を取りに多目的室へ行った。
「先生、どれを持っていけばいいって?」
「延長コード二本と、台車」
「台車?」
「そこにあるでしょう」
「どれ?」
「それよ」
京子が結華の指した方へ歩きかけ、途中で足を止めた。
「どうしたの?」
返事はない。
京子は壁の上部を見ていた。
「京子?」
「これ、変」
「何が?」
京子が指した先には火災報知設備の一部に見える小さな機器があった。
「向き」
「向き?」
「こっち見てる」
結華には何が変なのか分からなかったが、京子は近くにいた教師を呼んだ。
設備担当者も交えて確認すると、それは学校が設置した設備ではなく、中から小型の隠しカメラが見つかった。
多目的室はすぐ使用禁止になった。学校は警察には届けず、藤崎を中心に校内で状況を確認することになり、生徒には不審な機器が見つかったため部屋を閉鎖するとだけ伝えられた。
詳しい説明がなかったこともあって、翌日には校内のあちこちで噂が始まっていた。
「黒田先生なんじゃない?」
「多目的室、バレー部も使うことあるよね」
「黒田先生、いつも遅くまで残ってるし」
「選手にマッサージしてるって聞いたことある」
「でも黒田先生がそんなことする?」
「分かんないじゃん」
関東大会への出場を決めたばかりのバレー部でも噂は広がり、部員たちは落ち着かない様子を見せていた。
◇ ◇ ◇
放課後、京子と結華が職員室の前を通ると、藤崎と河合が廊下で話していた。
「生徒の間でかなり噂になっています」
河合が声を抑えて言った。
「先生の名前まで出ていますよ。黒田先生なんて、ずっと部のために頑張ってきたのに」
「だからこそ、教師が憶測を広げるようなことは絶対にしないでください」
「分かっています」
「生徒にも余計なことは言わないようにしてください。学校内で確認します」
「でも、このままだと黒田先生が」
「分かっていないことを説明することはできません」
藤崎はそう言って職員室へ戻った。
河合はその背中を見て小さくため息をつき、反対方向へ歩いていった。
「相変わらずね」
結華が言った。
「誰が?」
「藤崎先生。学校のことになると、何でも自分で管理しないと気が済まないのよ」
「そう」
「河合先生も大変そう」
「そう?」
「あなた、本当に人間関係に興味ないわね」
「あるよ」
「どこに?」
「カメラ」
「それは人間関係じゃないわ」
そこへ水野がやってきた。
「二人とも、まだ残ってたの?」
「少し調べていたんです」
「何を?」
「カメラのことです」
水野は少し困ったように笑った。
「自分たちだけで変なことしちゃ駄目だよ。誰が置いたか分からないんだから」
「でも、このままだと黒田先生が犯人みたいになってます」
「それもまだ分からないでしょ。噂だけで決めちゃ駄目だよ」
「はい」
「何か見つけたら先生に教えて。危ないことだけはしないでね」
水野はそれだけ言って職員室へ入っていった。
結華は京子を見た。
「帰る?」
「うん」
「今日は寄り道しないわよ」
「ハンバーガー」
「行かないって言ったでしょう」
京子は少し考えた。
「一個だけ」
「個数の問題じゃないわよ」
結華は歩き出し、京子もその隣をついていった。




