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第6話 消えた男の行き先

 十二階の一二〇七号室へ戻った所沢は、今度は「失踪した人間の部屋」ではなく、「佐伯直人が何をするために使った部屋なのか」という目で室内を見直した。


 ベッドはほとんど乱れていない。浴室も未使用で、ホテルの歯ブラシやタオルにも手をつけた形跡はなかった。仕事用のバッグは残され、チェックイン時に着ていたスーツと革靴もきれいに置かれている。


「確かに、泊まった形は薄いですね」


 史華が言った。


「だが、まだ泊まっていないだけとも考えられる」


 所沢はすぐに答えた。


「はい」


「西条の言葉に引っ張られるな。可能性が一つ増えただけだ」


「分かりました」


 孝之がバッグの中身を確認している捜査員へ目を向ける。


「私服は?」


「見当たりません。下着などもありません。仕事関係の書類と筆記具、それから充電器くらいですね」


「宿泊用の荷物じゃないな」


「そうですね」


 史華が玄関を見る。そこにはスーツと革靴がある。


「警視」


「なんだ」


「もし本当に泊まるためじゃなかったとしたら、ここで服を着替えた可能性はありませんか?」


 所沢が史華を見る。


「続けろ」


「チェックインしたときはスーツでした。でもそのスーツがここに残っていて、同じ姿で出た人はいない。だったら、別の服で出た人を探した方がいいと思います」


「それはもうやっている」


「はい。でも……さっきの黒いTシャツの人たちです」


 孝之が顔を上げた。


「イベントの連中か」


「はい。ロビーにたくさんいたので、ホテル側もほとんどイベント関係者だと思っていたみたいです」


 所沢は数秒考えた。


「もう一度映像を見るぞ。今度は十二階からだ」


 ◇      ◇      ◇


 午後六時四十二分。


 スーツ姿の佐伯直人が一二〇七号室へ入る。


 防犯カメラの映像を止め、孝之が画面を見る。


「身長は百七十三。中肉。髪は短め。眼鏡は?」


「チェックイン時はかけています」


 史華が資料を見る。


「三十八歳。顔立ちは……特徴がないと言ったら失礼ですけど、ぱっと見て覚えやすいタイプではないですね」


「そういう人間の方が多い」


 所沢が言う。


「続けろ」


 映像が進む。


 宿泊客が何人か廊下を通り、エレベーターへ向かう。七時を少し過ぎたところで、黒いTシャツ姿の男が画面に現れた。


「止めてください」


 史華が言った。


 映像が止まる。


 男はキャップをかぶり、眼鏡をかけている。肩には小さなショルダーバッグ。顔はやや下を向いていて、映像だけでははっきり確認できない。


「この人です」


「何がだ」


「さっき一階の映像で、イベントスタッフとして整理されていた人です」


 史華は別の記録を確認した。


「ホテルの方が『見覚えがある』と言ってました。同じような体格のスタッフがいるそうです」


「本人確認はしたのか」


「まだです」


「なら確認しろ」


「はい」


 史華がホテルスタッフへ連絡を取り、数分後にイベント関係者の名簿と責任者からの回答が届いた。


「似ているスタッフは森田さんという男性です。三十九歳で、黒いTシャツとキャップを着用していたそうです」


「今の映像は森田か?」


「待ってください」


 別の映像を確認する。午後七時四分。同じ時刻、ホテル裏手の搬入口で機材を運ぶ男が映っていた。


 黒いTシャツ。キャップ。眼鏡。


「これ、森田さんです」


 史華が言った。


「責任者の方にも確認してもらいました」


 孝之が二つの映像を見比べる。


「じゃあ十二階から出てきたこっちは別人だ」


「はい」


 史華の声が少し弾んだ。


「しかも佐伯さんと体格がかなり近いです」


「西本」


「はい」


「まだ喜ぶところじゃない」


「すみません」


 所沢が画面を見る。


「一階まで追え」


 十二階の男がエレベーターへ乗る。数十秒後、一階の映像に同じ男が現れた。


 ロビーには黒いTシャツ姿の男女が何人もいる。男もその中に混じってホテルを出ていった。誰も振り返らない。ホテルスタッフも止めない。


 そこに不自然な動きは何もなかった。


「普通に出てるな」


 孝之が言った。


「普通すぎて見落としたんですね」


 史華が画面を見ながら答える。


「『イベントの人』だと思って」


「そういうことになるな」


 所沢は認めたものの、すぐに続けた。


「だが、この男が佐伯だという確認はまだ取れていない」


「はい」


「Tシャツを調べろ」


 孝之が画面を拡大する。黒いTシャツの胸元に、白とピンクの文字が入っていた。映像では全部読めないが、先頭の数文字だけは確認できる。


「ホテルにいた連中と同じですね」


「物販でも売っているそうです」


 史華がイベント責任者から届いた回答を見る。


「スタッフだけの制服じゃありません。今日のイベントで販売されているTシャツと同じものだそうです」


「イベント名は?」


 史華が一度画面を見てから答えた。


「『ミルキーステップ』です。女性アイドルグループのライブみたいです」


 孝之が黙った。


 所沢も数秒、何も言わなかった。


「地下アイドル……ですかね」


 史華が付け加える。


「分類はどうでもいい」


「はい」


「会場は?」


「ここから歩いて十分かからないホールです。開演は午後七時半」


 孝之が時計を見るように頭の中で時間を追う。


「佐伯が部屋に入ったのは六時四十二分。家族にメッセージを送ったのが六時五十七分。この男が十二階から出たのは七時六分」


「十分あり得るな」


 所沢が言った。


「会場へ確認を取れ。佐伯直人名義のチケット購入、入場記録、映像。全部だ」


「はい」


 史華が動き出す。


「それから西本」


「はい?」


「ホテルの予約時刻ももう一度」


「午後四時八分です」


「今日になって急に取った理由が、ライブと関係しているかもしれん」


「確認します」


 今度の返事には浮ついたところがなかった。


 ◇      ◇      ◇


 ロビーでは、京子がソファに座ったまま充電中のスマートフォンを眺めていた。


 電源は戻った。


 通知が大量に溜まっている。


「……いっぱい」


 一つずつ見る気にはならなかったので画面を閉じる。


 目の前では、まだ黒いTシャツ姿の人たちが行き来していた。ホテルから出ていく者もいれば、帰ってくる者もいる。大きな荷物を持っている人間もいれば、小さなバッグだけの人間もいる。


 しばらくしてエレベーターが開き、所沢、孝之、史華が戻ってきた。


「分かった?」


 京子が聞く。


「お前、本当に自然に捜査の輪に入ってくるよな」


 孝之が言った。


「気になってるから」


「そうだろうけど」


 所沢は京子の前で止まった。


「君が言った通り、佐伯がこの部屋を泊まるために使っていなかった可能性が出てきた」


「そっか」


「もう少し驚いたらどうだ」


「聞いたから」


「今聞いたんだが」


「うん」


「……まあいい」


 京子が史華を見る。


「服?」


 史華が所沢を見た。


「言っていいですか?」


「ここまで来たら構わん」


「佐伯さんらしい人が、黒いTシャツに着替えてホテルを出た可能性があります」


「らしい?」


「まだ本人確認が取れてないので」


「そう」


 京子はロビーを横切る黒いTシャツ姿の男を見る。


「この人たちと同じ?」


「同じイベントのTシャツみたいです」


「何の?」


「アイドルのライブです」


「アイドル」


「はい」


「佐伯さんも?」


「それを今調べています」


 京子は少し考えた。


「じゃあホテル、着替えるため?」


 孝之が頷く。


「可能性はあるな」


「荷物も置ける」


「そうだな」


「スマホも」


「……それはまだ分からない」


 所沢が言った。


「置いていく理由がない」


 京子が首を傾げる。


「あるかも」


「何だ」


「邪魔だったとか」


「財布まで残っている」


「別の財布持ってたら?」


 所沢は返事をしなかった。


 孝之が京子を見る。


「何でそう思った?」


「小さいバッグ持ってたんでしょ?」


「映像を見てないのに何で知ってる」


「史華が言った」


 史華が目を丸くする。


「私、言いました?」


「さっき黒いTシャツって言った時」


「小さいバッグは言ってないです」


「じゃあ孝之」


「俺も言ってねえよ」


 京子は少し考えた。


「……誰か言ってた気がした」


「怖いから適当に情報を増やすな」


「ごめん」


 所沢がわずかに眉間を押さえたところで、史華のスマートフォンが鳴った。


「はい、西本です」


 電話に出た史華の表情が変わる。


「……はい。はい、分かりました。映像もありますか? お願いします」


 電話を切り、全員を見る。


「佐伯さん、ライブ会場に入ってます」


 孝之がすぐ聞く。


「本人確認は?」


「電子チケットが佐伯直人名義です。会場の入場記録も残っています。スタッフの方も顔を覚えていました」


「何時だ」


「七時二十一分」


 所沢が腕時計を見る。


「ホテルを出た時間とも合う」


「はい」


「なら、少なくともホテルから消えた謎は終わりだ」


 史華が少し笑う。


「普通に出てたんですね」


「普通に出ていた。ただ、こちらが佐伯だと思わなかった」


 所沢は黒いTシャツの人々へ視線を向けた。


「人は見たものを、そのまま記憶しているつもりになる。実際には、見た瞬間に分類している。『宿泊客』『スタッフ』『家族連れ』『会社員』。一度箱に入れた人間は、別の箱から探そうとしなくなる」


 京子が頷く。


「同じ人なのに」


「ああ」


 孝之が言った。


「でも問題は残ってますよ。ライブに行ってたのが分かっても、佐伯が今どこにいるかはまだ分からない」


「そうだ」


 所沢の表情が戻る。


「会場へ人を出す。ライブ後の行動を確認しろ」


 ◇      ◇      ◇


「佐伯さんなら、最近よく来てくれてますよ」


 ライブ会場の運営スタッフは、防犯カメラの映像を見ながら答えた。


「最近というのは?」


 孝之が聞く。


「二、三か月くらいかな。毎回来てるわけじゃないですけど、何度か見てます」


「以前からこういうライブへ?」


「いや、本人は初めてだって言ってましたよ」


「初めて?」


「駅前でうちのメンバーがビラ配ってた時、たまたま受け取ったみたいで。それで一回見に来たらハマったって」


 隣にいた史華が少し笑う。


「じゃあ、最近ファンになったんですね」


「そうですね。最初の頃はずっと端っこで見てましたけど、最近は他のお客さんとも話してましたよ」


「今日は?」


「いました。黒い公式Tシャツ着て、キャップかぶってました」


 孝之と史華が顔を見合わせる。


「ライブ終了後は?」


「九時過ぎです。佐伯さんは……」


 スタッフが映像を進める。


 二人の男性が出口から出てきた。


 一人は佐伯だった。黒いTシャツ、キャップ、眼鏡。ホテルの防犯カメラに映っていた男と同じ格好をしている。


 隣には四十歳前後の男性がいた。


「この人と一緒でした」


「知り合いですか?」


「最近ここで知り合ったんじゃないかな。同じメンバーを応援してる人です」


「名前は分かります?」


「チケットの記録を調べれば」


「お願いします」


 史華が映像を見る。


 佐伯は笑っていた。


「落ち込んでるようには見えないですね」


「映像だけで決めるな」


 所沢が後ろから言った。


「はい」


「だが、少なくともライブを楽しんでいた可能性は高い」


 別の捜査員が近づいてきた。


「警視、佐伯と一緒にいた男性が分かりました。四十二歳の会社員です。電話していますが、今のところ応答がありません」


「二人ともか」


「はい」


「飲みにでも行ったか」


 孝之が言った。


「可能性はある」


 所沢は答えた。


「周辺を当たれ。飲食店の防犯カメラも確認する」


「はい」


 その時、史華がスタッフに何気なく聞いた。


「佐伯さんって、どのメンバーのファンなんですか?」


「春野ミユですね」


「へえ」


「最近、あの子が配信で変なことばっかり話すから、佐伯さんも影響されてるみたいですよ」


 孝之が顔を上げる。


「変なこと?」


「別に変ってほどじゃないですけど。投資とか、怖い場所とか、雑学みたいなのを延々調べて話すんですよ。先週なんか青木ヶ原の都市伝説を見たとか言ってて」


 史華の顔から笑みが消えた。


「……青木ヶ原?」


「はい」


「投資も?」


「最近NISAを始めたいとか言ってて。視聴者に『何買えばいい?』とか聞いてました」


 史華はすぐ所沢を見る。


「警視」


「聞いている」


 自宅のパソコンに残っていた履歴。


 投資。


 青木ヶ原樹海。


 それだけを見れば、不穏な線を作ることはできた。


 だが、その二つはまったく別の場所から来た情報だった。


「配信の記録、確認できますか?」


「公開されてるやつなら見られますよ」


 スタッフがスマートフォンを操作する。


 数分後、春野ミユという若い女性が配信で投資について話す映像と、青木ヶ原の都市伝説について楽しそうに話す別の日の映像が確認できた。


 史華が小さく息を吐く。


「全部、意味が違った……」


「まだ佐伯本人に確認していない」


 所沢が言った。


「でも」


「西本」


「はい」


「事実と解釈を分けろ」


「……はい」


「佐伯が投資サイトを見た。青木ヶ原を検索した。それが事実だ。なぜ見たのかは、まだ本人から聞いていない」


「はい」


 史華は今度はしっかり頷いた。


 ◇      ◇      ◇


 佐伯がホテル・セントアークへ戻ってきたのは、それから一時間ほど経った頃だった。


 自動ドアが開き、黒いTシャツ姿の男が入ってくる。


 キャップ。


 眼鏡。


 スニーカー。


 肩には小さなバッグ。


 首にはタオル。


 佐伯はロビーへ一歩入ったところで止まった。


 警察官がいる。


 妻がいる。


 娘もいる。


 そして知らない女が一人、ソファからこちらを見ている。


「……え?」


 所沢が立ち上がった。


「佐伯直人さんですね」


「はい……」


「直人!」


 妻が立ち上がる。


「えっ、なんでいるの?」


「なんでじゃないわよ! どこ行ってたの!」


「どこって……」


 佐伯は自分の格好を見た。


 黒いTシャツ。


 首のタオル。


 それから周囲を見る。


「……ライブ」


「何?」


「ライブ行ってました」


「何の?」


 佐伯の声が小さくなる。


「地下アイドルの」


 妻が黙った。


 娘も黙った。


 史華も黙った。


 京子だけが普通に聞いた。


「楽しかった?」


 孝之が横から京子を見る。


「今それ聞く?」


「気になった」


 佐伯は戸惑いながらも答えた。


「……楽しかったです」


「よかったね」


「ありがとうございます」


「京子、会話成立させるな」


 所沢が佐伯を見る。


「その後はどこにいました」


「ライブで知り合った人と飲みに行って、そのあと少しカラオケに……」


「今まで?」


「はい」


「連絡は」


「サブのスマホが途中で充電切れて……」


「サブ?」


「こっちです」


 佐伯が小さなバッグからスマートフォンを出した。


「部屋に残っていた携帯電話は?」


「普段使ってる方です」


「なぜ置いていった」


 佐伯が少し言いにくそうな顔をする。


「ライブ中に妻から電話かかってきたら困るので」


 妻の眉が動いた。


「困る?」


「いや、違う。そういう意味じゃなくて」


「どういう意味?」


「ライブ中に電話取ったら、周りの音で分かるだろ」


「何が?」


 佐伯は一度、目を閉じた。


「……地下アイドルが」


「もう全部バレてるわよ!」


「はい」


 佐伯が小さくなる。


 所沢が続けた。


「午後六時五十七分に送ったメッセージは?」


「ホテルで着替えたあとです」


「『今日はかなり遅くなる。先に寝てて。連絡はしなくていい』」


「はい」


「どういうつもりでした」


「本当に遅くなるから……。ライブ中に電話来ても出られないし、そのあと飲みに行くかもしれなかったので」


 妻が額に手を当てる。


「だったら普通にそう言えばいいでしょう」


「ライブって?」


「そこまで言わなくても『友達と出かける』とかあるでしょう!」


「友達って今日知り合った人だし……」


「そこじゃない!」


「はい」


 孝之が小さく言う。


「これは怒られて当然だな」


「うん」


 京子が頷いた。


「お前も今日、似たようなことしてるからな」


「してないよ」


「連絡つかない状態でホテル間違えて迷子になっただろ」


「あ」


「あ、じゃねえよ」


 妻はしばらく夫を睨んでいたが、やがて少し声を落とした。


「いつからなの?」


「何が?」


「その……アイドル」


「三か月くらい」


「三か月!?」


「最初は違うんだよ」


「何が」


「仕事帰りに駅前でビラ渡されて、なんとなく一回行ってみたら……」


「うん」


「楽しくて」


 佐伯は困ったように笑った。


「仕事で嫌なことがあっても、ライブ見て帰ると、なんかどうでもよくなってるんだよ。家で仕事の愚痴ばっかり言いたくなかったし」


 妻は黙って聞いている。


「お前と美咲にまで聞かせても仕方ないだろ。家帰ったら普通に飯食って、くだらない話してる方がいいし」


「だから地下アイドル?」


「……はい」


 娘が吹き出した。


「パパ、ウケる」


「美咲」


「だって三か月隠してたんでしょ?」


「笑うなよ」


「誰推してんの?」


「え?」


「グループ誰?」


「ミルキーステップ」


「知ってる」


 佐伯が娘を見る。


「え?」


「友達が動画見てる」


「知ってんの?」


「うん」


「……マジで?」


「そのくらいでそんな驚く?」


 佐伯はしばらく娘を見ていた。


「……言えばよかった」


「最初から言いなさいよ」


 妻が言った。


「趣味があることに怒ってるんじゃないの」


「はい」


「友達ができたことにも怒ってない」


「はい」


「連絡つかなくなるまで遊んでたことに怒ってるの。会社に電話したら『今日は午後から有給です』って言われて、ホテルに電話したら荷物とスマホだけ残ってて、私がどれだけ怖かったと思ってるの」


 佐伯の顔から笑いが消えた。


「……ごめん」


「本当に心配したんだから」


「ごめん」


 今度ははっきり言った。


 妻は大きく息を吐いた。


「帰ったら話聞くから」


「何の?」


「ライブの」


「え?」


「三か月も何してたのか全部」


 佐伯が少しだけ嬉しそうな顔をする。


「……長いよ?」


「三か月隠してたんだから聞くわよ」


 娘が横から聞いた。


「チェキある?」


「……ある」


「見せて」


「それはちょっと」


「なんで」


「恥ずかしい」


「もう遅いって」


 娘が笑う。


 佐伯もようやく少し笑った。


 所沢はその様子を確認してから、まだ聞くことがあると告げた。


「佐伯さん。もう二点確認します」


「はい」


「最近、投資について調べていますね」


 佐伯が目を瞬く。


「ああ、はい」


「理由は?」


「推してる子が配信でNISAの話してて。俺もよく分かってなかったので、なんとなく調べました」


「青木ヶ原樹海についても検索しています」


「ああ」


 佐伯は今度はすぐに分かったらしい。


「それもミユちゃんです。配信で青木ヶ原の都市伝説の話してて、本当にそんな場所なのかなと思って」


「それだけですか」


「それだけです」


 史華が小さく息を吐いた。


 京子が佐伯を見る。


「好きな人が言ったこと、調べたの?」


「まあ……そうですね」


「いっぱい?」


「結構」


「なんで?」


 佐伯が少し照れた。


「話してること分かった方が楽しいじゃないですか」


「そっか」


 京子はそれだけで納得した。


 ◇      ◇      ◇


「結局、事件じゃなかったんですね」


 佐伯一家が帰ったあと、史華が言った。


「結果的にはな」


 所沢は腕を組んでいた。


「でも、本当に消えたように見えました」


「見えただけだ」


 孝之が防犯カメラの静止画を見る。


「佐伯は普通にホテルから出ていた。スーツからライブ用の服に着替えて、その格好がイベント関係者と似ていたから、最初の確認で別人として処理された」


「ホテルを取った理由は分かったんですか?」


 史華が聞く。


「ああ」


 孝之が答える。


「駅の防犯カメラも確認できた。佐伯はホテルへ来る前、駅構内のコインロッカーを何ヶ所か回ってる」


「全部埋まってた?」


「そういうことらしい。本人にも確認した。普段は仕事用のバッグとスーツをロッカーに入れて、ライブ用の服に着替えて行ってた」


「今日はそれができなかったからホテルを取った」


「当日の午後四時に急きょな。一泊分払ってでも、荷物を置いて着替えられればよかったらしい」


「ホテルなのに、泊まるためじゃなかったんですね」


 史華がロビーのソファを見る。


 さっき京子が座っていた場所だ。


「西条はそこに引っ掛かったんだろう」


 所沢が言った。


「俺たちは最初からここを『宿泊先』として見ていた。佐伯は宿泊客としてチェックインした。だから部屋にあるものも、残された宿泊客の荷物として見た」


「でも佐伯さんにとっては、荷物置き場と更衣室だった」


「ああ」


 孝之が続ける。


「投資サイトを見ていたことも、青木ヶ原を検索していたことも、本当だった。午後から有給を取って家族に仕事だと嘘をついたのも本当。スマホを置いて出たのも本当だ」


「全部本当なのに」


 史華が言う。


「並べ方を変えると、全然違う話になるんですね」


 所沢が頷いた。


「人間は事実だけでは考えられん。どうしても意味をつける。だからこそ、その意味を事実と同じものだと思うな」


「はい」


「西本」


「はい」


「最初から事件だと決めつけるな。だが、事件ではないとも決めつけるな」


「はい」


「確認して、初めて分かる」


「分かりました」


 所沢は京子を見る。


「西条」


「なに?」


「今回は助かった」


「うん」


 所沢が少し待った。


 京子も待った。


「……以上か?」


「うん」


 孝之が横から言う。


「京子、こういう時は『どういたしまして』とかあるだろ」


「あ」


 京子が所沢を見る。


「どういたしまして」


「遅い」


「ごめん」


 所沢がわずかに笑った。


「まあいい」


 史華が京子へ近づく。


「先輩、やっぱりすごいです。私、最初は完全に部屋から人が消えたと思ってました」


「史華」


「はい?」


「眠い」


「……はい」


「帰る」


 京子は迷いのない足取りで歩き出した。


「京子」


「なに?」


「どこ行く」


「帰る」


「そっちは宴会場だ」


 京子が止まる。


「……?」


「なんで事件の意味は全部ひっくり返せるのに、ホテルの出口だけ分かんねえんだよ」


「じゃあホテル」


「予約してるホテルは反対だ!」


 史華が吹き出した。


「先輩、変わってないですね」


「笑い事じゃないんだよ。こいつ今日だけで何回迷子になるんだ」


「二回?」


 京子が答える。


「聞いてねえ」


 ◇      ◇      ◇


 翌日、西条家には電気が戻っていた。


 京子がリビングの照明をつける。


「ついた」


「普通はつく」


 孝之はテーブルの上に郵便物を並べながら答えた。昨夜ホテルから帰ったあと、今日こそ支払い方法を変更させると決めていたらしい。


「京子、来い」


「なに?」


「これ見ろ」


 テーブルには、同じような紙が四枚並んでいた。


「何だと思う?」


「電気の紙」


「もうちょっと詳しく」


 京子が一枚を手に取る。


「口座振替申込書」


「そうだよ。なんで四枚あるんだよ」


「何回かやろうと思ったから」


「思うたびに新しいの取り寄せるなよ」


 一枚は本棚の裏から、一枚はソファの下から、もう一枚は冷蔵庫の横から出てきた。最後の一枚は、なぜか洗面所にあった。


「今日やるぞ」


「カードじゃないの?」


「カード払いにできるならそれでもいい。とにかく今ここで手続きする」


「うん」


 京子はスマートフォンを手に取った。


「何してる」


「調べる」


「逃げるなよ」


「逃げないよ」


 数回画面を操作した京子が言った。


「あ」


「なんだ」


「ネットでできる」


 孝之はテーブルに並んだ四枚の申込書を見た。


 京子のスマートフォンを見る。


 もう一度四枚を見る。


「……最初からそれでやれよ」


「今知った」


「四枚取り寄せる前に知ってくれ」


 京子がそのまま手続きを進める。


「お客様番号」


「請求書に書いてある」


「請求書」


「昨日見つけただろ」


 京子は少し考えた。


「どこ?」


 孝之は黙って天井を見上げた。


「孝之?」


「探すぞ」


「何を?」


「昨日見つけたばっかりの電気の紙だよ」


「また?」


「俺が言いたい!」


 殺人事件なら考えられる。


 人が消えたホテルの謎も解ける。


 見えている事実から、誰も気づかなかった意味を拾うこともできる。


 けれど。


 西条京子は今日も、自分の日常だけは解決できなかった。

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私はいつでもMinority

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