第5話 消えた宿泊客
「その部屋、見たい」
西本史華は目を瞬いた。京子はエレベーターの階数表示を見上げたまま、もう一度同じことを言う。
「部屋」
「分かってます。分かってますけど、一般の方を捜査中の客室に入れることはできません」
「うん」
「……あっさりですね」
「駄目なんでしょ?」
「駄目です」
「じゃあ仕方ないね」
京子はそれ以上頼むこともなく出口へ向かった。史華は思わずその背中を追う。
「先輩、どこ行くんですか?」
「ホテル」
「今いるじゃないですか」
「予約した方」
「ああ、そうでした。場所は分かります?」
「地図もらった」
「なら大丈夫……ですかね」
「たぶん」
「やっぱり不安です」
史華がそう言ったところで、一緒にいた先輩警察官から声がかかった。
「西本、上に戻るぞ」
「はい」
返事をした史華が振り返ると、京子はもう自動ドアの近くまで行っていた。
「京子先輩」
「なに?」
「今度はちゃんと東口ですよ」
「うん」
「地図を見てくださいね」
「見るよ」
「途中で分からなくなったら誰かに聞いてください」
「分かった」
「……なんで私、久しぶりに会った先輩にここまで言ってるんだろう」
京子は少し考えた。
「心配だから?」
「そうですよ」
「ありがとう」
史華は一瞬黙ったあと、笑った。
「はい。どういたしまして」
京子がホテルを出ていく。史華はその姿が見えなくなるまで確認してから、先輩警察官とともにエレベーターへ乗った。
◇ ◇ ◇
ホテル・セントアーク十二階、一二〇七号室。
所沢一は、ベッド脇に置かれたビジネスバッグを見下ろしていた。室内はすでに一通り確認されているが、争った形跡はなく、窓も客が外へ出られるほど開かない。浴室やクローゼットに人が隠れているわけでもなかった。
「もう一度、残っていた物を確認する」
「はい。携帯電話、長財布、仕事用のバッグ。着替えというより、チェックイン時に着ていたスーツ一式と革靴が室内に残っています」
捜査員の説明を聞き、所沢が顔を上げた。
「チェックイン時はスーツだったのか」
「午後六時四十二分です。フロントと十二階の映像、どちらにも確認できます」
「その後は?」
「今のところ、佐伯直人と判断できる人物が客室から出た映像は見つかっていません」
「判断できる人物、か」
所沢はそこだけを繰り返した。
失踪している宿泊客は佐伯直人、三十八歳。都内の広告制作会社に勤務し、妻と中学生の娘がいる。ホテルは当日の午後になって予約されており、宿泊は一泊だけだった。
「会社には午後から休暇を取ると?」
「はい。理由は私用とだけ伝えていたそうです」
「家族には?」
「今日は仕事が長引くと話していました。帰宅が遅くなる可能性があると」
「ホテルに泊まることは」
「家族には伝えていません」
所沢は室内を見回した。ベッドはほとんど使われた形跡がなく、浴室にも入浴した様子はない。仕事用のバッグは開かれており、その脇には畳まれたスーツと革靴が置いてある。
「家族に届いたメッセージは?」
「午後六時五十七分です。『今日はかなり遅くなる。先に寝てて。連絡はしなくていい』と」
「六時五十七分なら、部屋に入った十五分後か」
「はい。送信後も携帯電話はこの部屋に残っていたと考えられます」
「考えられる、で止めておけ。送信元の確認は別に取れ」
「はい」
所沢がスマートフォンを見る。
「妻は、このメッセージを不自然だと?」
「最初は思わなかったそうです。ただ、普段なら帰宅が遅くても『連絡はしなくていい』とは書かないそうで、夜になって電話をかけたところ応答がありませんでした。その後も連絡がつかず、位置情報の共有がこのホテル付近を示したため、ホテルへ問い合わせています」
「それで客室を確認したら本人はいなかった」
「はい。ホテル側から警察へ連絡が入りました」
所沢は頷いた。これなら少なくとも、警察がこの部屋にいる理由までは繋がる。
「防犯カメラは十二階だけじゃなく、ロビーから全部見ろ。エレベーター、非常階段、出入口もだ」
「確認しています。ただ、今のところチェックイン時と同じ服装の佐伯は――」
「服装を基準に探すな」
捜査員が口を閉じる。
「佐伯に見える人間がいないことと、佐伯が出ていないことは同じじゃない。映っている全員を一度切り離して見ろ」
「分かりました」
所沢は窓の外へ目を向けた。事件だと決めるには材料が足りない。しかし、単なる外出と考えるにも不自然なものが残りすぎている。
そこへ史華が戻ってきた。
「警視、ご家族から追加でお話が取れました」
「聞こう」
「奥様によると、最近の佐伯さんは特に落ち込んでいる様子はなかったそうです。むしろここ二、三か月は、スマートフォンを見ながら機嫌が良さそうにしていることが増えていたと」
「理由は?」
「分からないそうです。ご本人からは特に何も聞いていません」
「他には」
史華は手元のメモを見る。
「自宅のパソコンについて、ご家族の了承を得て確認を進めています。最近、投資関係のサイトを何度か見ていた履歴があるそうです」
「投資?」
「はい。それと……」
史華が一瞬言いにくそうにする。
「青木ヶ原樹海について調べた履歴もありました」
部屋にいた何人かの表情が変わった。
「いつだ」
「一週間ほど前です」
「一度だけか?」
「現時点ではそこまでは分かっていません」
「なら先走るな」
「はい」
「投資を調べた。樹海を調べた。それだけだ。借金があるとも、自殺を考えていたとも分かっていない」
「はい」
所沢は少し考える。
「金銭関係は確認する。勤務状況と家族関係もだ。ただし最初から一つの筋書きに乗せるな」
史華は頷いた。
「警視、もう一ついいですか?」
「なんだ」
「佐伯さん、午後から休暇を取ったのに、ホテルの予約は今日の午後四時過ぎなんです」
「急に部屋が必要になった可能性があるな」
「私もそう思いました。宿泊する予定が前からあったなら、もう少し早く予約していてもおかしくないかなって」
所沢が史華を見る。
「いいところを見るな。ホテル側に予約経路と予約時刻を確認しておけ。周辺のホテルもだ。ここを選んだ理由があるのか、単に空いていたからなのかで意味が変わる」
「はい」
史華は嬉しそうに返事をしたあと、すぐ真面目な顔に戻って部屋を出ていった。
◇ ◇ ◇
一方、京子は駅前で立ち止まっていた。
ホテルのフロントでもらった地図には駅までの道も、東口の位置も、グランドリーフホテルまでの曲がり角も丁寧に書かれている。
問題は、京子が現在地を見失っていたことだった。
「……駅どこ?」
さっきまで見えていたはずなのに、建物の間を二度ほど曲がっただけで分からなくなった。
京子は地図を上下逆さまにしてみた。
「違う」
元へ戻す。
「……こっち?」
歩き出そうとしたところで、ふとホテルで聞いた話を思い出した。
携帯電話が部屋に残っている。
本人はいない。
家族にはその携帯電話からメッセージが届いている。
京子はその場に立ったまま、地図を見なくなった。
史華は「所在が確認できない」と言っていた。ホテルの人は「荷物も携帯電話も残っている」と言っていた。
そこまでなら、単に出かけただけでもおかしくない。
けれど、警察まで来ている。
「……何が変なんだろ」
京子はしばらく考えたが、材料が少なすぎる。頭の中にいくつかの形は浮かんでも、どれもすぐ崩れた。
そのとき、背後から声をかけられた。
「すみません」
振り返ると、大きな黒いケースを持った若い男が立っていた。黒いTシャツにキャップをかぶっている。
「駅って、こっちで合ってます?」
「分かんない」
「あ、すみません」
「私も探してる」
「ああ、そうなんですね」
男は苦笑して別の通行人へ聞きに行った。
京子はその背中を見送り、少し離れたところに同じような黒いTシャツ姿の男女が何人もいることに気づいた。ホテルで見かけた人たちと似ている。大きなケースを持つ者もいれば、紙袋を抱えている者もいる。
しかし、それだけだった。
京子は再び地図を見た。
「駅」
今はそちらの方が重要だった。
◇ ◇ ◇
ホテル・セントアークの防犯カメラ室では、捜査員がチェックイン時からの映像を確認していた。
午後六時三十八分。
スーツ姿の佐伯直人がホテルへ入ってくる。映像は鮮明ではないが、フロントで確認された本人の特徴とは一致していた。
その後、佐伯はチェックインを済ませ、エレベーターへ乗る。
午後六時四十二分、一二〇七号室へ入室。
そこまでは間違いない。
「問題はここからですね」
史華が画面を見ながら言った。
「佐伯さんと同じスーツ姿の人は出ていません」
「だからスーツを探すなと言っただろ」
後ろから所沢が言う。
「すみません」
「出入口を通った全員を見ろ」
映像を進める。
旅行客。
ホテルスタッフ。
スーツ姿の会社員。
家族連れ。
黒いTシャツ姿の男女。
同じような服装の人間が何度も画面を横切る。
「今日は何かあったのか」
所沢がホテルスタッフへ聞いた。
「近くのホールでイベントがありまして、当館にも関係者や参加者の方が何組か宿泊されています」
「関係者と参加者は見分けられるか?」
「申し訳ありません。服装だけでは難しいと思います」
「そうか」
映像の中では黒いTシャツ姿の男が大きなケースを持って外へ出ていく。その少しあとには、同じような服装の別の男がキャップをかぶってロビーを横切った。
史華が画面を見つめる。
「こういう人、かなり多いですね」
「多いな」
「佐伯さんが着替えてたら、見落とす可能性もありますよね」
所沢は答えず、映像を止めた。
「西本」
「はい」
「今の発想は忘れるな。ただし、それを答えだと思うな」
「はい」
「着替えたと仮定するなら、着ていた服が必要になる。部屋に何があるか、何がないかをもう一度確認しろ」
「分かりました」
史華が映像室を出ようとしたところで、所沢のスマートフォンが鳴った。
画面には齋藤孝之の名前が出ていた。
「どうした」
『警視、今セントアークですか』
「そうだ」
『京子がそっちに行ってませんでしたか』
所沢は数秒黙った。
「来ていた」
『やっぱり』
「ホテルを間違えたそうだな」
『……はい』
「お前が予約したのは別のホテルだと聞いた」
『グランドリーフです。東口って何度も確認しました』
「それでセントアークへ行ったのか」
『あいつに方角を教えた俺が悪かったです』
「そこまで言うか」
『二十四年見てますから』
所沢は小さく息を吐いた。
「もうここにはいないぞ」
『出たんですか?』
「かなり前にな」
電話の向こうが静かになった。
『警視』
「なんだ」
『仕事が片付いたので、そっち向かっていいですか』
「京子を探しにか?」
『半分は』
「残り半分は?」
『事件です』
「来るのは構わん。ただし、西条は捜査に関係ない。勝手に現場へ入れるな」
『分かってます』
「本当か?」
『それ、俺が聞かれる側ですか』
「お前が一番甘いからな」
『否定しづらいですね』
電話を切ったところで、史華が少し笑っていることに所沢が気づいた。
「何だ」
「いえ。齋藤さんも京子先輩のこと、すごくよく分かってるんだなと思って」
「幼馴染らしいからな」
「二十四年って言ってました?」
「聞くな」
「はい」
史華はまだ少し嬉しそうだったが、すぐに仕事へ戻った。
◇ ◇ ◇
京子がホテル・セントアークへ戻ったのは、それから四十分ほどあとだった。
自動ドアが開くと、ロビーにいた孝之がすぐに気づいた。
「京子」
「あ、孝之」
「どこ行ってた?」
「ホテル探してた」
「それは知ってる。なんでここに戻ってきた?」
「分かんなくなった」
「ホテルの場所が?」
「駅が」
孝之は何も言わず京子を見る。
「……地図は?」
「あるよ」
「見た?」
「見たよ」
「それで駅を見失ったのか」
「うん」
「あーそうか。地図があれば着くとは限らないよな。そこを俺が勘違いしてた」
「孝之も間違えるんだね」
「お前相手だとな」
孝之は大きく息を吐いた。
「とりあえずスマホ充電しろ。さっきフロントで借りられるって言われたんだろ?」
「言われた」
「なんで借りなかった?」
「ホテル違ったから」
「律儀にそこだけ守るんだな」
京子はフロントへ充電器を借りに行き、戻ってきたところでエレベーターから史華が降りてきた。
「京子先輩!」
「史華」
「戻ってきたんですね」
「迷った」
「やっぱり!」
「喜ぶな、西本」
後ろから所沢も降りてきた。
「こんばんは」
京子が挨拶すると、所沢は少し呆れたように見る。
「予約したホテルには着かなかったようだな」
「うん」
「その報告だけで全部分かるのが嫌だな」
孝之が横から言った。
「警視、すみません」
「お前が謝る必要はない」
「二十四年やってると、そうもいかなくて」
所沢は京子を見る。
「それで、戻った理由は迷子になったからだけか」
「ちょっと気になった」
「何がだ」
「消えた人」
「消えたと決まったわけじゃない」
「うん」
「ならいい」
京子は少し考えたあと、所沢へ聞いた。
「カメラ、本当に出てないの?」
「詳しい捜査内容は話せない」
「そっか」
あっさり引き下がった京子を見て、所沢が続ける。
「ただし一つだけ言っておく。『本人らしい人物が映っていない』ことと、『本人が出ていない』ことは同じではない」
京子が顔を上げた。
「顔は?」
「何だ」
「出るところ、顔見えてる?」
所沢は答えない。
孝之が京子を見る。
「何か気づいたのか?」
「まだ」
「じゃあ、なんで顔を聞いた」
「服、変えたら分かんないでしょ」
「それは今こっちでも確認してる」
史華が言ってしまい、すぐ口を押さえた。
「西本」
「すみません」
京子は史華を見る。
「服?」
「先輩、今のは忘れてください」
「うん」
「本当に?」
「たぶん」
「そこだけ記憶力悪くなってください」
所沢は二人の会話を無視して孝之へ向き直った。
「齋藤、少し付き合え。確認したいことがある」
「はい」
孝之が歩き出しかけると、京子も自然についてくる。
「京子」
「なに?」
「お前はここ」
「なんで?」
「捜査だから」
「部屋見たい」
「駄目だ」
「所沢さんも?」
「駄目だ」
「そっか」
またあっさり引く。
所沢は数歩進んだところで立ち止まり、京子を振り返った。
「西条」
「なに?」
「部屋の中で何が気になっている」
「分かんない」
「それでは見せる理由にならんな」
「うん」
「ただし、質問なら答えられる範囲で答える」
京子は少し考えた。
「泊まった形ある?」
所沢の表情が変わる。
「どういう意味だ」
「ベッド使ったとか、お風呂入ったとか」
孝之も京子を見る。
「京子、お前それ何で気になった?」
「ホテル泊まるなら使うかなって」
「人によるだろ」
「うん。でも泊まるつもりだったの?」
所沢はすぐには答えなかった。
ベッドはほとんど使われていない。浴室にも入浴した痕跡はない。室内に残っていたのは仕事用のバッグ、スーツ、革靴、携帯電話、長財布。
ホテルは午後四時過ぎに急きょ予約されている。
「……齋藤」
「はい」
「部屋へ戻るぞ」
「分かりました」
史華もすぐに続こうとした。
「西本も来い」
「はい!」
所沢が京子を見る。
「君は待っていろ」
「うん」
「不満そうだな」
「見たい」
「駄目なものは駄目だ」
「分かってる」
「ならいい」
三人がエレベーターへ向かう。
京子はロビーのソファへ座り、充電中のスマートフォンを膝に置いた。
目の前を、黒いTシャツ姿の人たちが何人か通り過ぎていく。
ホテルの外へ向かう者。
戻ってくる者。
大きな荷物を持っている者。
何も持っていない者。
京子はその光景をぼんやり眺めていた。
やがて、ほんの少しだけ首を傾げた。
「……泊まるためじゃない?」
誰に聞かせるでもなく呟く。
まだ答えではない。
ただ、佐伯直人がこのホテルを「宿泊する場所」として使っていたと決める必要はない。
京子はエレベーターの表示を見上げた。
十二階で止まっている。
今度は、ホテルへ来た理由の方が気になり始めていた。
ご意見ご感想あればぜひぜひコメントしてください。一言でも構いません。励みになります。
私はいつでもMinority




